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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2026年9月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2026年9月13日 
「誰のものか」加藤豊子牧師
ルカによる福音書20章20−26節



 祭司長、律法学者たちは「イエスを殺そうと謀った」「イエスに手を下そうとした」のですが、民衆をおそれてどうすることもできませんでした。そこで彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえようとしました。



 「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(22節)

 これは、イエス様を陥れるために用意された、実に巧みな質問でした。人々は、イエス様が自分たちをローマの支配から解放してくれる王となってくれるのではないかと期待していました。そのような中で、皇帝に税金を納めることを肯定すれば、人々は失望することになるでしょう。反対に、税金を納めることを否定すれば、ローマに反逆する者として、総督に訴えることができる。どちらに答えても、主イエスを追い詰めることができると考えたわけです。 



 主イエスはデナリオン硬貨を見て、誰の肖像、名前が刻まれているのかと問われ、彼らが「皇帝のものです」と答えると、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。皇帝の支配と、神の支配は並んで存在しているのではない。あらゆるものは、神の権威、支配の元にあり、その支配が及ばないところはないことが示されています。



 「神のものは神に返しなさい」この言葉は先ず、民の指導者たちに向けて語られています。ぶどう園のたとえ話では、主人から託されたぶどう園を自分のものとし、さらにその跡継ぎまで殺した農夫たちのことが語れていました。それは、民の指導者たちの姿そのものでした。



 また「神のものは神に…」この言葉はわたしたちすべてのキリスト者に向けても語られています。わたしたちが持っているすべてもの、時も宝も、また能力もすべて神から与えられ託されたものです。日々の生活の中で、そのことを覚えるものでありたいと願います。
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 2026年9月6日 
「隅の親石」加藤豊子牧師
ルカによる福音書20章9−19節



 エルサレム神殿で、民衆が皆夢中になってイエスの話に聞き入っていた、とありました。ここでも主イエスは、人々に向かってあるたとえをお話されています。このたとえ話の登場人物は、ぶどう園を作った主人、それを借りた農夫、農夫たちのところへ送られた僕、さらに送られた主人の息子、です



 ぶどう園の主人とは神様のことであり、ぶどう園は神の民をあらわしています。農夫たちとは、民の指導者、指導的な立場にある人々のことで、この畑の管理を任されています。収穫の時期になって主人が僕を送ると、袋叩きにして追い返された。そのようなことが3度繰り返されました。主人のもとから送られた僕とは、預言者たちのことでしょう。その悔い改めを呼びかける言葉は拒否され受入れられませんでした。さらに主人は、「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子なら多分敬ってくれるだろう。」と息子を送ります。しかし農夫たちは「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って、息子を放り出して殺してしまいました。



 この農夫たちは、大変な思い違いをしています。農園は主人のものであり、主人から託されその管理を任されているに過ぎないのです。それを自分のものとしてしまっているのです。本来は、主人と共に収穫の喜びを分かち合うことが期待されていたのではないでしょうか。



 「家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった。」(17節)

 隅の親石とは、アーチ状の建築物の一番上、真ん中に据えられる要となる石のことです。ポンテオピラトのもとに引き渡され、十字架に架けられたイエス・キリストは、まさに人々に捨てられた石のようでしたが、このお方が神の救いの業の中心、救い主となられたのです。



 わたしたちも様々なもの、自分の人生も丸ごと神様からお預かりしたものです。託されているものにどう向き合っているのかも問われているのではないでしょうか。
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