赦しを求める姿勢

主よ あなたが御民を受け入れてくださるときに私を心に留め あなたの御救いのときに私を顧みてください。
詩篇106:4

聖書通読は詩篇に戻りました。詩篇106篇はI歴代16:34-36や、ネヘミヤ9章や、ダニエル9章などにも同じような表現が見られ、ダビデの時代の作とも、捕囚期以降の作とも考えられます。ダビデが作り、それ以降たくさんの時代に好まれて用いられたとも考えられます。この詩篇はイスラエルの歴史を振り返り、神様の前に数々の罪をおかしてきたことを告白しています。そして神様の前に悔い改めをしています。神様はそのような民に対し、深いあわれみを持って接して下さっている事が分かります。詩篇106篇には出エジプトから士師記くらいまでの歴史が記されているように思います。一つ前の詩篇105篇には創世記のアブラハムと神様との契約の事が書かれていますので、詩篇105篇、106篇と合わせて読むと、ダビデがそれまでのイスラエルの歴史を振り返っているような構造になります。

出エジプト記から士師記までのイスラエルの民の歴史は、聖書に赤裸々に綴られています。イスラエルの民は何度も神様に逆らいました。しかしその度に何度も神様はイスラエルの民を救われました。この詩篇で注目されるのは、イスラエルの民が神様に逆らい、神様がイスラエルの民を滅ぼそうと仰った時に、とりなし手が現れた事です。106:23にはモーセが破れてしまった神様とイスラエルの民の関係の間に立っている様子が描かれています。また106:30にはピネハスが仲立ちをしたと書かれています。もしモーセやピネハスのような、自分たちの罪を認め、神様に悔い改めて、民全体のためにとりなすような人物が現れなかったら、大変な事になっていたであろうと詩篇の記者は考えます。そう考えて106:4-6を読みますと、この詩篇の記者も自分たちの罪を認め、悔い改めて、民全体のためにとりなしているように見えるのです。

詩篇106:4を読んだ時、イエス様と共に十字架に架けられた強盗の言葉を思い出しました。ルカ23:42でイエス様と一緒に十字架刑に処せられている強盗は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。数日前にディボーションでデニス・キンロー師の本を読んでいたからかもしれません。キンロー師はシャン・カルヴァンの言葉を引用しながら、この強盗セリフは普通でてこない言葉であると語っています。イエス様も強盗も罪人として磔にされています。数人いた弟子たち以外の全員がそう思ってこの光景を眺めています。しかしこの強盗は、周りの全員が見ていなかったものを見ていました。イエス様の栄光を見ていたのです。弟子たちも悲しみのあまり、イエス様の栄光を見ていませんでした。強盗はイエス様の栄光を見て、自分の罪を顧みた時に、あまりにも罪深く、小さな自分を自覚しました。御怒りを受けても仕方のない者だと自覚しました。しかし同時にイエス様のあわれみも見たのです。強盗は自分はイエス様のあわれみにすがる資格もない者だと思いましたが、その片隅にでも覚えて頂けるならとこの言葉を言ったのです。強盗はイエス様を信じる民全体が救われて喜ぶさまを、その片隅で見る事さえできれば十分であると考えました。強盗の姿勢は、本当に自分の罪深さを自覚した時に生まれるものだと思います。そしてイスラエルの歴史を振り返った時に、本当に自分たちは罪深い存在だと自覚したこの詩篇の作者の思いともつながると思います。そのような者をもあわれみ、救いを与えて下さる神様を見る時、詩篇106:48に心から賛同して「アーメン」と言えるのではないでしょうか。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖餐礼拝のために
  • 代議員総会、プレイズジャムのために
  • 南平教会、教団の各教会のために

全き心を求める

私は全き道に心を留めます。いつあなたは私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。
詩篇101:2

 

聖書通読は詩篇に戻りました。詩篇101篇は表題に「ダビデによる」と書かれています。ダビデが王となった時、自分の信仰を堅く保ち、正義を行い、自分の家、つまり国の中枢となる王宮も信仰と正義を保つっていくと覚悟をしているような歌です。この詩篇の前にある詩篇95~100篇は、それよりもずっと後の時代の者と考えられており、バビロン捕囚が終わって、エルサレムに再び神殿が築き上げられた時、歌われたものと言われています。そう考えますと、詩篇101篇はバビロン捕囚の後、新しい神殿で神様に仕えていく祭司たちが、ダビデの歌を歌って同じように信仰と正義を守り抜くことを誓い合っているように思えます。

詩篇101篇の前半は自分の生活を清く保つことについて語り、後半は自分とかかわりを持っている人について語っています。前半部分を読んだ時の私の正直な感想は「私はこんな生活とはほど遠いな」というものです。「私は家の中を全き心で行き来します」「私は曲がったわざを憎みそれが私にまといつくことはありません」と告白していますが、ダビデはよくこんな事が言えるなと思います。私は自分の生活を振り返る時、これとは真逆なのではなかろうかと思います。そしてイエス様の十字架による赦しを乞います。聖書は確かにイエス様は私たちを罪から救い、きよめて下さると語っています。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる(イザヤ1:18)」と神様は仰って下さいます。しかしだからと言って、私たちは正義を追い求めなくてよいのではありません。信仰を保つ努力をしなくてよいのではありません。自分の力では、自分の生活を清く保てるか自信がないかもしれません。しかし、神様は私たちに自由に選択するように委ねていますので、私たちは清くありたいのであれば、清くありたいとと決心する必要があります。時にはこの詩篇のように一大決心をして神様の前に自分の決意を表明する必要があります。そのように決心する私たちの信仰を神様はご覧になって、神様が私たちのところに来てくださり、生活を清く保つ力を与えて下さいます。私たちは自分の力ではなく、神様の力と御言葉によって、自分の生活をきよく保つ事ができます。しかしそのような生活を望むかどうか、神様は強制されません。私たちが自分で決める必要があります。

この詩篇のなかで、ダビデは自分の生活だけでなく、自分の家に出入りする者もきよく保つことを告白しています。ダビデは自分が神様と共にある生活をしているかどうかだけをチェックしているのではなく、他の人が神様と共に過ごせているかどうかも気にかけています。神様はどんな人でも愛してくださって、救いを与えて下さいます。ですから私も救われました。神様はまた私の周りにいる方々にも、救いを与えて下さっています。私は私の信仰生活だけを気にするのではなく、他の方々が信仰生活を守れるように気にしているでしょうか。他の方々が自ら神様とのきよい生活を選ぶことができるように、励まし、慰め、時にいさめることも必要かもしれません。愛をもって互いに接し、助け合い、祈りあう事が必要です。今日も、教会の兄弟姉妹のために、またご家族のために、そして今日は海外の先生方、兄弟姉妹のために心を砕いて祈りあいましょう。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 甲斐師CGNTV撮影のために
  • 宣教地のために
  • 青梅教会のために