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祈祷会メッセージとお祈りの課題

ヤベツの祈り

ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。
I歴代誌4:9-10

旧約聖書に戻り、歴代誌に入りました。少し前にサムエル記、列王記の通読があったので、サムエル記、列王記との違いなども見ていくと興味深いかと思います。違いを発見すると、どちらかが間違っているのではないかとも思いますが、すぐにそう決めつけず、お互いに補完しあっていると見ると、より深い神様のメッセージが読み解けると思います。歴代誌3章には、ダビデの子孫の系図が示され、バビロン捕囚の終わりの世代まで一気に書かれています。19節に登場するゼルバベルは、バビロン捕囚の後、エルサレムに帰ってきたユダヤ人たちの指導者の一人です。このことから、歴代誌は、エルサレム帰還以降に書かれたと推測できます。列王記の終わりがバビロン捕囚の始まりまでであったのに対して、歴代誌ではバビロン捕囚以降も記されているのです。こう見ますと、歴列王記と歴代誌では書かれた目的が大きく変わってきます。神様に従って歩むという点では同じですが、「バビロンに行く理由」が語られる列王記と、「エルサレムに帰るに際して」語られる歴代誌ではメッセージ性が大分変ります。そういった点を見ながら、読み進めたいと思います。

歴代誌4章には、創世記のエノクのように、短くも有名になったエピソードがあります。ヤベツのエピソードです。ヤベツについては出自があまり明らかではありませんが、ユダの子孫について語られている途中に収められていますので、ユダ族で、ダビデ以前であろうと考えられます。ヤベツが生まれた時、この家には大変悲しいことがあったようで、母親が「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」という理由でヤベツと名付けられました。 →『ヤベツの名前の意味について(外部サイトへ)』 しかしヤベツはそのまま悲しみだけの生涯を送ったわけではありませんでした。9節の冒頭にも「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。」とあります。また10節には神様がヤベツの祈りを聞き、祝福されたことが記されているからです。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます(IIコリント1:4)。」神様は悲しみ、苦しみ、弱さの中にいる人を見捨てることはありません。神様はヤベツの願ったことを叶えられたと聖書は記しています。ヤベツが願ったことは、大いに祝福し、地境を広げ、わざわいから遠ざけ、苦しむことのないようにでした。大胆な祈りですが、その大胆さは、ヤベツ自身が悪い考えや、自己中心な考えから願ったのではないことを聖書は暗に示しています。ヤベツは悲しみの人であり、苦しみ、病を理解していた人であった。自分の力を誇りたいのではなく、神様の御手が私に上にあるようにと願ったということを聖書は示しています。エルサレムに帰還するに際して、ユダヤ人に必要なことは、神様との関係を正すことであったのかもしれません。ユダヤ人はバビロン捕囚を経験し、悲しみを知る民となりました。その後、民が神様にどんな姿勢で何を願うかが問われていたのかもしれません。

私たちも境遇は様々ですが、神様に大胆に願う事を遠慮してしまう事もあります。しかし遠慮はいりません。なんでも神様に聞いて頂く方がいいのです。その願いの中にどんな思いが潜んでいるか、神様はちゃんと見抜いて、祝福すべきところは祝福し、直すべきところは指摘してくださるからです。

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*書籍『ヤベツの祈り』なども参考にしてみてください。

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キリストにあって共に忍耐する

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
ヘブル10:35-36

初期のキリスト教会は、多くの迫害に会いました。彼らはキリストを信じているというだけで苦しめられ、殺されました。西暦30年前後にキリストの十字架と復活があり、初代教会が誕生してから、西暦313年にローマ帝国でキリスト教が公認されるまで、程度の差はありましたが、キリスト教会は長い迫害の期間を過ごします。ヘブル人への手紙が書かれた時にも多くの迫害があったことでしょう。中には、キリストへの信仰を捨ててしまう人も多くあったようです(ヘブル10:25参照)。このような人々に励ましを与えるために、このヘブル人への手紙が書かれました。

ヘブル人への手紙の記者は、手紙の名前の通り、ヘブル人、ユダヤ人に宛てて書いています。5~10章には律法の事や、儀式の事が多く書かれていました。これらは私たちにはなじみが薄いですが、ヘブル人にとっては、なじみ深い物でした。ヘブル人への手紙の記者は、いろいろな儀式があるが、その中心はキリストだということを証しするために長い手紙を書きました。律法も、儀式も神様から与えられたものですが、それらはみな、キリストの贖いの予型だったのでという事を書いています。キリストこそ真の、完全な贖いを成し遂げる方だったのですと書いています。

多くの困難、迫害があった時代、「がんばろうね。」「負けないようにしようね。」とは言っても、その根拠が分からないと、耐えることは難しいです。キリストは本当に救い主なのかどうなのかと迷っているうちは、信仰の忍耐を持つことはできません。ヘブル人への手紙の記者はそれを承知で、キリストの贖いがいかに完全なものであったか書くために多くの紙面を割いているのです。キリストは確かに神であり、そして人でもあるお方です。キリストは人間なので私たちの弱さを完全に理解し、そして神でもあるので完全な救いを与えてくださいます。私たちはこのキリストだからこそ、希望を置くことができます。

ヘブル10章には、ヘブル4章と呼応するかのように、同じような文章が並べられています。ヘブル4章を読んでいた時には、「がんばろう。負けないようにしよう。」と励まされてもなかなか意欲が湧いて来ないかもしれませんが、キリストがいかに素晴らしい救い主であったか説明を受けた後の10章では、キリストに信仰を置くことに勇気が湧いてきます。さらにこの後、ヘブル11章では、信仰の先輩たちがいかに忍耐して信仰を守り通したかが記されています。私たちは一人で信仰を守ろうと頑張っているのではありません。また2~3人とか少ない集団というわけでもありません。まず、キリストという神であり、人である大祭司がおられます。そして信仰の諸先輩方がたくさんいます。東京フリー・メソジスト教団は現在600人ほどの会員がいます。すでに信仰生涯を全うして召された先輩方もいます。ヘブル人への手紙の記者は「あなたは忍耐しなさい」とあなただけに向けて語っているのではありません。「あなたがたは」と同じ信仰を持つ仲間全体を指して語っています。私たちは共にキリストにある希望の確信をもって忍耐していきたいと思います。

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夏休み企画

夏休み企画2017

もうすぐ夏休みですね!

昭島教会では、夏休み企画として、礼拝説教で「聖書ってなに?」シリーズを行います。今年は、新しい新改訳聖書も発行されますが、改めて聖書について一緒に考えていきましょう。知っている人も、知らない人も、聖書再発見です。

  • 7/30 聖書は神のことば
  • 8/6 神のことばは、永遠に
  • 8/13 聖書が示すキリスト
  • 8/20 聖書を通して人を活かす神
  • 8/27 みことばを受け入れる

いずれも礼拝は、10:30~12:00です。
どなたでもご参加いただけます。参加無料です。

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弱さを抱えた大祭司

彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
ヘブル5:2

新約聖書に戻り、ヘブル人への手紙に入りました。ヘブル人への手紙は、その名の通り、ヘブル人(ユダヤ人)に宛てて書かれた手紙です。ヘブル人は昔、神様から律法を与えられ、旧約聖書を持っています。旧約聖書に日ごろから親しみ、律法の行いを守っている人たちです。旧約聖書の中には、いけにえのこと、幕屋のこと、ヘブル人の祖先の歴史が記されています。キリストが十字架の贖いを成し遂げた後、旧約聖書に書かれているこれらの事を、キリストがどう繋がっているのか、教えているのがヘブル人への手紙です。私たちはヘブル人の律法に詳しくありませんので、この手紙を読む時は、旧約聖書を参考にしながら読み進める必要があります。

5章では、大祭司について記されています。大祭司は、祭司たちの中から一人選ばれます。大祭司は、自分の罪の贖いの儀式、聖別の儀式を行い、また祭司たちのための罪の贖い、聖別の儀式を行います。こうして祭司たちは、全てのヘブル人と神様をつなぐための儀式、ヘブル5:1によると「神に仕える事がら」を行うことができるようになります。大祭司も人間ですので、罪がないわけではありません。しかし神様のための事がらを行うには、罪あるままでは行えません。罪の贖いをし、自分の身を聖別する必要があるのです。大祭司は、神に仕える身でありながら、罪ある人間であるという性質があり、神様はそれを解決する方法をちゃんと与えてくださっています。

しかし、大祭司が人間であるということは不便な事ばかりではありません。大祭司は自分も人間であるため、弱さを抱えている人間のことを十分に承知しています。ですから大祭司は真心から弱い人間に同情することができ、とりなしのために真剣に祈ることができるのです。キリストが神でありながら、人間となられたのには理由があります。それはキリストも弱い人間となって、その弱さを十分に知り、大祭司として相応しいものとなるためでした。ヘブル5:7-10にそのことが記されています。最近、『インサイド・ヘッド』というアニメ映画が公開されました。人間の頭の中の喜びや悲しみといった感情が、キャラクターとなって頭の中で奮闘している様子を描いたアニメ映画です。その映画の中でカナシミはトラブルメーカーのように扱われてしまいますが、映画が進む中で、カナシミにも意味があることが分かってきます。それはカナシミは他の人のカナシミと共感することができ、他の人と共感することが新しい喜びのもととなり、かけがえのない宝物に代わっていくということです。この映画は、弱さや悲しみにも意味があることを教えてくれます。

神様は弱さも力に変えることができるお方です。悲しみの価値、人と共感することの素晴らしさを造って下さったのも神様です。キリストは完全な人となられたので、私たちの弱さ、悲しみに同情し、共感することができます。だからこそ完全な救いを与えてくださいます。私たちの弱さ、悲しみもキリストが理解してくださることに感謝したいと思います。また理解してくださるからこそ、私たちは素直に自分の罪を認め、正直に告白したいと思います。キリストは必ず同情し、完全な救いを与えてくださいます。

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神様の備えられた捕囚の道

そこでゲダルヤは彼らとその部下たちに誓って、彼らに言った。「カルデヤ人の家来たちを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。」
II列王記25:24

列王記も最後の章となりました。南ユダ王国には、ヒゼキヤやヨシヤなど、神様に従って歩んだ王たちもいましたが、多くの王は、神様に従って歩みませんでした。特に列王記の最後ではマナセ王について触れています。マナセ王は北イスラエルで盛んに行われていた異教の神々への信仰を南ユダ王国で始めます。また多くのユダの民の血を流したと聖書に記されています。神様はマナセの行いを見て、南ユダも滅ぼすことを決意されます。

南ユダではヨシヤ王の後、バビロンの侵攻を受けるようになり、バビロンの王によって、南ユダの王が立てられるという事が何度か起きます。いわゆる傀儡政権です。南ユダの最後の王ゼデキヤもバビロンによって指名された王でした。列王記では詳しいことは記されていませんが、エレミヤ37-39章、52章などにはゼデキヤ王がバビロンに反逆してエジプトに助けを求めようとしたことが記されています。これが決定的となりバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムを破壊します。

しかし神様は、南ユダを完全に滅ぼしてしまうようなことはしませんでした。ゼデキヤの前の王であるエホヤキンはバビロンに捕らえられましたが、バビロンの王の好意を受けてバビロンで不自由なく生活したことが列王記の終わりに記されています。またバビロンの王は、ユダの人々を捕囚の民としてバビロンに連れ去ったことが記されています。神様はユダの人々を滅ぼしつくすことが目的だったのではなく、エルサレムを離れさせ、異国の地バビロンで神様の民を立て直すことが目的でした。ユダの人々からすれば辛い日々が始まることになるのですが、その辛い経験がユダの人々にもう一度神様に立ち返る機会となったのです。

列王記の最後にはゲダルヤという人物が登場しています。この時、ゲダルヤは預言者エレミヤと共に、エルサレムに残って住んでいました。バビロンの王がゲダルヤを総督として任命したのです。それは一部残されたユダの民からしっかりと税を取り立てるためでした。ゲダルヤはこう言い残しています。「カルデヤ人の家来たちを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる(25:24)。」これこそ神様からのメッセージでした。南ユダの人々の神様に対する反逆は、もはや決定的でした。神様はエルサレムに留まり続けることをお許しになりませんでした。しかし神様はバビロンでの生活を保障されています。苦しい期間ではありますが、バビロンで必ず生き延びることができ、またエルサレムに帰ってくることができることを保障しています。だから今は、バビロンの王に仕えることが神様からのメッセージでした。

Iコリント10:13に「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります。バビロン捕囚という苦しい経験の内にも、神様はちゃんと道を残してくださっていました。私たちの辛い経験の内にも、神様がちゃんと道を備えて下さっていることを期待して祈りたいと思います。

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