律法を用いて人を裁かず

律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。
ヤコブ4:12

ヤコブの手紙を開きました。ヤコブの手紙は、伝統的にはイエス様の兄弟であるヤコブが書いた手紙と言われています。使徒15:13-21には、エルサレム会議でのヤコブの発言が記されています。このヤコブの発言によって長い議論に一応の終止符が打たれました。その事から見ても、ヤコブはエルサレムの教会において指導的な立場にあった人物のようです。ヤコブは1:1にあるように「離散している12部族」に対してこの手紙を書いています。外国に住んでいるイスラエル人たちに向けられてこの手紙は書かれました。

使徒15章のエルサレム会議の議論の争点は、救われた異邦人にモーセの律法を守らせるか、特に割礼を受けさせるか否かという問題でした。パウロは律法を守ることで救われるのではなく、信仰によって救われるのだと主張していました。しかしパリサイ派でイエス様を信じた人たちは、律法を守るように外国人たちにも教えるべきだと主張しました。最終的にエルサレム会議は救われた外国人たちには、割礼は強要しない、ただ偶像と不品行を避けるようにと教えようという事になりました。信仰と行いについての議論は、とてもややこしい問題です。一口に割り切れるものではないかもしれません。というのも信仰は行いとなって現れるからです。そして他の人には信仰は見えず、行いのみが見えるからです。ヤコブの手紙の主題はそこにあるように思います。

ヤコブは手紙の中で、行いの無い信仰は死んだも同然であると断言します(2:17)。イエス様を信じている、イエス様に従って生きていると口では言っていても、人をえこひいきしたり、愛の行いをしていないのであれば、その人は本当にイエス様を信じていると言えるでしょうか。イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。…自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか(マタイ5:44-46)」と仰っています。

ヤコブはイエス様を信じるクリスチャンたちの間で、お互いに非難し合ったり、さばきあったりしている姿を見て悲しんでいたようです。お互いにさばきあったりしているクリスチャンたちは、おそらくとても信仰熱心な人たちであったのでしょう。良く祈り、伝道熱心で、知識も豊富で人を良く教えられる教師であったのかもしれません。しかしその教会を指導する立場にあるような人たちが互いにさばきあったりしていたのです。ヤコブはそのような人たちに互いにさばきあうなら、律法を裁いているのと同じだと言います(4:11)。教える人たちは「律法にはこのように書かれているからこのように行え」と、お互いに主張していたのかもしれません。神様からの律法を大事に思っていました。しかしヤコブは言います。律法を定め、さばきを行う方はただひとりです。神様は私たちに隣人をさばくために律法を与えられたのではありません。自分を律し、真の悔い改めに至らせるために律法を与えられたのです。間違った律法の用い方は、律法をないがしろにしているのと同じです。

信仰は行いとなって現れるので、ある人の悪い行いを見て、その人の信仰に疑問を抱いてしまうこともあるかもしれません。しかし私たちにはその人の心の中までは見えません。神様がその人の心をご覧になります。私たちは互いにさばきあうのではなく、「互いに罪を言い表し、互いのために祈り(5:16)」たいと思います。お互いに罪人でイエス様の救いを必要としている者同士として、励まし合い、祈りあうことを神様は求めておられます。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 宣教礼拝、青年昼食会のために
  • FMTC、キッズフェスタのために
  • 小金井教会のために