礼拝メッセージ

                      第一ペテロの手紙1章1節~         
                                                 加藤真喜男牧師

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                               「寄留している選ばれた人たちへ」

 これから皆様と一緒に毎月、一番最初の日曜日は、第一ペテロを共に学びたいと思います。ところで皆様は12弟子筆頭のペテロというと、きっと色々なことを思い浮かべられるでしょう。イエス様の一番弟子であると自負していたペテロ。勇敢だけれどおっちょこちょいなペテロなど様々なペテロの姿が聖書には書かれています。

これは私事になりますが、子供の時には、私は12弟子筆頭のペテロがイエス様の亡き後、12弟子を率いてイエス様を延べ伝えた中心人物だと思っていました。だから、いつからでしょうか、実際聖書を学び始めてエルサレム教会の中心がペテロではなかったのだと知った時には少し驚きました。ところで、皆様はペテロの手紙を読まれたことがあるでしょうか?

 このペテロの手紙を読んで、ガリラヤ出身の粗野な漁師がこんな整った文章を書けるはずがないと言う人がいます。

しかし、ガリラヤでは、アラム語とギリシャ語が入り乱れた地であり、当時一般的に使われていた簡単なコイネ-ギリシャ語を使っていました。だから、ガリラヤの漁師であったペテロでも十分書けるものであったでしょう。また、人は神様によって成長へと導かれるものです。そう考えると、このペテロの手紙を読んで何の不思議もないです。そして、この書が書かれた時代は大変難しい時代に入る直前でした。

エウセビオスの教会史によりますと64年にロ-マ皇帝ネロの迫害があったとありますが、その前の60年代前半にこの書が書かれたと思われます。そのこれから難しい時代が来そうなとき、ペテロは信仰者を強めるためにどうしても書く必要があったのでしょう。牧会者ペテロの信徒を励ましたい、その思いがあふれているのです。その思いが伝わってきます。今日からそのペテロの手紙を見たいと思います。その手紙の挨拶の部分を皆様と見たいと思います。

1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、

 ここでペテロは、改めて自分は使徒であると名乗るのです。使徒とはご存じ様に遣わされたものという意味です。ペテロは、私がイエス・キリストの使徒である事は
、人間から出たことでなく,イエス様から出たものであり自分はその使徒として召されているとここで改めて宣言しているのです。

この神から出ているかどうかは、聖書を基盤とする私たちにとって何よりも大事な事です。私たちは神様の教えを守る者であり、聖書で語られたことを信じる者であります。言い換えるならば、イエス様が語られた事、またその教えを受け継いだ使徒たちの教え、言い換えるならばこの聖書66巻に従う者であります。何に従うかいつも問われる事であります。イエス様の教え、そして12弟子たちを通して語られている聖書の真理に従う事が何よりも大切なのです。

ペテロは使徒として語り掛けているのです。私たちがいつもどこに立っているか、常にこの点が問われるのです。この世の流れに従うのではない、キリスト教的なものに従うのではない、大事なのは神様に従うことなのです。そして、神が教会に与えて下さった使徒に従うのです。だから、使徒ペテロが神の御心により使徒とされたという事を強調することは非常に大事な点でありました。そして神が定められた使徒として語る事は、それだけ権威があるのです。

使徒に従う事は、聖書を書かせたの神様に従う事と一緒なのです。もう一人の使徒パウロはこの事を次のように説明しています。

エペ2:20 使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。

使徒と言うのが筆頭であります。使徒の土台に私たちは建てられているのです。ここで使徒ペテロという言葉を使っているのは、そのことを伝えてくれているのです。

 続けて、寄留している事を考えましょう。
寄留しているとはもともと、ユダヤ人に言われている言葉です。ユダヤ人とは、言い換えると神様によって特別に選ばれた民の事です。この選びの民は本来イスラエルにいるはずです。それがどうして、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留する様になったのでしょうか?これは、ユダヤ人の不信仰の罪によって、散らされたからであります。信仰者が本来いる国にいないで、違う地域にいるという、ある意味で悲しい言葉であるでしょう。

この言葉はギリシャ語でディアスポラという言葉であります。ペテロはこのアジアの人々にディアスポラの人々と語るのです。因みに、このアジアの教会にも、ユダヤ人が確かにいたでしょう。しかし、大方は当然異邦人でありましょう。つまり、クリスチャンに向かって、散っているディアスポラの方々と言っているのです。これはどういう意味でしょうか?

これは、クリスチャンが本来いるべき場所ではなく、違うところにいて、帰郷する故郷があることを言っているのです。帰郷するとは、どこにでありましょう。皆様はどこに帰るのでしょうか?当然それは、神様のもとである天国であります。この世にいると言うのは聖書から見ると一時的な旅でこの世界に寄っていると言うイメージなのです。この世での旅は私たちにとって大変楽しい事もありますが、それと反対に痛みや、悲しみがたくさんあるかもしれません。

しかし、この後、私たちは神の御元に行き、痛みや悲しみもない天国に至る事が決まっているのです。このペテロの手紙は、試練の中にあるクリスチャンにどんなことがあっても神の御心である善を行う様に言っているのであります。何故、その様に出来るのでしょうか?それは私たちがこの後到着する天国が私たちには約束されているからです。完全な神の国が私たちには用意されており、次のように言われています。

ピリ 3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

 この大いなる希望があるので。私たちはどんな絶望的な状態であっても希望を神様に持つことが出来るのです。忘れないでください。今、私たちはこの世に寄留しています。しかし、この後完全な天国という場所が待っているのです。

では、この天国に入るにはどうすれば良いのでしょうか?それは、イエス・キリストを信じる事であります。ある方に、かつてイエスキリストを信じ切れないと言われたことがあります。本当に私の主なのか、この方に信頼して良いのか分からないと言われたことがあります。私はそれに対してイエス様の事をお伝えしますが、最後の部分はご自分が聖霊によって信じられるかどうかなのです、としか何も答えられないのです。信仰が持てるか持てないかは自分の努力によらないからです。

その事を考えるには1節の選ばれたという言葉が大事なのです。続けて選ばれた人を考えましょう。
 クリスチャンは自分が選ばれたものであることを理解させられます。クリスチャンは、自分が救われたのは、ただ単に恵みによって神様の恵みによって、選ばれた事を知っています。信仰は神様が選ばれたからこそ、信仰に至り、そして従って行くように導かれるのです。私たちは自分が選んだかのように思うことがあるかもしれませんが聖書はそうはいっていません。

どんなに性格が良い人でも、反対にどんなに性格が悪くても、また、どんなに信心深い人でも、反対に全く宗教とは縁がない人でも、救われたり、救われなかったりするのです。ここに法則はございません。何故でしょうか?それは神様の選びがあるから救われるからです。神様が選ばれた人間は神様の所に行き、感謝して神様の声に従う様になるのです。ここに神様の恵みの、選びがあるのです。それは少し、言い換えると次のような世界です。

羊飼いであるイエス様が、ご自分の言葉を語られる時に、イエス様のものである人たちは従っていく様に導かれます。その様子をイエス様は次のように言っておられます。

ヨハ 10:27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。


 救いに導かれている人は、主の声を聴き分け、イエス様に従っていくのです。そしてそれは神様の選びの中で、そうなっていくのです。ある方は、信仰を確信するまで何十年と必要な方がおられます。また、ある方は数年で信仰を持つ人もいます。また、一瞬で信仰を持つ人もいます。これは、主の選びと導きによるのです。まだ、イエス様を信じておられない人は、まだ、その時が来ていないと焦らないでください。既に教会に来て信仰生活を歩み続けているのです。そのため、主を信じて歩き続けて下さい。そして、すでに信仰を持たれている人は、感謝するとともに、この信仰生活をどんなことがあっても信頼しつつ最後まで、走り切らせて頂きましょう。

ペテロがこのペテロの手紙をクリスチャンに書いたのは、その目的のためです。キリスト者のこの世の人生は、必ず、苦難を伴うものであります。それはなぜでしょうか?それは次のようにであります。

Ⅰペテ 1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていくよりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。


 試練は、私たちの信仰を価値あるものとしてくれるのです。イエス様が最も大きな試練を乗り越える事によって私たちの命を買い取って下さったようにです。それが選ばれた人たちの歩み方なのです。
 

クリスチャンが本当に成長すると柔和であり、知恵があり、本当に素敵な人になっていきます。まさにキリストに似ていくのです。時々そんな人に会います。それは、神様に選ばれ、試練を通らされ、嘆き、苦しみもあり、でも、強さも忍耐深さも与えられるのです。それは自分の力ではなく、キリストが愛して下さった愛と、赦して下さった罪の赦しを頂くと共に、神様の力を頂ききながら、神様の知恵を頂きながら、そう研がれていくのです。

神様の前にキリストに似たものになる様に期待しつつ、すでに神様から頂いた選びと恵みを覚え進もうではありませんか?一言お祈りを捧げます。