神様からの信頼

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
ヨハネ5:22

ヨハネの福音書を開きました。新約聖書の中に、イエス様の地上でのご生涯(公生涯)を記録した福音書は4つあります。それぞれがそれぞれの角度の視点から、イエス様を証ししています。中でもヨハネの福音書は他の3つの福音書には記されていないお話も多く、独特な雰囲気を持っています。

ヨハネの福音書には、イエス様と人々、特に律法学者たちとの議論が詳しく収録されています。私自身はとても忘れっぽい人間ですので、ヨハネはやり取りの詳細をよく覚えていたなと驚きます。このヨハネの福音書のイエス様と人々との議論のおかげで、イエス様の救いの詳細、神様の思いが伝わってきます。

ヨハネ5章は前半にベテスダの池での癒しのお話が記されています。当時ベテスダの池には言い伝えがありました。時々天使が降りて来て水面が動き、その時に最初に池に入った人の病が癒されるというものでした。ベテスダの池にはたくさんの人が癒しを求めて集まっていました。イエス様はそのうちの一人、38年も病気にかかっている人に目を留められました。イエス様はその人に「床を取り上げて歩きなさい。」と仰いました。その人はすっかり癒されて、床を取り上げて歩きました。神様の奇跡です。ところがその日が安息日であったため、イエス様はユダヤ人たちと議論になります。安息日には物を運んではならないという決まりがあったからです。そこで安息日に物を運んでも良いと言うイエス様、また議論の中でイエス様は神様のことを「父」と呼びますが、それもユダヤ人たちは引っ掛かり、イエスは一体、何者かという議論になります。

聖書を読んでいる私たちとしては、何かとても的がズレた議論をしているのではないかと思います。イエス様が行われた癒しの奇跡はどこへ行ってしまったのだろうかと思います。イエス様はこの議論の中で、イエス様ご自身が神様から遣わされた独り子であること、救い主であることを証しします。イエス様を信じれば永遠のいのちを受けるという事を証しします。教会でもイエス様は私たちの救い主ですと聞きます。イエス様を信じれば救われますと聞きます。そう聞いて私たちは、信じる根拠を探そうとします。しかし信じる根拠は必ずしも理屈ではないのではないかと思います。どういう仕組みで私たちがイエス様を信じることと、私たちが永遠のいのちを受けることが繋がるのかという理屈で信じるのではないと思います。私たちがイエス様を信じる根拠は、イエス様が私たちをどのようにご覧になっているかという信頼関係にあるのではないかと思います。

5章のイエス様の議論を読むと、イエス様と父なる神様の温かい信頼関係が見えてきます。父なる神様がどれほどイエス様を信頼し、イエス様がどれほど父なる神様を信頼しているかが見えます。そして同時に私たち一人ひとりに対しても、信頼に基づいた自由を与えて下さっていることに気づきます。ヨハネ5:22には「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。」とあります。これは議論全体を読むと分かる事ですが、イエス様がだれにいのちを与えるか、与えないか決めるという意味ではありません。イエス様を指標として信じる人はいのち与えられ、信じない人はいのち与えられないという意味です。つまり父なる神様も、イエス様も、だれをさばくか選ぶという権利を放棄しておられるのです。救いを受けるか、受けないか、私たちは自由に選ぶことができます。これは父なる神様がイエス様を信頼し、私たちを信頼している結果です。最近、どこかで「信じても裏切られるかもしれない。しかし信じなければ決して信じてもらえない。」という言葉を聞きました。父なる神様は私たちを救いたいと願っています。だから私たちに神様を信じて欲しいと願っています。そのため、神様はまず私たちを信頼して、選ぶ自由を与えて下さいました。私たちも神様を信じたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • チラシ(11/10コンサート礼拝とクリスマス特別集会案内)配布のために
  • JHA関東聖化大会のために
  • 八王子教会のために