礼拝メッセージ
2009年11月22日 加藤真喜男師
エペソ人への手紙6章12〜18節「祈りについて」
今年は辰口キリスト教会では、祈りを中心に学んできました。皆様は祈りについて、新たなる真理に目が開かれたでしょうか?いや、祈りにおいて神との交わりが深められたでしょうか?
今日はしかし、少し祈りについていつもと違う点を共に学んでみたいと思います。
祈りは戦いである事を感じる事があります。神に向かおうとすればする程、邪魔されていると感じることはないでしょうか?祈り始めようとすると、急に違う事が浮かんでくる事はないでしょうか?不信仰に聞こえるかもしれませんが私は良くあります。
これは神に向かおうとする時、サタンが私たちの祈りを妨げようとしているという事です。これまで、何度か祈りのメッセージでお話させて頂きましたが、祈りは神との交わりを持つための手段です。そして私たちはこの手段を通して、今生きておられる神と会話ができるのです。
ではサタンはこの交わりに対してどう思っていると思いますか?サタンは神との交わりをさせたくありません。サタンは神を信じないように多くの疑問を求道者に与えるでしょう。罪の問題や救いの核心に関して、何もしないでもどうにかなると思わせたり、自分の罪をぼやかし、キリスト意外でも救いがあると思わせたり、救いは罪からの救いではなく、自分が抱えている問題からの救いであるかのように人間の心に働きかけるのです。少しずつサタンは疑問を抱かせ神を信じないようにしていくのです。
しかし、罪の問題をキリストの十字架で完全に解決した聖徒に対してサタンはどうするでしょうか?サタンは、神との交わりが意味のないものだと思わせます。つまり、祈りには力が無いかのように思わせるのです。もしキリスト者が祈りに力があると気付けば、もう伝染病のように祈る者は増えて行くということを知っているので、サタンは必死なのです。
創世記でエバを上手く騙したようにサタンは、常に信仰者が神から離れるように仕向けるのです。皆様が祈れない、聖書が読めないということは、まさにこのサタンの攻撃に逢っていると言えるでしょう。いや、教会に行くのでさえ、辛い時があります。まさにサタンの妨害は強力なのです。
こんな事を言うと、神に従い、神に守られている私たちに、サタンが手を出せるはずはないと思われる方もおられるでしょう。
しかし、それは本当でしょうか?いや、神に守られていると確信しているでしょうか?
神に従っていたであろう、ダビデも、モーセも試練に遭い、それぞれの信仰においてサタンの攻撃を受けました。そして彼らの信仰は揺らされたのです。サタンによってです。今日の聖所箇所の少し前の12節に何と書いてあるでしょうか?
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
血肉の格闘ではないというのはどういう事でしょうか?私たちが戦わなくてはいけない戦いは肉体的であったり血を流すような戦いではないということです。私達は目の前にある試練の中で、右往左往します。そして何故、その様に試練があるのかと、その部分だけ見て苦しみます。
しかし、私達が戦っている戦いは、その人生の一点だけ見ても分からない敵なのです。それは巨大で力を持った敵だからです。私達は霊的な事柄
は現実的な事ではなく、未開の地での分けのわからない力だと考えてしまうかもしれません。しかし、霊であられる神の存在を知っている私達が悪霊の存在を信じられないのもおかしなことではないでしょうか?
そして聖書は、私たちに私達がこの世で戦っている相手は、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。と、この世界でも、人間でもなく、この世を支配している悪魔であると教えてくれています。
何気ない自分の人生の戦いには、このサタンとの戦いがあると言うのです。もし私達が、この敵を知らないでいるならば、私達は勝利できないでしょう。神の助けを頂き、備えなければ、どうしようもない敵だからです。
サタンは聖書に立つ必要も、神に向き合う必要もそれ程感じさせないようにするでしょう。全てが偶然あるかのように思わせ、自分で一つ一つの問題を乗り越えれる力があると思わせるでしょう。
いやあるいは自分の前には問題が無いと思わせるかもしれません。つまり、神を抜きにして人生を戦わせようとするのです。もちろん、目の前の問題を乗り越えられるかもしれません。しかし、神を抜きにして問題を乗り越えた時、同時に私たちの信仰生活は敗北しているのです。つまり、表面的な問題を乗り越えても、その背後にあるサタンとの戦いに敗北したと言う事なのです。悪魔の手の中で平安となりやすいのです。
これは信仰者にとって本当に恐ろしいことであります。自分が神の前を、歩んでいるつもりであったのに、どんどん神から離れている事があり得るのです。気をつけなければなりません。
そして、聖書はそのサタンに対して備える事を教えているのです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
パウロはすべてのクリスチャンに神の戦士としてこの天上の敵であるサタンに対するよう勧めています。サタンは霊的な存在ですから、私たちが持ち合わせる勇気や知恵などでは抵抗出来ません。神が与えて下さる賜物が必要です。パウロはその賜物を戦いのために分かり易く武器にたとえています。私たちが神から受けている一つ一つの武器を吟味すると、本当に励まされる思いがします。
ここから、神の五つの武器が表されるのです。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
第一の武器は「真理の帯」です。この真理の帯はどういうことでしょうか?帯は腰に刀をつるして行動を自由にします。神の真理に立つ信仰者は、自由なのです。この神の前の真理を自分の中に持っていなければ、私達は神の前に恐れつつ、神の前に立つ事が出来ないでしょう。 ヨハネ8章32節にこのようにあります。
真理はあなたがたを自由にします。
まさに、信仰者を神の前にも人の前にも自由にする真理の帯を締める必要があるのです。
第二の武器は「正義の胸当て」です。正義とは、神の聖なる律法の原則に忠実であり、更に神に心から従うという思いです。もし神の御心でないと分かっているのに、神の御心を無視するなら、この正義の胸当てには穴が開いていることになるでしょう。
第三は、「足に履く平和の福音の備え」です。
私たちは何処に行くにでも出かける時には履き物を履きます。キリストに救われた者は、その様に何処に行くにも福音を携えて行くということです。平和の福音を宣教することは、私たちに任されたこの地上での使命です。
しかし、福音だけではなく、ここにはもう一つこの平和の福音の履物には意味があると思われます。戦いにおいて最も重要な部分の一つは足です。もし足がよろよろしていたら、敵の一撃をよけ損ねることもありうるでしょう。ルターは「我ここに立つ」と言って、聖書を指しましたが、私たちクリスチャンの救いの根拠はこの福音であり、福音に立つ必要があり、更にはこの履物を履くことが必要なのでしょう。この福音から外れない為にです。サタンが私たちの信仰を攻撃して揺るがす時、福音は私たちの足元を揺らぐことなく支えてくれるのです。いつも足元に福音を履いていたいものです。
第四は「信仰の大盾」です。この大盾はもともと扉を意味する言葉から来ているようで、それだけ大きな代物です。パウロは敵の攻撃を火矢と言っています。火矢はその先にやじりが付いており、鎧さえさえ刺し通すような、強力な武器であります。そして矢先には麻が巻かれており、火が燃えているのです。
2重に強力なこの火矢から守ってくれるのが、自分の全身を覆ってくれる信仰の大盾なのです。
この火矢とは人々の汚れた行為や言葉の矢であり、嘲笑であり、信仰を消そうとする惑わしの言葉や失望を誘うような偽りの言葉であります。これら一つ一つは、信仰者の心を、後ろ向きにさせるだけでなく、強力な打撃力を持って絶えずサタンは攻撃してくるのです。それらの火矢から守るのは信仰と言う大盾なのです。
第五は「救いのかぶと」です。救いは最も人間に重要なものであり、それだけに人間の頭と共にあるものなのです。諺に「かぶとの緒を締める」とありますが、救いがぐらつかないように、そして救いがずり落ちる事がないように、しっかりとかぶり備える必要があるのです。
そして最後は「御霊の与える剣」です。防具ではなく、攻撃の武器です。この御霊の与えて下さる剣とは、もちろんただの剣ではありません。それは霊的な敵と戦う事の出来る剣であり、それは神のことばである聖書だと言います。
ヘブル4章12節 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
この御霊の下さる剣は、非常に鋭く、敵であるサタンと戦う力があります。それは自分に関わる一つ一つの問題に対して、どう対処すればよいかと言うことを切り分ける力が与えられるのです。
そして多くの場合、最も私たちの魂を意気消沈させる自分の中の思いを見分ける事ができるのです。私達は人を恐れるかもしれません。人の発言に私は敏感に反応してしまう者です。そしてサタンは、人の言葉で大いに私たちを落ち込ませます。
その結果私達は大いに落ち込み、信仰をダウンさせられます。これは信仰者にとって恐ろしい事です。しかし、もっと、恐ろしいのは、自分の心の中に働くサタンの攻撃です。自分の罪を自分に見せなくしてしまい、信仰者の心が御言葉に向かないように、ガードしてしまうのです。そして自分の心の中にある罪を光の前に持ってこなくて良いと言う思いにさせてしまうのです。またアダムやエバが堕落後に責任転嫁をしたように、私たちも自分は悪くない、人が悪いのだと責任を転嫁する者になっていくのです。しかし、御霊の剣である聖書は、鋭く私たちの魂と霊を、そして心に中の一つ一つ、つまりサタンが植えつけた思いも見分ける事が出来るようにしてくれるのです。
それは自分の内にある物も他の人の内にある物もです。ある時にはサタンはマタイ13章にあるように巧妙に毒麦を蒔くでしょう。またある時には、職場や家族内での不和をサタンは用いるでしょう。いや巧妙にサタンは私たちの心に神の御言葉以外の何かを植え付けるでしょう。それを全て御言葉の剣は判別させてくれるのです。まさに御言葉は人の心の奥の奥にまで切入って、真実を教えて下さるのです。
この防具と武器の説明の後に、どうすればこの一つ一つを使いこなせるかの説明があります。
6:18
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
私達は信仰の大盾を持っていても、祈らないのなら使い方が分からないのです。もし祈りが無ければ、御霊の剣があったとしてもどの様に使えば良いのかわからないでしょう。いやもっと言うならば、御霊によって祈らないのなら、ただ祈っていても私達が与えられている武器は使えないのです。御霊に私たちの心を開いて、私たちの中に住んでくださいと祈らないのなら意味が無いのです。
そしてその祈りを持ちつつ絶えず目を覚ましている必要があるのです。この目を覚ましているとは、寝てはいけないと言う事ではありません。それは主に目を向け、ることなのです。つまり主のみ心を求め続けると言う事なのです。その祈りは自分達のためだけではありませんでした。この箇所には全ての聖徒の為にと書いてあります。この神の武具は全てのキリスト者のために使われるものなのです。そしてもう一つ決して忘れてはいけないのは、一回きりの祈りと言われていないことです。本日の箇所には忍耐の限りを尽くしとあるではないでしょうか!祈りは忍耐を必要とすることが分かります。祈りなんて簡単と思われるでしょうか。いいえ、私たち人間がいかに霊的に弱く、祈るためには忍耐の限りが必要であることを聖書も認めているのです。主は私たちの弱さをご存知です。その上で祈るように求められているのです。
聖書にあるように神はこの祈りを望まれているのです。
私達は、サタンと戦う時に、このような祈りが必要であることを見て来ました。自分はそんな信仰の勇者ではないと言われるでしょうか。しかし、真理、正義、福音、信仰、救い、御ことば、これらを皆さんは神から既に賜物として受け取っておられるのです。日々のデボーションの中で、神の前に静まって一つ一つの武具を錆び付かないようにチェックして、いつも身にまといましょう。これらはいっさいを成し遂げて堅く立つ事が出来るための神の武具なのですから。
私たちはサタンに敗北していると思うときがあるかもしれません。しかしもし私たちが神に助けを求め続けるなら神は勝利を与えて下さるのです。忍耐を尽くして、教会のため、すべての聖徒たちのために祈っていきましょう。
お祈りいたします。