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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2025年12月28日 
「逃れて」加藤豊子牧師
マタイによる福音書2章13−15節



 2章前半には、東方の占星術の学者たちがエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と言って、ヘロデ王のところを訪ねてきたことが語られています。そして「これを聞いて、ヘロデは不安を抱いた。」のです。



 ヘロデ王とは、どのような人物だったでしょう。彼はローマ帝国の皇帝の庇護の元、「ユダヤ人の王」として権勢をふるっていました。権力への欲望と猜疑心が非常に強く、自分の身を脅かしそうな人に対しては、たとえ家族であってもその命を奪うことを厭いませんでした。「ユダヤ人の王が生まれた」という知らせが届き、彼は一刻も早くその赤子を見つけ出して殺さなければならないと考えたわけです。



 幼子イエスとヨセフ、マリアはエジプトへと逃れました。そしてヘロデが死ぬまでそこに留まります。「主が預言者を通して言われていたことが実現するため」とあるように、このことは神様のご計画の中にあることでした。



 学者たちが、自分の元に戻って来ないことを知ったヘロデはおおいに怒り、命令が下されました。「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させた。」(16節) 恐ろしい虐殺です。クリスマスの出来事の中で一番暗い部分ではないでしょうか。子どもを殺されて激しく泣き叫ぶ親たちの声が響き、また命令とはいえ、それを実行した兵士たちの心にも、深い傷を残したのではないでしょうか。



 ヘロデが抱えていた深い心の闇、この世界の現状、わたしたち一人一人の心を見つめるとき、そこに、自分の力では解決することができない罪の問題、闇の深さを見させられます。その罪から救う唯一の救い主として、闇の中に輝く光としてイエス・キリストはお生まれになったのです。
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 2025年12月21日 
「闇の中に輝く光」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書1章1−9節



 クリスマスの光…私たちは何を思うでしょうか。ろうそく、星、クリスマスに輝く様々な光がある中で、聖書は、イエス・キリストご自身が光である、と語っています。



 ヨハネによる福音書1章は、「初めに言があった」という印象的な言葉で始まりますが、「言」はイエス・キリストのことを表しています。そして、その「言」キリストの内には命があり、人間を照らす光であることが語られ、さらに「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と続きます。口語訳では「闇はこれに勝たなかった」闇は光に勝たなかった、と訳されています。元々は「捕らえる」という言葉が使われています。ですから、闇は光を捕らえる、捕まえることができなかった、となります。



 朝が来れば、闇は退くしかありません。闇は光を捕らえることができません。まことの光であるイエス様がおられます。そこに向かってどんなに闇が押し迫り、光を消し去ろうとしても、キリストの光は輝き続けるのです。 この世界に、またわたしたちの人生、心の中に、光と闇の戦いというものが、今なお繰り広げられているのではないでしょうか。わたしたちの心が不安や心配な思い、この先どうなるのだろうか…と思う、そのような思いに闇のように覆われることがあるかもしれません。そして闇は突然訪れることもあるかもしれませんが、いつの間にか広がり、占領していくかもしれません。



 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(14節)これがまさに、クリスマスの出来事です。この地上に神の子が人となってきてくださった。そして十字架と復活を通して救いの業を実現してくださった。罪と死の力に打ち勝ってくださった。わたしたちがどんなに弱く小さな者であっても、どのような闇が迫りくることがあっても、わたしたちはそこに、輝くキリストの光を見ることができることを感謝したいと思います。
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 2025年12月14日 
「宿もなく」加藤豊子牧師
ルカによる福音書2章1−7節



 わたしたちが目にし、耳にするクリスマスは、楽しく華やかな雰囲気に溢れています。しかし聖書に記されている神の子イエス・キリストの誕生物語は、そのような華やかさとは無縁なものでした。そこにはヨセフとマリアの驚き、戸惑い、不安、苦悩…そのような重苦しい思いがあり、その中でクリスマスの出来事が進んで行ったのです。



 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」(1節)

 皇帝アウグストゥスとは、ローマ帝国の初代皇帝のことです。彼によって戦乱が続いていた地中海一体に平和がもたらされ、「アウグストゥス」という称号が与えられました。その意味は、「尊厳ある者」「崇高なる者」というもので、当時人々から救い主、神の子とも呼ばれ、人間でありながら、神のように崇められる存在でした。そのような、この世の王が絶大な権勢をふるっている中で、まことの王、救い主が、旧約の預言通りにダビデの血筋から、ベツレヘムの小さな町で、ひっそりとお生まれになったことが、ここに示されています。



 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」「宿屋」といっても、宿泊施設があったわけではなく、部屋を提供してくれる家に泊まらせてもらう、ということだったと思われます。しかし、空いている部屋がなかったのです。居場所がなかったのは、このときだけではありません。天使のお告げを聞いたそのときから、彼らは居場所のない者とされました。ナザレの村に一人マリアを残しておくわけにはいかず、ヨセフは身重のマリアを連れて危険な旅をしたのです。安心していられる場所がないと言う中に、救い主はお生まれになりました。



 救い主はわたしたちの孤立、孤独に寄り添うお方であり、またわたしたちの心に住み、宿ってくださるお方です。わたしたちは主イエスを通して、命と希望を見出す者とされるのです。
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 2025年12月7日 
「救い主の誕生」加藤豊子牧師
マタイによる福音書1章18−24節



 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(18節)

 今から2000年ほど前、当時ユダヤでは結婚の前に約1年間の婚約期間がありました。法的には結婚していますが、まだ一緒に生活はしていない、ということです。そしてこの間に、マリアが聖霊によって身ごもった、ということが起こったのです。ヨセフはマリアから話を聞いたでしょうが、どうしてそのようなことを信じられるでしょうか。もしマリアが、夫となるヨセフ以外の人との間に子どもができたということになると、石打の刑を受けることになるかもしれません。悩んだ末に、ヨセフは「ひそかに離縁する」という結論を出しました。



 すると主の天使が夢でヨセフに現れて、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と告げたのです。「聖霊によって」とはどういうことでしょうか。イエス・キリストの系図を見れば、アブラハムに始まってイサク、ヤコブと多くの人が登場します。それは、誰かから誰かが生まれて…という人の営みが繰り返されてきた歴史のわけです。そこに、神様が特別なかたちで介入された。神の力によってマリアが身ごもった。人間の力を越えた、神の力が働かれたことが、そこに示されています。



 さらに「この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げられました。イエス・キリストの系図が示しているものは、わたしたち人間の繰り返されてきた罪の歴史でもあります。造り主なる神を忘れ、自分の腹を神とし、自分の欲望に従う生き方、それは滅びへと向かうことです。この罪からすべての民を救うために、イエス・キリストは誕生されたのです。クリスマスの大いなる恵みを感謝したいと思います。
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