マナセの悔い改めとバビロン捕囚

そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。
II歴代誌33:11-13

ユダの王マナセの治世は、南ユダ王国で一番長くなりました。彼の評価については、列王記と歴代誌で若干違います。II列王記21:1-18では終始神様に背いた王として描かれていますが、歴代誌では途中でマナセが悔い改めたことが記されています。マナセの前の王はヒゼキヤでした。ヒゼキヤの時代、ユダ王国はとても祝されました。ヒゼキヤは生涯、神様に従って歩んだ人でした。高慢になったこともありましたが、すぐに悔い改めることができた人でした。

しかしマナセは父親の道に歩まず、神様の背いてユダ王国を治め始めました。ヒゼキヤは神殿をきよめ、真の神様のための礼拝ができるように整えましたが、マナセはその神殿に他の多くの偶像を持ち込みました(II歴代33:7)。マナセはありとあらゆるまじないや宗教を、真の神様の礼拝と混ぜてしまったのです。ヒゼキヤの治世で、真の神様への礼拝に心が向いていた民の心は、マナセの行いによってとても惑わされることとなりました(33:9)。またII列王記21:16には、マナセがユダの民を大量に殺戮したとんでもない王であったことが記されています。マナセの故にユダ王国の未来(バビロン捕囚)が決まったように書かれているのです。

神様はそんなマナセに対して、アッシリヤを用いられました。列王記にはこの話は記されていません。アッシリヤから将軍たちがやってきてマナセを捕らえ、バビロンへマナセを連行したのです。マナセは、ヒゼキヤの時代に豊かになったユダの王宮を離れ、戦争に負けた捕虜としての屈辱を受けることとなりました。マナセはその苦しみの中から、神様に悔い改めの祈りをしたと思います。33:12-13に「彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈った」とあります。その様子をご覧になった神様はマナセの願いを聞き入れてマナセを救い出します。マナセをバビロンからエルサレムの王宮へと戻されたのです。マナセはこの出来事を通して「主こそ神であることを知った(33:13)」とあります。その後、マナセは遅ればせながら、国の改革に乗り出します。自分が神殿に持ち込んだ偶像を外に出して破壊しました。そしてユダの民にも、真の神様にのみ礼拝を捧げるように伝えたのです。マナセの改革は、列王記には記されていませんのでヒゼキヤの時のような大きな改革とはならなかったかもしれませんが、この後、王となるヨシヤの宗教改革の礎にある程度はなっていたかもしれません。列王記と歴代誌で、印象の異なる王様となっています。

マナセの悔い改めの記事が目を惹くのは、それがバビロン捕囚から帰ってきたユダヤの民と重なるからです。マナセはアッシリヤに連行されましたが、歴代誌では当時、アッシリヤの一つの町であったバビロンの名前が記されていることによって、読者にバビロン捕囚の事を思い起こさせています。ユダ王国の民は、マナセの後、50~60年ほどでバビロンに滅ぼされ、バビロンに捕囚されていきます。そこで約50年の間、バビロンで捕虜としての生活を送り、ペルシャの時代になってからエルサレムに戻ってきます。このバビロン捕囚は神様に反抗し続けた結果でしたが、この期間にユダヤの民は心を入れ替え、神様に立ち返ったことでした。この期間を通して「主こそ神であることを知った」のです。バビロン捕囚が神様からのただの罰としての帰還ではなく、恵みでもあり、神様と民の関係の回復のための期間であったことは、このマナセの出来事からも伺うことができます。あれほど酷いことを行ったマナセですが、心を入れ替えた時に神様から赦されたのです。神様は一人として滅びることを望まず、全ての人が神様との関係を回復することを願っているのです。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 7-8月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 新来会者、求道者が与えられるように
  • 南平・昭島合同交流会のために
  • 教団の秋季聖会のために
  • 桜ヶ丘教会のために