礼拝メッセージ
            

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2010年7月18日 加藤真喜男伝道師

マタイの福音書 7章12節「あなたのして欲しい事は何ですか」

今年、私たちの教会は新約聖書を励ましながら通読をすることを目標にしています。自分ひとりでは続けられないけれど、同じグループのあの姉妹、あの兄弟も読んでいると思うと励まされて、自分も読む意欲が強められるように思います。皆様が聖書を通読する時に、聖書が語る真理に心を燃やされる機会が少しでも増やされていけば、今年励ましのテーマにした甲斐があったと思います。

 

聖書の読み方には、今取り組んでいる通読の他にも、一つの書簡をじっくり読むなど、色々ありますが、あまりお勧めできない読み方もあります。

以前こんな事がありました。私が母教会で子ども会の奉仕をしていた時のことです。その日は私がメッセージを語りました。すると子どもが「聖書って良いこと書いてあるんだね」と言って聖書を読み始めました。ぱっと彼が開いて読んだのが姦淫の箇所であり、姦淫した者が殺されなくては行けないと言う箇所でした。

私は子ども会に来た子どもが聖書に興味を持ってくれたことは嬉しかったのですが、説明しづらい箇所を開いた彼に苦笑した事を覚えています。

聖書は背景と、文脈を理解して読まないと聖書が言っている事と真逆の意味に読み取ってしまう時もあります。だから、聖書の文脈に気を付けて、私達はこれからもみことばに聞いていきたいと思います。

 今朝のメッセージは、聖書箇所一節だけであり、とても有名な箇所です。その分独り歩きをして人々に受け取られる危険性のある箇所でもあります。

 

7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。

 

この言葉は多くの人に受け入れられる言葉なのではないでしょうか?この言葉はノンクリスチャンでも、受け入れやすい言葉であり、道徳の教科書にも出てきそうな言葉です。英国の牧師であり神学者であったジョン・ウェスレーが、この箇所を1750年に「黄金律」という言葉で説教して以来、多くの人に「黄金律」という言葉で親しまれる聖句であります。

本当にこの様になれたら素晴らしいなと思います。実はユダヤ教にも、この言葉に近い言葉が語られています。

ユダヤ教のラビ「ヒレル」は「あなた自身にとって憎むべき事は、あなたの隣人にもするな。何故ならこれが律法の全体であって他のすべては注釈にすぎない」また、「自分が嫌なことを、他の誰にもしてはならない」と言います。

しかし、この二つの言葉は今日の箇所と比べると似ているのです。実は全く違う事に気づくのです。ユダヤ教では、消極的な教えがなされています。

 

それに対してイエスの教えはどこまでも広がっていくのです。自分の嫌な事とか、憎む事をしないようにとは、要するに他人に迷惑をかけるなと言うことでしょう。これは一般的に家庭でも、よく言われることです。よそ様の迷惑にならないようにしなさいとです。

 

昔テレビで、コンビニの前でたばこを吸っている未成年が、誰の迷惑にもなっていないのだからいいじゃないかと言っているのを見ました。しかし、それを見て本当に迷惑なっていないのかなあと思いました。

自分は相手に迷惑をかけていないつもりでていても、実際は多くの人に迷惑をかけていることがあるのではないでしょうか?

人によって迷惑と感じる事柄も違うでしょう。更に、迷惑になるから止めようと色々考える中で、人の行動はどんどん限定されていくのではないでしょうか?するとどんどんと考え方が小さくなってしまいます。もし、他人の迷惑にならないようにと言う視点だけで生きるならば、おそらくは良い発想は生まれないだろうと思うのです。

それに対してイエスはもっと積極的でした。

7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

 して欲しいことを、もし隣人に行なって行くなら私たちが出来ることは沢山増えていくでしょう。そしてすぐに、そんなこと出来ないと気がつくでしょう。何故なら人間の欲は無限であり、どんどんふくらんでいくからです。

ここで言われている、何事でも、自分にしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい。とはイエスはどういう意味で言われたのでしょうか?

 

私はこの鍵がその後に続いている、これが律法であり預言者です。である事に気付きました。
律法とはモーセ五書で語られている神の命令を現わしています。そしてその中心が
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』と『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』でした。

つまり、「神と人を愛せよ。」だったのですそして預言者とは、どういう人たちだったでしょうか。私たちは預言者と言うと将来の事を教えてくれる人と言うイメージをどうしても持ってしまいます。確かにそのような役割もありました。

 

しかし、それは、預言者の仕事の一部でした。預言者の仕事は、ユダヤ人がまことの神から離れている時に、ユダヤ人に罪を示す事でした。そして神に立ち返るなら幸いを、立ち返らないなら裁きを告知することが大きな仕事だったのです。つまり預言者は神にもう一度戻るように神から遣わされた人たちでした。

このように預言者も律法も、神の御心を示し、そして神との交わりに戻るために存在したのです。

 

そして今日取り上げている何事でも、自分にしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい。とは、人を愛せという事につながっているのです。12節は、これまでの山上の説教を踏まえての箇所である事を忘れないようにしなくてはいけません。

 

 何故ならこの文章が、「それで」という前文を受けての言葉であるからです。それでと言われるからには、この前まで何が書いてあったかをよく抑えておく必要があるのです。

715節までは、他の人を表面的にさばくなという話でした。

それに続く6節は聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。と今度はむしろ、誰が豚か誰が犬かと正確にさばきをしなくてはいけないと言う箇所でした。

つまりこの1節から6節までは、信仰者がどのように人をさばくか、どのように人をさばいてはいけないかと言う事が語られていました。それを受けて、7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。という言葉が続いていました。ここで与えられるものとは、神の賜物であり、これまでの箇所からの続きから見ると、さばく能力であり、山上の説教で語られているキリスト者として歩む方向でした。並行箇所のルカ福音書では、それの中心が聖霊を求めることに繋がる事である事を見ました。それを神の前に求め続ける事を教えてくれました。

 

そしてその後に、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。との御言葉から、それは私たちの父から見た良いものである事を見てきました。それは私たちが欲しても私たちの害になるものではなく、神から見た本当に善いものを私たちに下さる神と言う視点でした。

 

 7章だけではありますが、これまでの流れを振り返ってみました。ここまではどんな文脈で語られているでしょうか?それは主イエスが、私たちにキリスト者として自分の力ではなく、神に委ねつつ信仰生活を送り、成長していく道を示されているという文脈で書かれている事です。

 

そしてこれが律法であり預言者です。とは、ここに神に立ち返る道が示されていること見ました。この二つを併せて考えると、この文脈は、キリスト者としてどの様に育っていけば良いかという成長についての教えであり、その手助けのこととして捉えるべきではないでしょうか。

 

 つまり、何事でも、自分にしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい。とはキリスト者としての歩みの上で語られている事であり、隣人を導く歩みの手伝いをする事なのです。

 

信仰者は自分の歩みが本当に正しいのか、そして天国への道を本当に歩んでいるのかと思う時が出てくるでしょう。そしてある時には、自分の歩みが神の前に相応しくない時があるでしょう。そしてその時には、どんな事をしてでもその道から、正しい道に戻る事を願うでしょうか?

 

私が信仰から離れている時、もし強く誰かが導いてくれていたら、私は教会から離れずにいたのではないかと思う時がありました。皆様が信仰を失いそうな時、後で考えて、あの時、誰かが自分に強く導きを与えて下さればと思ったことはないでしょうか。

 

また、私たちが信仰を持つのに、この人が居たから信仰へ導かれたという人が恐らく皆様の隣にいたのではないでしょうか?サタンはあらゆる手段を使って私達を信仰の歩みから引き離そうとしてきます。神への熱心を失わせようと必死なのです。そして教会から離れてしまう人も現実には沢山おられます。聖書は私達にこう勧めています。

 

ヤコブ5:19-20 私の兄弟たち、あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道      から引き戻す者は、罪びとのたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

 

私たちはその様に、あなたの隣人にしなさいということなのです。何故なら私たちは主が与えて下さった命を受け、永遠の命を受ける人生を送ること、主の命に生かされた生き方を与えられた者だからです。ならば、私たちが最も受けて欲しい永遠の命への道を紹介する必要があるのではないでしょうか?いや、今、キリストから離れそうになっている魂がいるなら、その方のために必死に祈って主の導きを求めるように導かれているのではないでしょうか?

 

例えばこういう事です。車がビュンビュン飛ばしている道に子どもが向かっていった時、それを見た親は、全速力でその人を止めるでしょう。それこそ、親によっては自分が引かれても良いがこの子どもの命だけはと思って子どもを救うでしょう。また、ある時には子どもが間違った道に行きそうなった時、私たちは知恵を使って、子どもをその道から離れるようにするでしょう。そして、やがて子どもはその理由が分かって、そのことに感謝するでしょう。

その様に、私たちは私たちの隣人を導くように置かれているのです。私たちの周りには、天国ではなく、残念ながら地獄へ向かっている人が多くおられるのです。私自身、どうすればよいか、いつも考えさせられます。どの様に知恵を使って、どのように接すればよいか、いつも悩みます。魂が、キリストを信じるという人生に進まない限り、永遠の滅びに至るからです。

 

この世でどんなに楽しい人生を送っても、その行き着く場所が、地獄であると思うと、本当に悲しくなります。私は私を最もかわいがってくれた祖父が死んでしまった時、私は何故、彼にもっとキリストのことを伝えておかなかったと後悔しました。もちろんたくさんの人が、祖父にキリストのことを伝えました。しかし、祖父の心の一番近くに居たのは恐らく私だったのだろうと思われるのです。私がその時流した涙を見て、近所の人は祖父の死を悲しんでいる私の涙と見たでしょう。しかし、私の中には、色々な思いがありましたが、一つは小学校後半から祖父と共に居ることが恥ずかしくなった自分の愛のなさと、祖父の死に対して自分がその隣人として、祖父の魂にキリストを紹介したかどうか。私は彼の魂に対して何も出来なかっただろうという思いの敗北感も含んでいたのでした。

 

私は思うのです。神は私たちを死に向かっている人に、永遠の命を与える道へと一緒に歩むように置かれているとです。

これが何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。という厳密な意味での解釈です。

 

 このようなメッセージをしながら、それには本当に知恵や忍耐、そして愛が必要なのです。正直私には、そんな物は一つもありません。しかし聖書はどう言っているでしょうか?それこそが先週見た

 

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

 

神がその力を与えて下さるとおっしゃっているのです。神は私達に求めるように望んでおられ、神とあなたとで共同作業をしようと望んでおられるのです。だから何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。とキリストは私達に言っているのです。私たちは求めつつ、神との共同作業の歩みをさせていただきましょう。