神様の愛によって愛する

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
Iペテロ4:7-8

ペテロの手紙に入りました。ペテロの手紙は第一と第二に分かれいます。第一は、どちらかと言うと、教会外からの苦難、迫害や困難に対する励ましの便りとなっています。第二は、どちらかと言うと、教会内の苦難、偽預言者や、反キリストに対する警戒が書かれています。いずれにしても、教会に宛てた手紙であり、キリストの真の福音に留まり続けるように励ましている手紙です。使徒ペテロは、イエス様から「わたしの羊を牧しなさい(ヨハネ21:16)」と言われました。ペテロがイエス様の言葉を忠実に守り、教会を見守り、十分なケアをしようとしていた事が手紙からも分かります。

ペテロは4章の最初で、人間の欲望に従ってではなく、神のみこころに従って歩むように勧めています。そしてそのようなクリスチャンの姿を見て、世の人々は不思議に思うかもしれないという事を述べています。しかし世の流れに乗らずに神様に従ってあゆむように勧めています。迫害というと、肉体的な苦痛、「燃えさかる火の試練(4:12)」をを連想させます。この時代の教会は、そのような迫害も実際に体験していましたし、これからも体験するであろうことをペテロは示唆しています。しかし迫害は、肉体的な苦痛だけでなく、精神的なストレスの迫害もあることが、このペテロの言葉から伺う事ができます。「愛」の反対語は「無視」であると言われます。気にかけてもらえないこと、無視されること、全く価値のないもののように捉えられてしまうことは、私たちにとって苦痛です。キリストの福音、神のみこころに従って歩むことが、他の人から見て全く価値のないもののように捉えられてしまうのは、苦しい事です。ましてクリスチャンが少なく、周りに仲間がいないような時にはもっと苦しいはずです。日本の現状が正にそうかもしれません。肉体的には迫害に会っていなくても、精神的に追い詰められていることはあり得ることです。ペテロはそのような教会に対して、キリストにあって励ましを与えています。4:14にあるようにもし私たちがキリストの名のために非難を受けたとしても、神様の御霊が私たちの上に留まって下さいます。神様は公正な裁きをしてくださるお方ですから、私たちが迫害に耐えて信仰を守りとおすなら、必ず私たちに報いてくださいます。

精神的な迫害は、苦痛を与えている側は自覚が無いという事がよくあります。私たちも気をつけなければ精神的なストレスを周りの方に与えてしまいかねません。愛は教会でもよく説かれている大切な教えです。4:8でも「互いに熱心に愛し合いなさい」と勧められています。しかし愛にも種類があることを押さえておく必要があります。母性愛は子どもを思う親の愛として素晴らしい愛であると言われます。しかし母性愛も人間の愛に根ざした愛であれば、他の人との対立を生みだします。母性愛は「わが子」を愛する愛ですが、人間は「わが子」と「あの家の子」を区別してしまうからです。ひとたび「わが子」と「あの家の子」が対立すると、「わが子」を愛する愛が「あの家の子」を傷つけてしまうことがあります。

しかし神様にとって「わが子」とは全ての人を指す言葉です。神様の母性愛は、全ての人を分け隔てなく愛します。私たちはキリストによって救われ、神様のみこころに従って歩もうとしているのですから、「互いに熱心に愛し」あう時にも神様の愛によって愛し合いたいと思います。神様の愛は罪の力に屈することはありません。神様の愛は多くの罪をおおいます。ペテロが神様の愛によって教会を愛し、牧したように私たちも周りの方々と愛を持って接していきたいと思います。

お祈りの課題
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  • 伝道礼拝のために
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すべては神様の導きのままに

私たちの父祖の神、主はほむべきかな。主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった。私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。
エズラ7:27-28

エズラ記に入りました。エズラ記、ネヘミヤ記はもともと一つであったと言われています。列王記、歴代誌の終わりで、ユダヤの民は国を失って、バビロンへ連れていかれました。その後、バビロン捕囚という苦しい期間を通りますが、もともとの神様の計画通り、ユダヤ人たちはバビロンからエルサレムへ帰ってきます。バビロンからの帰還がエズラ記、ネヘミヤ記の主題です。エズラ、ネヘミヤを見ますと、バビロンからの帰還とは、単に引っ越しをするというだけのことではありませんでした。神殿の再建と、真の神様への信仰の回復という民の心の内面も変革されなければいけませんでした。

エズラ記の前半は、ゼルバベル率いる第一次帰還民のお話です。この時にはエズラはまだ出てきていません。7章に入り、エズラが登場します。そして7:27からは、「私」という一人称の言葉が使われて、まるでエズラ本人の日誌のように書かれています。このような書かれ方はネヘミヤ記も似ています。

エズラ記とネヘミヤ記は「私」という言葉が使われていることも似ていますが、7:28にあるような、「主の御手が私の上にあった」という表現に見られるように、神様の導きに感謝しながらことを進めている様子も似ています。エズラ記7:1によると、ペルシャの王はエズラの願いを聞き入れたという事が書かれています。エズラはペルシャである程度の地位があり、王に願い出ることができるような立場だったようです。エステル記などを見ますと、ペルシャでの王の権限はとても大きな絶対的な物でした。ですから、エズラは決して強引な要求はせず、ペルシャの王と平和を保ちながら、ことを進めようとしていたようです。それはエズラがこの世の権力社会にすっかりはまってしまっているからというわけではなく、7:27にあるように、神様は、ペルシャの王の心を用いることができるからという確信の故でした。ペルシャの王がどんなに大きな力を持っていたとしても、神様はそのペルシャの王をも従わせることができます。神様は預言者を通して、ユダヤの民をエルサレムに帰還させることを約束してくださっていました。エズラはその約束を信じて、神様のタイミングを待っていたのだと思います。そしてそのタイミングが訪れた時には、エズラはまず神様に感謝をささげています。「私たちの父祖の神、主はほむべきかな。」

このことは、現代に生きる私たちにも通じるものがあると思います。確かに神様は、全ての人が神様を求めるようになることを願っておられます。そのために私たちをも用いてくださるかもしれません。しかし私たちは、自分の力で強引に事を進めようとせず、神様のタイミングを祈り待ち望む必要があります。すべては神様の導きのままにというエズラの姿勢を見習いたいと思います。そうすると自然と肩の力が抜け、のびのびと信仰生活を送ることができると思います。また神様の背後の働きにもすぐに気づくことができ、喜びをもって感謝をささげることができると思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
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  • 青年運動会、教団創立記念礼拝のために
  • 青梅教会のために

二心

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
ヤコブ4:7-8

ヤコブの手紙のテーマは、信仰と行いについてです。ここで言う行いというのは、善行をするかしないかというよりも、普段の生活の中で神様を意識しているだろうかと考えた方が手紙の内容を理解しやすいかもしれません。ヤコブの手紙が問題としているのは、1:8、4:8で出てくる「二心」です。善行を行うことは良い事であると誰でも認める所です。しかし2:8-10にある通り、ある人に良い事を行っても、他のところでえこひいきをするなら、その人は罪人です。律法の一つを守っても、他の律法を守らないならば、律法を守ったことにはなりません。私たちの実際生活は煩雑で、常に良い事だけをして生きている人は少ないかもしれません。しかし神を信じ歩んでいる人がそのような生活を続けて良いのでしょうか?というのが、この手紙の意図するところです。

手紙の著者ヤコブによれば、それは心の問題であるという事です。心が二つに分かれてしまっている状態なので、神様に対する賛美と、兄弟姉妹への呪いの言葉が、同じ口から出てきてしまいます(3:9参照)。人は心に無いことを口にはしません。また心に思ったことの無いことを実践することもありません。心の中に、苦い思いと、神様に対する篤い信仰が同居してしまっているのです。ヤコブは言います。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」私たちはこの二つに割れてしまっている心を、神様に清めて頂く必要があります。

ヤコブの手紙は、よくパウロの手紙と対立しているかのように言われてしまいます。パウロの手紙は「信仰による義」を説いているのに対し、ヤコブの手紙は「行いによる義」を説いているかのように言われるからです。しかし、この二つの手紙は対立しているのではありません。一つの律法を守りながら、他の律法を守らないということは、ローマ2:21-23にも出てきます。パウロもヤコブも最終的に行き着くところは、人間はみな罪人であるということです。そしてこの罪の心、ヤコブによれば二心をきよめて頂かなければならないという点において、パウロの手紙も、ヤコブの手紙も一致しています。

私たちにとって自分が罪ある存在であると認めるのは、苦しいことかもしれません。しかしそれを認めない限り、神様に清めて頂くことはできません。神様の赦しと癒しを期待して、素直に自分の罪を認めて、告白したいと思います。そしてこの二心を清めて頂いて、常に神様にあって歩む生活をしたいと思います。それが私たちにとって素晴らしい祝福だからです。いつも神様への賛美を口ずさみながら歩んでいければ幸いです。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
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  • 秋季聖会、青年運動会のために
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マナセの悔い改めとバビロン捕囚

そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。
II歴代誌33:11-13

ユダの王マナセの治世は、南ユダ王国で一番長くなりました。彼の評価については、列王記と歴代誌で若干違います。II列王記21:1-18では終始神様に背いた王として描かれていますが、歴代誌では途中でマナセが悔い改めたことが記されています。マナセの前の王はヒゼキヤでした。ヒゼキヤの時代、ユダ王国はとても祝されました。ヒゼキヤは生涯、神様に従って歩んだ人でした。高慢になったこともありましたが、すぐに悔い改めることができた人でした。

しかしマナセは父親の道に歩まず、神様の背いてユダ王国を治め始めました。ヒゼキヤは神殿をきよめ、真の神様のための礼拝ができるように整えましたが、マナセはその神殿に他の多くの偶像を持ち込みました(II歴代33:7)。マナセはありとあらゆるまじないや宗教を、真の神様の礼拝と混ぜてしまったのです。ヒゼキヤの治世で、真の神様への礼拝に心が向いていた民の心は、マナセの行いによってとても惑わされることとなりました(33:9)。またII列王記21:16には、マナセがユダの民を大量に殺戮したとんでもない王であったことが記されています。マナセの故にユダ王国の未来(バビロン捕囚)が決まったように書かれているのです。

神様はそんなマナセに対して、アッシリヤを用いられました。列王記にはこの話は記されていません。アッシリヤから将軍たちがやってきてマナセを捕らえ、バビロンへマナセを連行したのです。マナセは、ヒゼキヤの時代に豊かになったユダの王宮を離れ、戦争に負けた捕虜としての屈辱を受けることとなりました。マナセはその苦しみの中から、神様に悔い改めの祈りをしたと思います。33:12-13に「彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈った」とあります。その様子をご覧になった神様はマナセの願いを聞き入れてマナセを救い出します。マナセをバビロンからエルサレムの王宮へと戻されたのです。マナセはこの出来事を通して「主こそ神であることを知った(33:13)」とあります。その後、マナセは遅ればせながら、国の改革に乗り出します。自分が神殿に持ち込んだ偶像を外に出して破壊しました。そしてユダの民にも、真の神様にのみ礼拝を捧げるように伝えたのです。マナセの改革は、列王記には記されていませんのでヒゼキヤの時のような大きな改革とはならなかったかもしれませんが、この後、王となるヨシヤの宗教改革の礎にある程度はなっていたかもしれません。列王記と歴代誌で、印象の異なる王様となっています。

マナセの悔い改めの記事が目を惹くのは、それがバビロン捕囚から帰ってきたユダヤの民と重なるからです。マナセはアッシリヤに連行されましたが、歴代誌では当時、アッシリヤの一つの町であったバビロンの名前が記されていることによって、読者にバビロン捕囚の事を思い起こさせています。ユダ王国の民は、マナセの後、50~60年ほどでバビロンに滅ぼされ、バビロンに捕囚されていきます。そこで約50年の間、バビロンで捕虜としての生活を送り、ペルシャの時代になってからエルサレムに戻ってきます。このバビロン捕囚は神様に反抗し続けた結果でしたが、この期間にユダヤの民は心を入れ替え、神様に立ち返ったことでした。この期間を通して「主こそ神であることを知った」のです。バビロン捕囚が神様からのただの罰としての帰還ではなく、恵みでもあり、神様と民の関係の回復のための期間であったことは、このマナセの出来事からも伺うことができます。あれほど酷いことを行ったマナセですが、心を入れ替えた時に神様から赦されたのです。神様は一人として滅びることを望まず、全ての人が神様との関係を回復することを願っているのです。

お祈りの課題
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