←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2026年5月 3日 10日 17日 24日 31日 目次に戻る
 2026年5月24日 
「力強い証し」加藤豊子牧師
使徒言行録2章36−42節



 「…はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36節)

 使徒言行録2章は、祈り待ち望んでいた弟子たちの上に、主イエスが約束された聖霊が豊かに降った出来事を伝えています。力を受けて立ち上がったペトロの説教には、イエスが神から遣わされた救い主であること、十字架に架かられ、神がイエスを復活させられたこと、ペトロたちはその証人であるということが語られました。そして最後に、あなたがたがイエスを十字架につけたのだ、と迫っています。



 人々はこれを聞いて「大いに心を打たれた」とあります。「心を打たれる」とは、悔いて残念に思うその思いが、自分の心を刺し貫くという意味だそうです。自分が神の前に罪人であること、救いを必要としている者であることがわかる、それは真理を悟らせる、聖霊の力です。「悔い改めなさい、めいめいイエス・キリストの名よって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」というペトロの言葉を受け入れてその日、3千人ほどの人々が洗礼を受け、仲間に加わったと記されています。



 最初の教会の誕生です。この驚くべき出来事は、ペトロの説教が力強い素晴らしい説教だったから、後世に残る名説教だったから起こったのでしょうか。それもあるかもしれませんが、何よりもそこに聖霊の働きがあった、真理を悟らせる霊、罪を示し悔い改めに導く、信仰へと導く聖霊の豊かな働きがそこにあったことを思います。そして教会は、たとえ困難な試練の中を通されても、いつの時代も信仰を告白する者が与えられ今日まで導かれてきました。

 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(42節)
目次に戻るページトップ
 2026年5月17日 
「大きな喜び」加藤豊子牧師
ルカによる福音書15章1−7節



 今朝の説教題は「大きな喜び」です。15章には3つのたとえ話が語られています。「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」、このたとえ話を貫いている共通の主題は、「失われたものが見つかった大きな喜び」であります。



 「見失う」と言う言葉は「lose」失う、なくすという言葉が使われています。見失った一匹は、lost sheep、失われた羊、行方不明になった羊です。そして「見失った一匹を見つけ出すまで捜しまわらないだろうか」と、見つけるまで一生懸命に一匹を捜す、羊飼いの姿が記されています。10枚の銀貨を持っている女は、その一枚を無くしました。無くしたというのは、失うと同じ言葉が使われています。そしてその女は、無くした一枚を見つけるために念入りに家中を探すのです。



 そして見つけたならば、友達や近所の人々を集めて「一緒に喜んでください」と言って喜ぶその姿は、見失ったものを見つけた、神様の大きな喜びをというものを伝えています。その喜びと共に、見失った一匹、一人が、神様にとってどんなに大切な存在なのかも語られています。いなくなってもかまわないという一人は、いないのです。



 徴税人たちが、主イエスの話を聞こうと近寄ってきたとき、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、ファリサイ派の人たちは不平を言いました。このたとえは、自分たちこそは神の前に正しい者だと自負していた彼らに向かって語られています。彼らもまた神様の前には、御声を聞きを悟ることのできない、見失われた者であると言えるのではないでしょうか。



 このたとえに示されている神様の思いを、知る者でありたいと願います。
目次に戻るページトップ
 2026年5月10日 
「主イエスの弟子」加藤豊子牧師
ルカによる福音書14章25−35節



 「弟子の条件」という小見出しがつけられていますが、弟子になるための諸条が示されていて、その一つでも欠けたら弟子になることはできない、とそのようなことが言われているのではありません。イエス様の弟子であるとは、弟子であり続けるとはどういうことなのか、について語られています。



 イエス様は、後ろからついてくる大勢の群衆に向かって語られました。彼らの中には、自分の病気を治してほしい、貧しさから救って欲しい…など、自分のために何かを求めて、ご利益を求めてついてきた人が多くいたことでしょう。そのままでは、弟子になることはできない、と主イエスは言われたのです。



 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(26節)

 憎む、という厳しい言葉に戸惑いを覚えますが、マタイの方を読むと「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。…」とあります。家族への愛が否定されているわけではなく、わたしたちにとって、最も愛すべきお方が神であることが示されているのです。家族に関することを、自分のものとして握っているのではなく、すべてのことを益となるように働いてくださるという、神の御手に委ねることが示されているのではないでしょうか。



 「弟子」とは学ぶ者という意味があります。主イエスの弟子となるとは、イエスの後について行くことです。愛ゆえに、わたしたちのために十字架を背負われた、その背中を見て学び続ける者であるようにと招かれています。
目次に戻るページトップ
 2026年5月3日 
「神の言葉はとこしえに」加藤豊子牧師
イザヤ書40章6−8節



 「草は枯れ、花はしぼむ」…これは、わたしたちの周りで見られる当たり前の自然の姿です。季節が変わるごとに草花も変わり、景色が変わる。そこに見られるのは、自然の美しさです。しかし、イザヤ書40章では、その後に「主の風が吹き付けたのだ」と記されています。これは、神様の裁きを思わせる風が吹き付けたことを示しています。



 イザヤ書40章は、バビロン捕囚の後期、第二イザヤと呼ばれる預言者によって語られました。「慰めよ」という言葉で始まりますが、イザヤは50年に及ぶ捕囚の苦しみのときは終わった、と人々に慰めを伝えるように命じられています。



 パレスチナでは春になると、一度に花が咲きます。しかし夏になると熱風が吹き付けて、一瞬の内に美しく咲き誇った花々を枯らせてしまうのだそうです。肉なる者、人間も何とはかなく、もろい存在でしょうか。主の風が、神様からの激しい風が吹き付けたなら、ひとたまりもなく、枯れ果ててしまうのです。



 しかし8節にはこう語られています。「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」「とこしえに立つ」と言われる、決して変わることのない、神様の約束の言葉が与えられています。



 神と人との間に交わされた契約、それは神様からの一方的な愛の契約であると言えます。人は何度も繰り返しその契約を破り、背き続けてきました。しかし神は、ご自分の民に与えた契約をいつまでも覚えておられるお方であり、わたしたちのために、救い主イエス・キリストを与えてくださったのです。



 「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13:8)
目次に戻るページトップ