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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2026年6月14日 
「金持ちとラザロ」加藤豊子牧師
ルカによる福音書16章19−31



 主イエスは「金持ちとラザロ」というお話をされました。そこに登場する金持ちの姿は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」と、金持ちの中でも最上級な贅沢な暮らしぶりです。片や貧しい人は「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹をみたしたいものだと思っていた。…」とあるように、こんなにもみじめな姿があるだろうかと思うほどの貧しい姿です。そして、この二人が死んだ後のことが次に書かれています。ラザロは、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。けれども金持ちは、陰府でさいなまれながら、炎の中で苦しんでいる。生きている時と死んだ後で、二人の姿が逆転している有様です。主イエスはこのお話の中で、金持ちは悪人で、ラザロは善人であったとは言っていないし、金持ちは不信仰でラザロは信仰深かったとも言っていないのです。



 主イエスは、誰に向かってこのお話をされたのでしょうか。14節に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」とあります。ファリサイ派の人々は、富は神様の祝福のしるし、と理解していました。自分たちが正しく生きているから、神様がそのことに報いて、豊かに富む者としてくださった、と考えるわけです。すると、貧しいということが、神様から報い、罰として与えられていることになってしまいます。主イエスはそのような考え方を、はっきり否定されました。



 「ラザロ」という言葉は旧約では「エレアザル」となり、その意味は「神はわが助け」です。神様の目から見れば、わたしたちは皆貧しく、ボロボロの姿をしたものなのです。ラザロを通して示されているのは、神様の助けがなくては生きて行けないという、わたしたち自身の姿ではないでしょうか。
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 2026年6月7日 
「忠実な者」加藤豊子牧師
ルカによる福音書16章1−13節



 主イエスが語られた「不正な管理人」のたとえは、大変理解しにくいお話です。主人の財産を無駄使いしていたという管理人がいて、そのことが主人に告げ口されてしまいます。彼は管理の仕事をやめさせられても困らないようにと、自分を家に迎えてくれる友達を作ろうとします。具体的には、主人に借りのある人を呼んできて、その証文を書き直させて、安くしてあげたのです。油100パトスを50パトスへ、小麦100コロスを80コロスへ…これは、相当な金額を安くしたことになります。



 主人にとっては大損のはずです。しかし主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたのです。この世の子らは光の子らよりも賢くふるまっていると言って、その賢さを評価されています。不正を行うことが勧められているわけではありませんが、何故主イエスはこの管理人の賢さを認め、褒められたのかと不思議に思わされます。



 「どんな召使も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(13節)

 弟子たち、そしてわたしたちに向けて語られている言葉です。わたしたちは、神と富と、その両方を主人として仕えることはできないとということです。



 「富」は元の言葉で「マモン」と言います。その意味は「頼りになるもの」です。わたしたちが神様ではなく、富を頼りに生きて行こうとするならば、その富は偶像のようになり、やがてわたしたちはその富に支配されるようになるかもしれません。富はお金だけではありません、わたしたちは様々な良い物、富を神様から託されているのです。そしてその富を、神様の期待に応えて用いるようにと招かれています。
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