どなたに祈っているのか

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。
ルカ11:13

 

ルカの福音書11章で弟子たちは、バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りの言葉を教えられたように、お祈りを教えて下さいとイエス様に願いました。イエス様は弟子たちの言葉に答えて、主の祈りを教えられます。そして続けて父なる神様は、あなたがたの祈りに答えて下さるお方であると教えます。弟子たちは祈りの言葉を教えて下さいと願いました。当時、いろいろな宗教指導者がいました。そしてそれぞれが弟子を作り、グループを組んでいました。それぞれのグループには指導者が考えたオリジナルの祈りの言葉があり、弟子たちはその言葉で祈ることでグループに属していることをアピールしていました。イエス様はこれまで特に弟子たちに祈りの言葉を教えなかったようです。そこで弟子たちは自分たちのグループのオリジナルの言葉を下さいとイエス様に願ったのです。しかしお祈りとは本来、神様との会話です。どのような言葉で祈るかということよりも、誰と話しているのかという事の方が重要です。イエス様は主の祈りというとてもシンプルなお祈りの言葉を教えるとともに、誰に祈っているのか、その方はどのようなお方なのかということを教えておられます。

イエス様は魚を求める子に蛇を与えるような父親がいるだろうかと話します。それなら天におられる父なる神様は、なおさらあなた方の祈りを聞いて、良いものを与えて下さらないはずが無いということを暗に仰っています。父なる神様が与える事ができる最高のものは聖霊です。神様の霊が私たちに注がれる事です。それによって私たちは常に神様と共に過ごすことができるからです。イエス様はこの一連のやりとりによって、神様は良いお方であることを示しておられます。しかしこのとてもシンプルな事がなかなか私たちには納得できないのかもしれません。神様が良いお方で、イエス様は私たちを救いに来られたということが私たちにはなかなか受け入れられません。もし私たちが父なる神様が良いお方であると納得しているのであれば、祈ってお委ねするという事が素直にできるからです。小さい子どもは日々の生活の中から、自分の良心が信頼できるということを学びます。すると感情が爆発して制御できなくならない限りは素直に親の言う事を聞きます。親が良い人で信頼できると受け入れているからです。同じようにもし私たちが神様は良いお方で信頼できると受け入れているならば、神様に祈った言葉は必ず聞かれていると信頼することができます。どのような言葉で祈るかと言うことよりも、ちゃんと自分の言葉で祈り、祈りを聞いてくださる方を信頼しようと考えるようになると思います。ルカの福音書11章の後半にはイエス様が悪霊の親玉によって悪霊を追いだしているのではないかと疑う人の話が出てきます。イエス様が良いお方であると受け入れているのであれば、このような発想は出てこないでしょう。またパリサイ人や律法学者たちもイエス様が救い主であると信じていないので、イエス様の言動に不信感を持ってしまいます。私たちは天の父なる神様、イエス様についてどのようなお方であると考えているでしょうか。どのような言葉であれば聞かれるかということよりも、誰に祈っているのかを考えて祈りたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道者のために
  • 教会創立50周年記念礼拝のために
  • みずほ台教会のために

 

敵を愛しなさい

しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。
ルカ6:35

 

ルカの福音書6章は、マタイの福音書の山上の垂訓と似たイエス様の教えが書かれています。マタイでは山の上でイエス様が教えられた(マタイ5:1)ように見えますが、ルカでは山を下りてきた平らな所で教えられた(ルカ6:17)とあります。マタイの方がボリュームが多く、ルカの方がコンパクトです。私は読み比べて見て、マタイの方が慰め、励ますような口調に聞こえ、ルカの方がもう少し厳しく自分を吟味するように教えられているような印象を受けました。マタイでは八福と呼ばれる「~な者は幸いです」という教えも、今、辛い逆境にある人々に希望を与えるような内容になっています。しかし、ルカではそれが短くなっており、その後、「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです(ルカ6:24)」というような逆の事が語られています。これを聞いた人々は、混乱を覚えたのではないでしょうか。自分は貧しい者なのか、富んでいる者なのかと考えたと思います。自分は神様から祝福を受ける者だろうかどうだろうかと、自分を見つめなおすことになります。

貧しい者は幸い、富んでいる者は哀れ、と語り少し混乱を覚えた人々に、イエス様は、そもそも神様は何を望んでおられるかという話をされます。「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。(ルカ6:27)」こう言ってイエス様は、なかなか実行するのが難しいいくつかのことを述べます。呪う者を祝福し、欲しがる者には惜しまず与え、見返りを求めるなとイエス様は仰います。自分を愛してくれる人を愛したからと言って何になるのか、そんなことは罪人たちでも行っていると言います。プレイズジャムの時、マイケル・ジャクソンの歌を紹介しました。その歌詞にはSelfish loveという言葉が登場します。このSelfish loveという言葉は、日本語に訳すのが難しいという話をしました。Love愛にはいくつか種類があって、Selfish(自分勝手な)愛もあるということです。おそらく反対語はSelf-giving love(自分を捧げる愛)です。Selfishとは利己的とも訳されます。自分の利益をまず第一に求めることです。よく進化論の話の中では、自分を守るため、自分の利益を第一に求めたとしても、必ずしも他の者と敵対関係になるわけではないという事が言われます。出会う者すべてと争うのではなく、時には協力することも自分の利益につながるからです。そのような時には愛しているかのようなふるまいを見せるのです。つまりSelfish(自分勝手)でも、他者を愛せるのです。イエス様はこのSelfish loveを指摘しています。愛だ。愛だ。と言っても、結局は自分に見返りを与えてくれるものだけを愛しているのではないか?ということです。それは神様の前に罪人と同じです。

神様はSelf-giving love(自分を捧げる愛)をお持ちの方です。いと高き方は見返りを求めず、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いお方です。その子どもとなりたいのであれば、あなたがたも敵を愛しなさい。とイエス様は教えられます。返してもらおうとは思わずに与えなさいと仰います。そうすれば、だれもがあなたを神様の子どもと認めるようになります。神様も心からあなたを歓迎してくれます。問題はSelf-giving loveを私たちは持ち合わせていないということです。それは十字架の神様しか持っていない愛です。その事にまず気づきを与え、神様から愛を頂かなければなりません。「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。(ルカ6:40)」とイエス様は仰います。イエス様に入門し、そしてイエス様から十分に訓練を受けて、イエス様の愛で満たされ、実行して行く者となりましょう。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 懇談会、創立50周年記念礼拝のために
  • 新年度の歩みのために
  • みずほ台教会のために

梅の花

 

梅の花が咲いて、賑やかになってきました。
今年はまだまだたくさんつぼみがあるので、しばらく楽しめそうです。
最近は日中、暖かい日も増えてきましたね。
梅の木の下では、チューリップも芽を出し始めています。