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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2026年6月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2026年6月28日 
「感謝した人」加藤豊子牧師
ルカによる福音書17章11−19節



 イエス様は、エルサレムへと向かう途上にありました。「サマリアとガリラヤの間を通られた」とありますが、多くのユダヤ人はサマリアを避けて通ります。歴史的な背景があって仲が悪かったのです。



 主イエスはあえてそこを通られ、10人の重い皮膚病を患っている人を癒してくださった、という出来事が記されています。この病は祭司によって汚れていると言い渡され、また治ったときは祭司によって清いと宣告してもらわなければならないのです。人に近づくことを禁じられるなど、肉体のみならず精神的にも大きな苦痛を伴うものでありました。



 10人の人は遠くの方に立ち止まったまま、「わたしを憐れんでください」と叫びます。すると主イエスは「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい。」と言われました。主イエスが言われたのは、ただその言葉だけでした。そしてその言葉を信じて歩き出したその途中で、清くされたと記されています。



 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」

 他の9人は、祭司のもとへとひたすら急いだのでしょうか。ただ一人、しかもサマリア人が主イエスのもとに戻ってきたのです。「イエスの足もとにひれ伏して」と言う言葉は、イエスの前に自分自身を投げ出したとも訳されています。自分の身に起こったことに圧倒され、感謝すると共に、自分自身を主イエスの前にささげている姿があります。



 「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この救いの言葉を、戻ってきた一人のサマリア人は聞くことができました。この人はここから立ち上がり、神を賛美し感謝をささげ、神に自分自身をささげていく歩みへと導かれたのではないでしょうか。
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 2026年6月21日 
「弟子たちへ」加藤豊子牧師
ルカによる福音書17章1−10節



 イエス様と弟子たちは、エルサレムへ向かう途上にありました。弟子たちとの別れの時が近づいている中、いくつかのことが語られていますが、なかなか厳しい内容であることを思わされます。



 「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」

 後に弟子たちは人々に福音を伝え、そこに教会が誕生します。そして教会では今日に至るまで、様々なことで誰かがつまずくということが起こりました。使徒言行録を読むと、実に諸問題に直面したことがわかります。教会の指導者となる弟子たちが、先ずつまずきをもたらす者とならにようにと語られているのではないでしょうか。



 「…そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 誰かを赦すこと…これはわたしたちにとって、一番難しいことではないでしょうか。神様は、イエス・キリストを通してわたしたちの罪を赦してくださいました。その罪の赦しというのは、わたしたちの数々の罪を神は忘れてくださるということだ、とある人は言いました。わたしたちは、そのように忘れる、赦すことができない者です。



 「わたしたちの信仰を増してください。」と弟子たちは主イエスに願いました。この願いには、信仰を自分たちの所有物のようにとらえ、量的に増やせると考えているような姿が見られます。自分たちの信仰は足りない。でももっと増えたなら何度でも赦せるようになり、またより大きな働きを担うことができる、と考えたかもしれません。



 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…」と言われたように、信仰は量ではかれるものではありません。けれどもそこに神が与えてくださる信仰があるならば、人の思いを超えた大いなる神の業を見る者とされるのではないでしょうか。
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 2026年6月14日 
「金持ちとラザロ」加藤豊子牧師
ルカによる福音書16章19−31



 主イエスは「金持ちとラザロ」というお話をされました。そこに登場する金持ちの姿は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」と、金持ちの中でも最上級な贅沢な暮らしぶりです。片や貧しい人は「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹をみたしたいものだと思っていた。…」とあるように、こんなにもみじめな姿があるだろうかと思うほどの貧しい姿です。そして、この二人が死んだ後のことが次に書かれています。ラザロは、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。けれども金持ちは、陰府でさいなまれながら、炎の中で苦しんでいる。生きている時と死んだ後で、二人の姿が逆転している有様です。主イエスはこのお話の中で、金持ちは悪人で、ラザロは善人であったとは言っていないし、金持ちは不信仰でラザロは信仰深かったとも言っていないのです。



 主イエスは、誰に向かってこのお話をされたのでしょうか。14節に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」とあります。ファリサイ派の人々は、富は神様の祝福のしるし、と理解していました。自分たちが正しく生きているから、神様がそのことに報いて、豊かに富む者としてくださった、と考えるわけです。すると、貧しいということが、神様から報い、罰として与えられていることになってしまいます。主イエスはそのような考え方を、はっきり否定されました。



 「ラザロ」という言葉は旧約では「エレアザル」となり、その意味は「神はわが助け」です。神様の目から見れば、わたしたちは皆貧しく、ボロボロの姿をしたものなのです。ラザロを通して示されているのは、神様の助けがなくては生きて行けないという、わたしたち自身の姿ではないでしょうか。
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 2026年6月7日 
「忠実な者」加藤豊子牧師
ルカによる福音書16章1−13節



 主イエスが語られた「不正な管理人」のたとえは、大変理解しにくいお話です。主人の財産を無駄使いしていたという管理人がいて、そのことが主人に告げ口されてしまいます。彼は管理の仕事をやめさせられても困らないようにと、自分を家に迎えてくれる友達を作ろうとします。具体的には、主人に借りのある人を呼んできて、その証文を書き直させて、安くしてあげたのです。油100パトスを50パトスへ、小麦100コロスを80コロスへ…これは、相当な金額を安くしたことになります。



 主人にとっては大損のはずです。しかし主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたのです。この世の子らは光の子らよりも賢くふるまっていると言って、その賢さを評価されています。不正を行うことが勧められているわけではありませんが、何故主イエスはこの管理人の賢さを認め、褒められたのかと不思議に思わされます。



 「どんな召使も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(13節)

 弟子たち、そしてわたしたちに向けて語られている言葉です。わたしたちは、神と富と、その両方を主人として仕えることはできないとということです。



 「富」は元の言葉で「マモン」と言います。その意味は「頼りになるもの」です。わたしたちが神様ではなく、富を頼りに生きて行こうとするならば、その富は偶像のようになり、やがてわたしたちはその富に支配されるようになるかもしれません。富はお金だけではありません、わたしたちは様々な良い物、富を神様から託されているのです。そしてその富を、神様の期待に応えて用いるようにと招かれています。
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