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      「何が正しいかという判断」      ルカ1254~59                   
                                                   牧師 加藤真喜男

 私たちは前回、イエス様が信仰者を導くために苦しみのバプテスマを受けられ、信仰の火である聖霊を投げ込まれると言われた箇所を見ました。今日はその続きの箇所から見ます。今日の箇所は弟子ではなく群衆に対して語られています。

12:54 イエスは群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言います。そしてそのとおりになります。12:55 また南風が吹くと、『暑くなるぞ』と言います。そしてそのとおりになります。

 群衆であるユダヤ人たちは空模様から天候を予測するのが得意でありました。西の空、地中海の上空に積雲が発生すると「にわか雨がくる」ことが分かる様です。そして、それに備えていると確かににわか雨が降るのです。それに対して南の方、つまりネゲブの砂漠の方から乾いた熱風が吹いてきますと「今日は暑い日になるぞ」と言いその通りになるのです。私は空を見ても何も分かりません。ある方は空を見ながら次の天気を予測出来るかもしれません。

そんな知恵をイスラエル人も持っていました。これはとても役に立つ知恵でありましょう。農業をする時にも、出かける時にも役に立つ知恵であります。しかし、それに対してイエス様は次の様に言われるのです。

12:56 偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか。

 イエス様の時代の人々も、より快適に生きるための知恵を持っていました。その一つが天気を見分ける事であったのでしょう。自然を相手にどう生きれば良いかイスラエル人は判断していたでしょう。

 そこまで見分け判断しているのに、何故最も大事な今の時代を見分けようとしないのかイエス様は言われるのです。つまり、イスラエルの人々はイエス・キリストが来ているのに、それをメシヤとして認めないどころか、自分達の敵とみなし攻撃しているのです。沢山の奇跡としてのしるしを受け取れずに、メシヤではないとイエス様に攻撃さえしているのです。

12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。12:59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません。」

 イエス様はここでいきなり、訴える人が一緒に行く時には、仲直りしようと努力をして、裁判所に行く途中でも良いので和解するように努めなさいと話題を変えているように見えます。そうではないならば、あなたは裁判で負けて裁判官が看守に引き渡し、牢に投げ込まれると言うのです。しかも、最後の一レプタ、ユダヤで言う最小のお金もまけてもらえないと言うのです。びた一文まけてもらえず、最後の一円まで払わないと赦してもらえないと言う事であります。

 そうなる前に、裁判所に行く前に途中で和解するようにしなさいと言うのです。これは、何を意味しているのでしょうか?人と仲良くしなさいと言うことなのでしょうか?謝ったもの勝ちだと言う事でしょうか?そもそも、この裁判官とは誰の事でありましょうか?

この裁判官とは実は神様の事であります。最後の一レプタまでも支払わなくてはいけないのは私達であります。聖書は私達に最後の審判がある事を教えています。

Ⅱコリ5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

 私たちは神様の基準で裁かれるのです。そしてこの世の基準ではなく聖書の基準で言うならば私たちは罪人なのです。最初の人アダムの罪は私達に間違いなく引き継がれて正しい生き方が出来ないのです。その結果としていろいろな現実に直面して人間は悩むのです。

 皆様もこんなことを思ったことはないでしょうか?何故、これだけ人々がいがみ合うのでしょうか?例えばアメリカでは今も人種差別が絶えません。人種差別で黒人を白人警官が殺してしまった事件から、デモが起こり大問題になっています。また何故、汚職が絶えないのでしょうか?何故戦争が無くならないのでしょうか?何故、友人との関係の中で問題が出てきたり、家族の中で問題が起こるのでしょうか?もう少し身近なところに目を向けてみましょう。私たちはあの人が悪いと相手をゆび指すかもしれません。

 もちろん、相手には悪いところがあると思います。しかしです、自分はどうでしょうか?相手がどんなに悪くても、自分が完全に正しい事もないのです。相手が9割悪くても、自分が1割悪いと言う事があるのではないでしょうか?では、その1割はどうするのでしょうか?神様はそれを見過ごされるのでしょうか?いや神様は絶対的正義者であります。出347にあるように罰すべき者を必ず罰する方なのです。もちろん、神様は恵み豊かな方であります。

しかし、同時に罰するべきものは必ず罰すると言われる方なのです。これが、神様なのです。あなたは、ここまで頑張ったから、おまけしてあげようと言う事はない方のです。また、良い思いがあるのであなたを赦すと下駄をはかせて下さる方でもないのです。本来私たちは神様に向けて造られています。私達の心の中心に神様がいることが良い状態です。でも、私達の心の中には様々な偶像が出てきては私たちを支配しようとします。

私たちはその偶像に気を付けないといけないのです。例えば私はある年下の牧師から軽く扱われている様に思えたことがあります。私の心の中は恥ずかしながら、穏やかではありませんでした。でも、ここで怒りに委ねてしまうならば、間違いなく怒りは膨れ上がって来るでしょう。そしてその怒りは私の心を支配する偶像になるのです。私は祈りながら自分の心に福音を語りました。つまり、イエス様が私の事をどれ位愛して下さっているか、その愛を思い出し、その思いを捨てました。

サタンは本当に簡単に私達の心を偶像で支配しようとします。また、私たちはお金に支配されることがあるでしょう。お金がもったいないからと私は数十円の事で妻に対して怒る事が度々あります。あまりに細かいので後から考えると何でこんなことで怒ったのかと思います。怒っている時には平常心ではないのです。その私の態度を見て、妻はある人から私があまりに節約をするので彼と一緒に生きるのは大変ねと言われたようです。

お金というか、勿体ないという偶像に支配されていると感じることがあります。皆様はそんな事くらい大したことが無いと思われるかもしれませんが、どんな偶像も心を間違いなく支配するものなのです。忘れないでください、どんなものでも、私たちを心の中の偶像は支配しようとするのです。そして大事な事はこの偶像が人間関係を壊し神様との関係を壊し、良い状態をどんどん破壊していくのです。

これが、神様の前に罪を持っている事から生まれる状態なのです。聖書はこの罪を持っているならば、たとえ一つの罪を持っているだけでも天国に入れないと教えているのです。入れないだけではなく最後の審判の後、永遠の火の中で生き続けないといけないのです。だから、この訴えられている私達は神様と和解の道を探っていかないといけないのです。この和解の道とは何でありましょうか?当然、私たちが正しいことを出来るわけではありません。

 例えば、皆様三日間悪い思いを持たないと決めて自分の心を見張ってください。思っている以上に悪い思いがある事に気が付くでしょう。私たちは正しく生きる力がないのであります。これが本当の私達の状態なのです。でも、神様はその私達と和解をする様に導かれて行くのです。

 では、私たちはどの様に神と和解をすることが出来るのでしょうか?そこで重要になるのが、イエス・キリストを通してであります。イエス・キリストはこの世に人として来られ、完全なる義の生活をしてくださり、その義を私たちに下さるために十字架に架かり死なれました。そして三日目によみがえられた、このイエス・キリストを信じる私たちに、イエス様の義をもらえると聖書は教えてくれています。

 神様が、罪を犯した人間の贖い、つまり身代わりにいのちをもって罪の償いをなしてくださったのです。神と和解するには、そのプレゼントをイエス様のところに行って受け取る必要があるのです。もちろん、この時代まだイエス様が十字架にかかる前でしたので、その本当の意味は分かりませんでした。

 でも、イエス様から救いの道をもらうために和解をもらう様に言われていたのが、このたとえ話なのです。

このように神との和解が、私たちの人生の上で非常に大切であることを踏まえ、今日の箇所でイエス様が言われた、判断することについて今一度考えてみたいのです。。

ルカ12:57 あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。

 これは大変大事な事でありました。初めに見た様に、ユダヤ人たちは天気については判断をしていました。

 でも、いのちに係わる自分の将来について、神様との関係については全く関心がいかないのです。それが故にイスラエル人たちは救い主として来られたイエス様を十字架にかけてしまったのです。ちなみに、この十字架が間違えで起こった事ではない事を私たちは知っています。このイエス様の死についてイザヤ書53章で虐げと裁きによって彼は取り去られたと預言されていました。これはメシヤが殺される事が既に800年前に預言されていたと言う事です。

 でも、この預言が成就するためだとしても、イスラエル人たちがメシヤを殺した事が無罪になると言う事ではありません。

 同じように私たちがこの世で行ってしまう罪はどうでしょうか?もちろん、それも無罪になりません。今日読んだ箇所でイエス様がユダヤ人に問われた事は、現代の私達にも問われています。

私たちは人生の中で正しい判断をしているかと言う事であります。

  イエス様は聖書を通して私たちにも同様な問いかけをされているのです。あなたの信仰生活はどうでありましょうか?判断するべきことを判断しているでしょうか?伝統や仲の良い人々が正しいと言うからそう生きるべきではないのです。何故なら伝統に従っていた人々はイエス様を十字架にかけてしまいました。神様は私達に判断するように聖霊を与え、そして知恵を与えて下さっているでしょう。

 イエス様は私達に御霊を送り、新しい歩みをさせて下さるのです。そして、判断をする様に導いて下さるでしょう。その主に信頼して歩んで行きましょう。表面的な判断ではなく、魂の奥底でしっかり何が正しいか判断していくものでありたいと思います。信仰の事、仕事の事、家族の事、友人の事を神様が望む判断をしていきたいと思います。その時、サタンに騙されることなく、神様の導きに目を向けることが出来るのです。サタンはその判断を愚かだというかもしれません。

でも、神様だけが本当に素晴らしい人生を与えて下さるのです。

ガラテヤ5:16 御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

お祈りを捧げます。