礼拝メッセージ
2008年12月28日 加藤真喜男主事
出エジプト記 40章「礼拝とは」
12月から3月まで、月の最終日曜日は、礼拝について共に御言葉から学びたいと思います。今日はその第一回目となります。
皆さんは、礼拝に出席する時、どの様な気持ちで礼拝に向かっているでしょうか。ある方は、身体と心を整えて神の前に進み出られているかもしれません。ある方は前日までの仕事でへとへととなって、どうにか礼拝に来られる方もおられるかもしれません。また、毎週特に何も考えず、習慣的に教会に来て礼拝をささげる方もおられるでしょうか。私も同じように、両親がクリスチャンということもあり、礼拝に義務的に来ていました。
私が高校一年か二年生位の頃でしょうか。私の母教会で、当時牧師であった小畑進先生が、レビ記の講解説教を行なってくださいました。難しいと言われるレビ記が語られる中で、私はそこに神の臨在を感じるという経験をしました。それは高校生の時の事ではありましたが、私にとってより御言葉の深みと共に霊的に深められる経験でありました。
ヨハネ4:24でキリストは礼拝者に対してこの様に言っています。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
私達は霊とまことによって礼拝することが求められているのです。私達は自分の信仰と、自分の心が問われている事を覚える必要があると思うのです。しかし、礼拝の要素は人間の側だけでなく、受け入れて頂けるかどうかは、神様の側もあることを忘れてはいけないのです。
カルヴァンは、有名なキリスト教綱要の中で、『声も歌も、心の深い感情からほとばしり出たのでなかったらば、神の前に何の意義持たず、何ら益にならないことは明白である。いやむしろそれらが単に唇の先と、のどから出るだけあれば、我々に対する神の怒りを引き起こすだけである。何故ならそれは神聖不可侵な御名をみだりに用いることであり、彼の尊厳をあざける事だからである。』と、このように言っています。
つまり礼拝者の心が伴っていない声も歌も神の名を呼ぶ度に十戒の中の第三戒を犯していることになると言うのです。
出エジプト記20:7 あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
礼拝の中で交読文や祈り、賛美を歌う私たちの態度が問われるのです。この神の罰を受けないように、神を軽んじる罪を犯さないよう、更には神様に受け入れて頂く礼拝であるかが問われるのです。私たち両主事の働きは全力をもって、神の前に相応しく礼拝を整えて行くことであることを覚えさせられるのです。
本日の聖書箇所は、エジプトを脱出した民に、神が幕屋を立てるように命じられ、民が神様のご命令通り行った時、イスラエルの宿営に神が臨在された箇所であります
出エジプト記35章〜39章には、幕屋建築に必要な部品の作り方を事細かに書かれています。その部品を神の命令に従って造り終えた時に、民は
モーセのもとに持って来るのです。
そしてそれを受けて、神様は40章2〜8節で神は幕屋の組立から、至聖所の設定、パンの机の配置、燭台の配置、香の壇の配置、全焼のいけにえの祭壇の配置、洗盤の配置の7つについて命じられました。そして神が命じられた通りにモーセは行いました。17節〜32節まで、主がモーセに命じられた通りに行なったと7回も書いてあります。聖書はモーセが忠実に神様の言葉どおりに行なったことを教えてくれるのです。
私たちは思いつきで礼拝したり、見た目や受けを狙って礼拝するのではなく、私たちがどのような心で神の御前に進み出るかを主から問われているのです。効率や雰囲気を良くする、礼拝者のニーズではなく、神の前に恐れを持って進み出る必要があるのです。それは神に対して忠実にあることです。
その点でモーセは忠実でした。神様が言われた通りに、細かい部分に至るまで忠実に実行するのです。もしかすると、会見の天幕を作りながら、神様が言われる以外の作り方の方が良いと思う誘惑があったかもしれません。しかし、モーセは神様の仰るとおりに行なう事こそ最善であると確信して行なったのでしょう。その姿勢には学ぶところがあります。
9〜11節では、そそぎの油を取って、神に相応しく整える為に幕屋と全焼のいけにえと洗盤と、それらに関わるすべてのものに注いで聖別しました。更に12節〜15節では、幕屋つまり会見の天幕で仕える大祭司アロンと、これから祭司として仕えるそのアロンの子ども達にも油が注がれ、聖別しました。
全てを言われたように聖別するのです。神の前に礼拝を捧げるのに、ここまでする必要があるのかと思うほど、一つ一つ丁寧に聖別したのです。
40:16 モーセはそのようにした。すべて【主】が彼に命じられたとおりを行った。
モーセがここまで主が命じられた通りに行えたのには、モーセが神を恐れ、神に信頼して従うと言う信仰が与えられていたからです。私達も神に礼拝をささげるとき、このような信仰をもった従順が求められることを覚えたいと思うのです。
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。
神様の栄光が何故、会見の天幕を覆ったのでしょうか?それはこれまで見てきたように、モーセと民たちが、神様のお命じになったことを忠実に、そして従順に従った事に対する神の応えと考えられます。神はこうして忠実である者に、親しくご臨在を現わして下さるのです。私達もこの神の親しいご臨在に触れたいものです。それはこの教会の礼拝においても頂けるのです。
大切なのは人間の目に、必要であるとか、良いと思うことが必ずしも神様の御心ではないということです。
ある教会では効果的に賛美をしたり、バックミュージックを用いて人の心を高揚させたりします。心が高まると、人は神の前に出ている気がするのです。しかし、それが本当に神の臨在を覚えることなのかどうかは私には分かりません。多くの教会が行なっているからそれが正しいとは必ずしも限らないのです。
他の教会が行っているからと言ってそれらに飛びつくのは危険なのです。中世のカトリックの教会は、多くの教会が聖書から明らかにずれた方向に向かっていました。だから宗教改革が起こりました。
私たちが求められるのは、人間にではなく、神様にその礼拝を受け入れて頂けるかという事です。私達は誰に向かって礼拝を捧げるのでしょうか。この世界のすべての物と、私たちを創造された神に向かって捧げるのです。神に喜ばれ、受け入れられる礼拝をささげるのでなければ意味がないのです。
モーセが行なった忠実な行為に対して、神様は御臨在と言うお応えを下さいました。私達の教会は、この神様の御臨在を求めて進みたいのです。神が礼拝に共にいて下さり、私たちの心を開いて御言葉に生かして下さる様にして頂きたいのです。私たちの教会も主の臨在で満たして頂きたいのです。祈りや賛美、御言葉がむなしく私たちに帰ってくるのではなく、主がお喜び下さり、私たちの心を照らし出して下さる様にです。この幕屋の様にです。
礼拝はただ行えば良いのではなく、神が受け入れて下さるように共に整え、心を傾けて真心をもってささげる必要があるのです。
幕屋はイスラエルの宿営の真ん中に建てられました。つまり神が民の中心に居てくださったのです。エジプトから脱出して、荒野での厳しい旅路の間、神は常に中心に居て下さいました。36節にはこのようにあります。
40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
つまり主が、幕屋から雲を上らせて民を導き、この先の道すべてを導いてくださったのです。
ここまで神の御臨在を見てきました。宿営の中央の、会見の天幕に主の栄光が満ちています。そして旅に立つ時も全て神が教え導いて下さいました。
しかし、一つ問題があるのです。民は会見の天幕に入ることが出来ないと言う問題です。この幕屋建設の目的は、神の臨在ももちろんですが、更に神と交わりをするため、つまりはいけにえをささげ、礼拝をすることでした。それなのに、イスラエル人はこの会見の天幕に入れないのです。
レビ記には、神との交わり、神様を礼拝するための仕方が一つ一つの細かに記されているのです。この細かい規定が書かれているため、レビ記はとても分かりにくい書だと思われがちです。今日はこれら一つ一つを細かに見て行く事は出来ません。しかし、知って頂きたいのは、ユダヤ人はここまでの細かい規定を守らないと礼拝者として神様に認められなかったと言う事です。更にはこのレビ記を理解することによって、新約聖書の見方が格段に深まるのです。
ここで覚えておく必要がある事は、旧約の時代と、今の私たちの礼拝における態度と余りに違うという事です。
このレビ記には、規定通りにささげなかったアロンの子どもであるナダブとアビフが焼き尽くされるという記事が書かれています。もちろん神は愛なるお方ですが、神の前に進み出て礼拝を捧げることの厳粛さや恐れを、被造物である私たちは忘れてはいけないのです。
旧約の聖徒は自分の身代りに捧げるいけにえの頭に、自分の手を置いて神の前にささげました。自分の代わりに殺されるいけにえの悲鳴を聞いて、自分が神の前にどれほど罪深く、そして背信の信仰者であるかを覚えさせられたでしょう。また、このいけにえは傷の無い牛か羊か鳩でなくてはいけませんでした。そのような完全ないけにえを探しながら、自分が神の前に傷だらけである事実を思い出させられたことだと思うのです。
旧約の時代の信仰者が神の前に出る事の大変さを思い知らされます。財も、時間も、多くの物をささげる必要がありました。私たちが礼拝を捧げる時、それらのいけにえをささげる手間が全くありません。
しかし、旧約の時代、本来神は、人々に礼拝をささげるために事細かな仕方を要求されていたこと、そして人々が自分の罪のために、神に傷のない動物のいのちを捧げたことを見ました。しかし今はいけにえを捧げていません。何故でしょう?
ヘブル9章11〜12にはこの様にあります。
9:11〜12しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
そうですイエス・キリストが全ての動物の代わりにご自身をささげられたため、私達は今、いけにえをささげなくて済んでいるのです。全ての動物に勝る、本当のいのちを与える所の神の子羊キリストの命は、私達を救うために十分であり、これ以上の物はありませんでした。キリストが私達のために、血を流して永遠のあがないを成し遂げてくださったのです。
感謝しつつ、神の前にささげられた完全ないけにえを覚えて大胆に礼拝をささげて行きましょう。
私たちの礼拝は旧約聖書の礼拝と比べて単純です。しかし単純だから楽なのではなく、キリストの御霊を受けた者として、むしろより霊的に引き上げられることを覚える必要があるのです。神の御霊が私達を引き上げて下さるのです。私達はその特権を与えられています。礼拝者として妥協無く、喜びを持って更には御霊より力を頂いて礼拝を捧げて行きたいと思います。