| シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
| 2026年10月 | 4日 | 11日 | 18日 | 25日 | 目次に戻る |
| 2026年10月18日 |
| 「仕える者」加藤豊子牧師 ルカによる福音書22章24−30節 |
◇ 「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれが一番えらいだろうか、という議論も起こった。」(24節) 最後の晩餐の場面で、イエス様が「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」と言われたことによって、弟子たちの間に動揺が走りました。「自分たちのうち、いったい誰が、そんなことをしようとしているのか」という議論が始まり、その延長線上に、今度は「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論が始まったわけです。あの人はどうだ、この人はどうだ、そんな話をしながら、結局は自分と誰かを比べて様々思い巡らしている、そのような姿があります。議論をする人の心の奥底には、妬みの感情があるのではないでしょうか。 ◇ 「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(26節) 「いちばん偉い人」というのは、より大きい、ということを意味する言葉です。わたしたちは自分と他者を比べ、より大きいという評価を得ることを期待してしまうような者です。しかし主は、「仕える者のようになりなさい」と言われました。「仕える者」とは、元々は給仕する者、食卓に仕える者のことです。 ◇ あの最後の晩餐の食卓に於いて、主イエスは給仕する者となられました。そこで分け与えられたパンと葡萄酒は、主イエスの十字架を示しています。ご自身の命までも与えられたのです。 ◇ ヨハネによる福音書では、主イエスは弟子たちの足を洗い「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、模範を示した」と言われました。イエス・キリストの姿を見続け、神様の力によって変えられ続ける者であるように、わたしたちは招かれています。 |
| 2026年10月11日 |
| 「主の晩餐」加藤豊子牧師 ルカによる福音書22章7−23節 |
◇ 最後の晩餐と呼ばれる場面です。過越祭で行われる、過越しの食事のことです。この食事のためには、子羊が屠られることになっていました。その始まりは、旧約聖書に記されている出エジプトの出来事に遡ります。そこには、エジプトの地で奴隷として苦しめられていたイスラエルの民が、指導者モーセに導かれ脱出する、救いの物語が記されています。なかなか民を去らせることを許さないエジプトの王ファラオに対して、最後にもたらされたのが初子の災い、長男が死んでしまう、というものでした。イスラエルの家では子羊が犠牲として屠られ、その血を家の入口、柱に塗りました。それが目印となって、この災いはイスラエルの民の家は過越して行き、災いから救われたのです。 ◇ この救いの物語を記念して、過越祭が行われてきました。昔民の救いのために子羊が犠牲となりその血が流されたように、イエス・キリストは十字架に架かられ、その体は裂かれ血が流され、すべての人のための救いの業が成し遂げられました。 ◇ 「…わたしの記念としてこのように行いなさい。」(19節) 「記念する」ということは、ただ昔のことを懐かしく思い出すこととは違います。記念するという言葉は、想起、思い起こすという言葉でも置き換えられます。わたしたちは聖餐を通して主イエスの晩餐、その後に続く十字架と復活の出来事を思い起こすのです。イエス・キリストによって成し遂げられた新しい契約を思い起こすのです。一人一人のために成し遂げられた救いの業を感謝するときであり、また共に祝うときであります。 ◇ 習慣のように受け取るものではなく、聖餐に与る度ごとに、その恵みを味わい知る者であるように、わたしたちは招かれています。 |
| 2026年10月4日 |
| 「目を覚まして」加藤豊子牧師 ルカによる福音書21章29−38節 |
◇ 21章5節以下、「終末のしるし」という小見出しがつけられているところを読み進んでいくと、偽キリストの登場、戦争と暴動、大きな地震や飢饉…と、聞いているだけで不安を覚えるようなことが語られています。聖書に示されている世の終わりというのは、この世界の破滅ということとは全く異なります。それは「人の子」イエス・キリストが来られる日のことであり、「あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)とあるように、それはわたしたちにとって救いと解放の時となる、ということが語られています。 ◇ 「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずとわかる。」(29節) 緑の新しい葉が出始めるということは、夏、新しい季節の到来のしるしとなります。そこには命と希望が表され、恵みの時の到来であることが示されています。 ◇ 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」(34節) 「生活の煩い」というものは、誰もが日々の生活の中で直面していることではないでしょうか。あの種を蒔く人のたとえの中で、茨の中に落ちた種の成長と実りを妨げるものとして、「人生の思い煩い」が出てきます。「いつも目を覚まして祈りなさい。」(36節)と勧められています。「祈る」ということは、半分は「聞く」ということではないでしょうか。静まって神の声を聞く。今あなたが、わたしに語りかけておられることは何でしょうかと、心を神様に向けて祈ることを通して聞く者であるように招かれています。 ◇ 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(33節) 決して滅びることのない、揺らぐことのない神の言葉が、与えられています。 |