礼拝メッセージ

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2009年6月28日 加藤真喜男師

詩篇 51篇1〜17節「ダビデの祈り」


 毎月最終日曜日は、今年の教会のテーマである祈りについて共にみことばから聞いています。本日は、皆様とダビデがささげた詩篇から、祈りについて学びたいと思います。

皆様はダビデとは、どんな人だと思いますか?

 

聖書を少しでも知っている人であれば、彼は敬虔な信仰者、偉大な王、詩篇を歌った詩人であると答えるかもしれません。しかし、その反面、ダビデの後半の人生を良く記憶している人は、ダビデは親ばかで、一国の王としてのバランス感覚が無く、信仰者としても微妙であると、答えられるかもしれません。

 

 しかし私は、そんな失敗を犯しながらも、ダビデほど主に愛された人物は聖書中探しても珍しいと思うのです。ダビデから300年近く後に現れた預言者イザヤはこう言っています。


55:耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わら  ないの契約を結ぶ。

このように、神は聖書においてダビデへの変わらない愛の契約であるダビデ契約を、何度も用いていて、神から離れてしまった後代の人間を主に立ち帰るように導いているのです。こう見ると、聖書においてダビデへの評価は非常に高いものであることに気がつきます。

これだけ、神から愛され、評価の高いダビデの人生の失敗を、何故聖書は論じているのか?そんな疑問をお持ちになった事がないでしょうか?その疑問を考えていくと、一つの事に気が付きます。ダビデという英雄が失敗した罪は、人間が最もサタンに攻撃され易い部分であったということにです。つまりダビデだけが失敗したのではなく、私達も陥り易い罪であると言う事です。

 確かに私たちは晩年のダビデを見ると、若いころよりも神に寄り頼むことが少なくなっていることに気がつきます。しかし、そのように思える晩年でも、ダビデは私たち現代の信仰者より全く高い信仰を保っていることに気付かされます。

 

先程司会者が読んでくださった箇所を見ると、私たち信仰者が見落としてしまいがちな部分である神が与えて下さる霊、更には神が私たちに清い心を下さるという信仰をダビデは持ち、それを神に求め、神に近づいていることが分かります。

 英雄ダビデの人生は、神様が私たちに彼の人生から学び、神との交わりを失わせようとするサタンの攻撃に気をつけるよう教える為に、聖書に残して下さった事を思わされるのです。神のご配慮に感謝を持って読み進めたいと思います。

 

 さて、本日の詩篇は、表題にありますように、バテ・シェバ事件の後に出来たものです。まずその背景を2サムエル1112章から簡単に見ます。

 

ダビデはアモン人との戦争において、ヨアブ将軍と家来とイスラエルの全軍を戦いに行かせます。そして自分は安全な王宮にいるのです。そこでダビデは美しい女性を見、彼女と関係を持ってしまうのです。その女性がダビデの配下ウリヤの妻バテ・シェバでした。

 

他人の妻と関係を持つことは、姦淫の罪です。しかし、その罪は結果として更に多くの悪をダビデにもたらす事になるのです。それは、このバテ・シェバとの間に子どもが出来てしまうことから始まるのです。

 

ダビデはどうにか隠蔽しようとするのです。しかし、大概うそや悪はその一点では済まなくなるものです。気が付くと雪だるま式に増えて行くのです。ダビデは、その隠蔽工作が上手くいかないと見るや、最後の手段に出ました。ウリヤを戦いの前線に出させ、敵に殺させるという策を司令官ヨアブに命じるのです。その結果、ウリヤは死にました。ダビデはその後、バテ・シェバを自分の妻とするのです。

 

そこに、ダビデの友である預言者ナタンがやって来て、ひとつのたとえ話を話すのです。

 

  「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。

 12:2 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、

 12:3 貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに   暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。

 12:4 あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理する   のを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」

 

これを聞いて、ダビデはこの様に言います。

 

 「【主】は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。

 

すると、ナタンはすかさずダビデにこう言います。

 

 あなたがその男です。

 

さらに、預言者ナタンは神の裁きの言葉を伝えます。その段になって、やっとダビデは私は罪を犯したと告白するのです。

 皆様は、ダビデが自分が姦淫や殺人という、いくつもの罪を犯した事を悟ったのはいつだと思いますか?バテシュバと関係を持った時でしょうか?それを隠蔽している時でしょうか?不思議と思われるかもしれませんが、私はこのナタンが、あなたがその男です。と言った時だと思うのです。

それまでは、ダビデは、その自分の罪をそんなに大きなものとして考えていなかったと私は思うのです。もちろん、ダビデは悪い事を行いました。しかし、罪を隠蔽している時、ダビデは色々な形で自分を正当化していったでしょう。今まで自分が主に対して誠実であったし、これ位の罪は帳消しになるとか、今回死に至らしめたのは私ではなく、将軍ヨアブであるとか、とにかく責任転嫁をしていたと思うのです。

 もし、ダビデが自分の罪を重く承知していたのなら、ナタンの話を聞いた時、自分の罪に気付き、うなだれて、そんな者は死刑だと言えなかったでしょう。そしてそこで悔い改めていたでしょう。

 

私達も他の人の罪や穴は良く見えるものです。しかし、その目を自分に向けるときに、それがどれだけ、甘くなるか・・・。サタンは自分自身に向ける裁きの目の甘さを付くのです。神は、それを私たちに教えようと一連のダビデの失敗を聖書に記しているのです。私たちも自分の罪に対して鈍感にならないようにです。

 そしてナタンを通して自分の罪を自覚した時のダビデの思いが、先ほど読んで頂いた詩篇です。ここから私たちは多くのことを教えられます。

 

この箇所を読んで見て、鋭い方はここで二つの言葉が非常に多いことに気がつかれるでしょう。つまり「私」と「あなた」です。ダビデはここで、他の人の事を訴えたり、責任転嫁をするのではなく、ただただ、自分自身の罪を主の御手によってきよめてもらう事に目を向けます。

ダビデは自分の罪をこれ以上無いほどしっかり見つめ戦っているのです。形式的な赦しではなく、人格的な交わりを通して主からきよめてもらう事を求めています。この詩篇は自分の罪をきよめてくれるのは主の御手以外ないということを信じて心から歌っているのです。

 

51:1 神よ。御恵みによって、に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私の  そむきの罪をぬぐい去ってください。

 51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく 、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

 

 この箇所を一読すると、罪、そむきの罪、咎と三つの言葉で罪が言い表されています。また、赦しについても、拭い去り、洗い去り、きよめてと三種類で表現されています。通り一遍な言葉でなく、ダビデが何度も何度もその罪を思い出し、神の前に罪の現実を覚え葛藤し、悔い改めている心が表れているようです。この様に神の前に我が砕かれる事が必要なのです。私は正しいというのではなく、神の前に本当に貧しい物であると、魂が砕かれる必要があるのです。

 

  51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

 51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

 51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪より  も白くなりましょう。

 51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。

  51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

 

アダムの子孫である私達は、咎ある者なのです。生まれたての子どもも、1〜2歳の本当に可愛い子どもも、罪人なのです。御霊によって気付かされない限り、御霊が正しく歩む事を教えてくださらない限り、人間は少しも清くなることができないのです。

 ローマ3:10には、このようにあります。

 

義人はいない、ひとりもいない。

 

また18節にある「お砕きになった骨」とはどういうことだと思われるでしょうか?人が悪い事をした後、その罪や悪かった事を放置するとどうなるでしょうか?多くの人はその罪に対する懺悔の思いが溢れてくるのではないでしょうか?そしてその思いは深く骨にまで達するようになるのです。もし、私達が罪を神の前に持って行かないで持ち続けるのなら、その罪は私たちの骨にまで達するのです。

 詩篇32:3にも同じ事が書かれています。

 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

 

もし、私たちが自分の罪を持ち続けるなら、私たちを苦しめるのです。神は、ダビデが罪を放置しないように、ナタンを通して罪を示されたのです。神様はダビデの魂を愛しているなあと思わされます。

興味深い事に2サムエル記で、ダビデが自分は罪を犯したと告白した後、ナタンはこう言うのです。

 

「【主】もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。

 

ダビデのところにナタンが来たのは裁きのためだけではなかったのです。ダビデが悔い改めた後に、神の赦しを与える為に神はナタンを遣わされたのです。その神の恩寵と憐れみ深さ覚えながらダビデは心からの賛美を歌っていたのではないでしょうか?

 

  51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

 51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

 51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

 

この部分こそが、私たち信仰者にとって最も大事な部分です。自分のうちに与えられている霊に目を留める事がです。

私たち信仰者は、信仰生活を誠実に歩もうとする時に、いつの間にか自分の手で自分を力で良くしようと考えてしまいがちです。自分の思い以上に人に優しくしたり、愛情を振りまいたり、ボランティアをしたり、この世で良いといわれることをするのです。

そしてそれを聖化の歩みと勘違いしてしまうのです。それは人が歴史の中で常に失敗してきたことなのです。私達は私達が望む聖化の歩みをイメージします。倫理道徳的に優れており、人には優しくでき、人を傷つけず、困っている人を助けることができる。そんな人になれたら素晴らしいなあと思います。

そして、この世やサタンは、自分で自分の力でそうなれ、ならなければならないと言って来ます。

 

しかし、私たちの先輩信仰者ダビデは何と言っているでしょうか?私たちのうちに清い心を造るのは神です。そして揺るがない霊を私たちのうちで新しくしてくださるのも、神だと言うのです。11節には既に与えられている聖霊を取り去らないで下さいとあります。

 つまり、ダビデは自分の手で新しい霊を造るのではなく、神が新しい霊を与えてくれている事、自分の人生を自分で切り開いているのではなく、聖霊が導いてくださっていること、更には、喜んで主に仕える霊も、主から来ていることを告白しているのです。

 

これは私たちの認識とは大きく違うものではないでしょうか?そして、その上でダビデはもう一つの告白をします。それは、主に喜ばれると思われていた、いけにえについてです。


51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

 

ダビデは、神がどのようないけにえも喜ばれないと言うのです。それは神に捧げる最上の全焼のいけにえであってもです。この全焼のいけにえは、全てを捧げつくすという意味です。つまり、自分の罪も心の中にある思いも、自我も全て砕かれなくなることを意味しているのです。私はここで思うのです。恐らく、ダビデはバテ・シェバとの不倫の後に、罪を甘く認識したまま全焼のいけにえを神に捧げたのではないでしょうか?

自分の身代りに目の前で殺される動物を見ても、罪を持ち続けダビデは、心から悔いる事がなかったのでしょう。ダビデが、形だけの礼拝をささげても、神に近づく所か、更に自分は神から遠いと思うようになるでしょう。

しかし、預言者ナタンに指摘されて、まさに自分が罪を犯したと気が付いた時、自分自身が如何に卑しい者であるかを突き付けられたのです。そして人の死の代償と姦淫の罪を悔い、自我が砕かれ、魂を見捨てずにまっすぐに受け入れて下さった神様を見たのです。そしてその時にダビデはこのように気付き歌ったのではないでしょうか?

51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

 

本当に必要なのは自分の罪のために、捧げる全焼のいけにえではなく、自分の魂が本心から悔い、砕かれる事が重要であるとダビデは告白しているのです。そして砕かれた悔いた心を持って主に近づく時、確かに主はそれをさげすまれることなく、受け入れて下さると。

 

私たちを、赦して受け入れてくださる神が私たちの前におられるのです。そのためにはご自分の愛する御子をさえ与えて下さったお方がです。私たちの毎週の礼拝やデボーションはどうでしょうか?この神にお会いしているでしょうか?

真剣に神の御前に進み出て、ダビデのように神の恩寵の中に受け入れ続けて頂ける人生を歩んで生きたいと思います。お祈りいたします。