| シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
| 2026年8月 | 2日 | 9日 | 16日 | 23日 | 30日 | 目次に戻る |
| 2026年8月23日 |
| 「声高らかに」加藤豊子牧師 ルカによる福音書19章28−44節 |
◇ 「エルサレム入城」の出来事は、4つの福音書すべてに記されています。マタイによる福音書では、ゼカリヤ書9章の言葉が引用され、「見よ、あなたがたの王が来る。…高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って…」と、ろばの子に乗ってエルサレムへ入られる主イエスの姿が示されています。「高ぶることなく」という言葉は「貧しい」と訳される言葉であり、「低くされた者」という意味を持ちます。神の子の身分でありながら低くされた、人となられ、十字架に架かられたイエス・キリストの姿と重なります。 ◇ 「…弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。」(37節) ルカだけが群衆ではなく、弟子の群れが声高らかに神を賛美したと語っています。弟子たちが今まで主イエスの側にいて見て来た様々な出来事、病がいやされ、主イエスの語られる言葉に人々が感動し、ザアカイのような人が変えられるという出来事を思い起こし、喜び賛美の声をあげています。「天に平和、いと高いところには栄光」と、あのクリスマスの誕生物語の中で、天使が歌ったのと同じ言葉で賛美をささげています。弟子たちは、これから起こるイエス様の十字架の出来事をまだ知りません。けれどもこれは、弟子たちの心からの賛美の声だったでしょう。ファリサイ派の人々はこれを聞いて、「先生、お弟子たちを叱ってください。」と言います。しかし主イエスは「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」と答えられました。 ◇ 「主がお入り用なのです」この言葉は、イエス様がこのろばの子の本当の持ち主である、ということを示しています。イエスさまは、わたしたち一人一人に対しても同じことを言ってくださるのです。あなたはわたしのものである。わたしがただ一人の真の主人であると。そして、それぞれを主の働きのために用いでくださるのです。 |
| 2026年8月16日 |
| 「託されたもの」加藤豊子牧師 ルカによる福音書19章11−27節 |
◇ 「ムナのたとえ」このたとえ話をもって、イエス様のエルサレムへと向かう旅が終わります。「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていた」という言葉からは、人々が、イエス様が権威ある王の座につかれ力によって支配されるという、そのような意味での神の国が、すぐにも現れることを期待していたことがわかります。 ◇ マタイによる福音書のタラントンのたとえと比べてみると、内容は似ていますが、金額の単位などが異なります。さらにある人に5タラントン、また2タラントン、1タラントンとあるように、それぞれの力に応じて異なる金額が預けられています。タラントンは、才能、能力を表す言葉であり、神様がわたしたち一人一人に異なる賜物、能力を与えてくださっているということでしょう。 ◇ ムナのたとえでは、10人に10ムナ、すなわち一人に一ムナずつ預けられています。皆に同じように預けられているこの一ムナとは、何を意味しているのでしょうか。 ◇ 一ムナとは神の言葉、福音であると語られることがあり、またそれぞれに与えられている一度限りの人生のことだ、と捉える人もいます。 主イエスを救い主と信じる信仰も、神様が一人一人に与えてくださった一ムナであると言えます。このたとえは、イエス様が目に見える姿ではおられない時代、再び来られる日を待ち望みながら、わたしたちがどう生きていくのかが問われているお話です。 ◇ 今わたしたちの世界は困難な問題に直面し、また日々の歩みに於いても、様々な問題が起こってきます。しかしわたしたちは主イエスに結ばれた者であり、聖霊なる神の力に助けられながら、与えられた一ムナの信仰を大切に、信仰によって生きる歩みへと招かれています。一ムナは個人に託されたものであり、信じる者の群れである教会に託されたものでもあります。 |
| 2026年8月9日 |
| 「捜してくださる方」加藤豊子牧師 ルカによる福音書19章1−10節 |
◇ 徴税人は、ローマに納めるための税金を定められた額よりも多く集めることで、利益を得ていました。ユダヤの人々はその仕事内容を知っていたので、彼らを軽蔑していました。罪人や強盗などと同様に扱われ、神の民の資格がないものとみなされていました。お金は有り余るほどあっても、人々との交わりから疎外され、忌み嫌われる存在だったわけです。 ◇ そこにイエス様が来られました。ザアカイは背が低かったので群衆に遮られて見ることができません。仕方がないので、いちじく桑の木に登ったところに主イエスが通りかかり、上を見上げて言われました。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節) ザアカイ、と主イエスは名前を呼ばれました。名前だけではなく、ザアカイのすべてを知っておられるのです。「泊まりたい」というのは単なる願望ではなく、「泊まらなければならない」「泊まることになっている」という強い意味があります。あの人は神の民ではない、と思われていたような人が、神様のご計画の中で救いへと招かれています。 ◇ 急いで降りて来て、喜んで主イエスを迎えたザアカイは、財産の半分を貧しい人々に施し、だまし取っていたものがあれば四倍にして返すと言いました。この思い切った決断は、強いられたものではなく、自ら進んでしたことでした。お金がすべてであったザアカイはイエス・キリストに捕らえられ、大きな価値の転換が起こったわけです。 ◇ 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10節)ルカ15章でも、見失った羊、無くした銀貨、放蕩息子のたとえを通して、見失ったものを熱心に捜し求めてくださる父なる神の姿が語られていました。エルサレムへの旅の終わりに改めて、主イエスがわたしたちのところに来られた目的が明確に示されています。 |
| 2026年8月2日 |
| 「人の子イエス」加藤豊子牧師 ルカによる福音書18章31−34節 |
◇ 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、…そして、人の子は三日目に復活する。」(32.33節) 主イエスは12弟子だけを特別に呼んで、ご自分の死と復活について語られました。三度目のことです。 ◇ 「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」(34節) 三度も繰り返し語られたのに、何故分からなかったのでしょう。それは「隠されていたからだ」とあります。隠されていた、とは覆いが掛けられている様子です。覆いがかかっているのは、聞く人の心の方ではないでしょうか。物分かりが悪く、心の鈍い者よ、と主イエスは言われますが、心が曇っているので見えない、理解できないということです。しかし後に、その隠された意味が明らかになる時、主イエスの死と復活の意味を悟る時が来るのです。 ◇ エルサレムを背にして、失意の内に歩く弟子たちがいました。主イエスが近づいて来られましたが、彼らの目は遮られていて、主イエスだと分かりません。主イエスが聖書全体にわたって解き明かされ、いつものようにパンを裂いて渡されたときに、二人の目が開け、イエスだとわかった。聖書を解き明かしてくださったとき、心が燃えたではないか、と記されています。 ◇ キリスト者として生きるわたしたちの心もいつのまにか覆いがかかったようになり、主の御心が見えなくなっていることがあるかもしれないと思わされます。「人間にはできないことも、神にはできる。」(27節)主イエスはわたしたちの為に救いを成し遂げてくださったお方であり、またわたしたちの心の覆いを取り除いてくださるお方です。 |