カテゴリー
祈祷会メッセージとお祈りの課題

十字架の血潮

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
マタイ26:27-28

いよいよイエス様が十字架に架かられる時が近づきました。イエス様は12弟子たちと最後の晩餐の時を持ちました。過越しの祭りの時でしたので、旧約聖書の時代から続く過越しの食事の伝統に則って食事をしました(26:17-19参照)。過越しの食事は、出エジプトの時に、神様がイエスラエルの民を救って下さったことをお祝いする食事です。出される一つ一つの食材に意味が込められていて、年長者がその意味を説明しながら食事を食べます。この時はきっとイエス様が説明をなさったのでしょう。そしてイエス様はそれらの食事にもう一つの意味を追加されました。それはこれから起こるイエス様の十字架を覚えることです。

イエス様はパンを取って神をほめたたえ、「取って食べなさい。これはわたしのからです(26:26)」と言われました。また杯を取って感謝し、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です(26:28)」と言われました。この時はまだ弟子たちはイエス様が十字架に架かられるとは想像もしていませんでした。イエス様は度々、ご自分は十字架に架けられて殺され、三日目によみがえると仰っていました。26:2でも十字架のことを話されています。しかし弟子たちには現実味がありませんでした。救い主であり、王であるお方が人々に捕らえられて殺されるなど想像もできなかったのでしょう。しかしこの後、現実にイエス様は捕らえられて、裁判にかけられます。イエス様が捕えられた時、弟子たちは恐ろしくなって逃げてしまいました。ペテロは事の成り行きを見ようとこっそりとついていきますが、人々にイエス様と一緒にいたことを指摘されるとイエス様を3回知らないと言って裏切ってしまいます。

イエス様が十字架に架かられたのは、食事の中でも仰っているように、私たちの罪の赦しのためです。罪とは神様を知らないということであり、自己中心に生きる事です。いつもの生活の中ではもしかしたらあまり意識しないかもしれませんが、そのような心が私たちの中にはあります。そして突然恐ろしい出来事や、苦しいことが起こるとその罪の心が露になります。私たちの罪の心は努力して何とか消せるものではないという事がよく分かります。弟子たちもイエス様を裏切るつもりは毛頭ありませんでした。ペテロも「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません(26:33)」とまで言っています。そんなペテロでさえも、のろいをかけて誓う程にイエス様を知らないと言ってしまいます(26:74)。

私たちの罪の赦し、救いのためには神様の力が必要です。イエス様の十字架の血は私たちの罪を赦し、私たちの罪の心を洗い清める力があります。イエス様は神様であり、救い主であられます。信じる者にはだれにでも罪の心の赦しと救いが与えられます。そのような救いを与えて下さっている神様に感謝します。神様は私たちを愛しておられるので、私たちに救いを与えて下さいます。今一度、自分の心を点検し、イエス様からの十字架による救いを受け取りたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖餐礼拝、CGNTV撮影、スマイル合唱団のために
  • 小金井教会のために