| シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
| 2026年1月 | 4日 | 11日 | 18日 | 25日 | 目次に戻る |
| 2026年1月25日 |
| 「ともし火」加藤豊子牧師 ルカによる福音書11章33−36節 |
◇ 「ともし火」と聞いて先ず思うのは、イエス・キリストご自身がともし火、闇を照らす光であるということです。また詩編119篇105節には、「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」と、神の言葉が道を照らす光、ともし火であると語られています。わたしたちの周りは光であふれていて、夜も明るすぎて星が見えないほどです。イエス様の時代、電気など通っていないわけで、夜家の中を明るくするには、ともし火しかありませんでした。そのともし火は、室内を明るく照らす場所に置かれるべきものです。 ◇ 「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」(34節) ユダヤの文学によれば、目が澄んでいるというのは、心の目が単純であり、二心を持たないことを意味するそうです。まっすぐに、素直な心で見ることができる、ということではないでしょうか。先週は「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」という主イエスの言葉を聞きました。どのような心で主イエスを見、またその言葉を聞くのかが問われています。 ◇ わたしたちは信仰の旅を続けています。イエス・キリストという光を頂いて、素直な心で神の言葉を聞き続ける中で、主イエスが示された愛と赦しの道をたどる者でありたいと願います。 |
| 2026年1月18日 |
| 「真の幸い」加藤豊子牧師 ルカによる福音書11章27−32節 |
◇ イエス様がお話をされていると、ある女性が声高らかに言いました。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」。イエス様が行われた様々な不思議な業、そして語られた言葉を聞いて思わず、イエス様あなたを産み育てた母、マリアは何と幸せなことでしょう、と言ったのではないでしょうか。 ◇ それに応えて主イエスは言われました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(28節)主イエスの言われる「真の幸い」とは、神の言葉を聞くこと、そしてそれを守ることである、そう語られています。「神の言葉」…それはわたしたちに救いの道を示す言葉です。この言葉を聞いた人が、イエスは神の子メシア、わたしの救い主であると信じる信仰へと導かれるように与えられたものです。 ◇ 主イエスの目の前にいるユダヤ人たちは、主イエスを神の子として信じることはできず、イエスを試そうとして天からのしるしを求めました。しるしを求める人々に対し、「今の時代の者たちはよこしまだ。」と言われ、「ヨナのしるし」について語られました。異邦人であるニネベの人々はヨナの言葉を聞き、悔い改めて救われました。ヨナはニネベの人々に対してしるしとなったのです。そしてさらに「ここに、ヨナにまさるものがいる」と、イエス・キリストこそ、神の救いを示すしるしであることが語られています。 ◇ わたしたちの幸いはどこにあるでしょうか。持っている物、置かれた環境に左右されるようなものでしょうか。いつの時代もわたしたちは、神の言葉を聞き、イエスを救い主と信じその弟子として歩む道に、真の幸いを見出すことができると語られています。 |
| 2026年1月11日 |
| 「求めなさい」加藤豊子牧師 ルカによる福音書11章5−13節 |
◇ 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9節) クリスチャンでなくても、誰もが知っている聖句です。あきらめないで努力すれば、必ず道は開かれる…そのような意味で受け止められることが多いのではないでしょうか。それは、人間の努力や業というものに目を向けている姿勢です。しかし主イエスは、わたしたちを、天におられる神、父よと親しく呼びかけることができるお方に目を向けるように、と招いておられます。 ◇ 真夜中に、「友よ、パンを3つ貸してください。」と頼んだという人のたとえ話が語られています。それは訪ねてきた旅行中の友のために必要なものでした。当時旅人を泊めてもてなすというのは、御馳走をふるまうというのではなく、その人の命を守るという意味も持っていたといいます。「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えられるであろう。」(8節)「しつように」という言葉には、恥知らずという意味もあります。誰かのために、恥をも顧みずに求め続ける、そのような祈りの姿勢が求められています。 ◇ 「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(13節) 難しいと思える祈りの課題があります。いつ、どのように聞かれるのだろう、と思うこともあります。聖霊、神様が働いてくださらなければ、どうにもならない、と思う課題があります。わたしたちは、良い物、聖霊をくださるという約束を信じて、祈り続けるように招かれています。今も、神様は生きて働いておられる方であります。 |
| 2026年1月4日 |
| 「主の祈り」加藤豊子牧師 ルカによる福音書11章1−4節 |
◇ 「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」(3節) 戦時中の貧しさ、飢えを経験された方は、毎日の食事があることの有難さが分かるのではないでしょうか。今は、フードロスが問題になるほど、食べ物があふれています。しかし、豊かそうに見えるこの時代でも、表に見えにくい貧困という問題もあります。 ◇ 昔イスラエルの民は40年、荒れ野を旅しました。モーセに導かれ、奴隷であったエジプトから脱出し、40年もの間さまよったのです。民は、マナという不思議な食べ物によって養われ続けました。マナは、毎朝神様によって天より与えられ、人々はその日の分、それぞれが必要な分を集めた、欲張って次の日の分も集めると、それは腐ってしまった、と記されています。このことは、わたしたちが神様によって養われて生きる民であることを示しています。ともすると私たちは、自分に力で働き、それによって得たもので食べている、生きている、と思います。しかし、わたしたちの命は神様の御手の中にあり、わたしたちは神様に養われ、生かされているものなのです。 ◇ 「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」(4節) 礼拝でささげる主の祈りと比べると、「わたしたちの罪を赦してください。」という言葉が先になっているのがわかります。わたしたちは先ず、罪を赦していただかなければならない者である、神の前での罪の自覚が求められています。自分の人生において、神は必要ないとする、自分中心な生き方そのものが罪であることを聖書は示しています。そして聖霊なる神の働きによってのみ、わたしたちは自分の罪がわかるのです。その先に、互いに赦し合い愛し合う道が、導かれていくことを覚えたいと思います。 |