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祈祷会メッセージとお祈りの課題

どんなときにも神様に信頼する

民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。
詩篇62:8

聖書通読は、旧約聖書の詩篇になりました。今日は62篇です。62篇は表題にダビデの賛歌と書かれています。ダビデはイスラエルの二代目の王でした。神様から王として選ばれましたが、ダビデは困難の多い生涯を過ごしました。先代のサウル王からは妬まれ、何度も殺されかけました。また王座についてからも外国との戦争が絶えません。また自身の失敗もあり、家族同士の不和がありました。特に子どもたちの争いや、子どもから王座を狙われることもありました。困難の多い生涯でしたが、ダビデはいつも神様に悔い改めながら、まっすぐに生きようとした人でもありました。神様はそんなダビデとイスラエル王国を祝福して下さり、ダビデの時代にイスラエル王国は確固たる礎を築くことになりました。

ダビデは多くの困難の中で、神様に信頼することを学びました。それが詩篇62篇に現れています。1, 2節と、5, 6節はとても似ています。同じような言葉を少しだけ換えて使っています。神様が救いの岩であること、そしてその神様に信頼することを強調しています。そして同時に、ダビデの切羽詰まった様子もうかがえます。この時ダビデはおそらく、心が揺るがされるような、安心できない状況にあったのでしょう。しかし、これまでの経験からも必ずまた神様の守りがあるにちがいないと自分に言い聞かせているようです。この詩篇には「やぐら」や「城壁」と言った一国を治める王様らしい言葉が出てきます。国を守るための防衛の備えとして「やぐら」や「城壁」を国の周りにめぐらします。ダビデはイスラエルの国に張り巡らしたやぐらや城壁のように、神様はダビデ自身を守って下さるお方であると信じていました。周りの人は、いろいろと策略を巡らしたり、権力やお金に頼ったりします。しかしダビデはそれらのものに振り回されず、神様に信頼しようとしています。

ダビデは「民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」と言って、自分以外の民全体にも語りかけています。この詩篇は「賛歌」となっていますから、礼拝などで賛美歌として歌われることを想定していたのでしょう。神様はダビデを助けてくださいましたが、ダビデだけを助けたいわけではありません。私たち一人ひとりのことも見守って、助けてくださいます。私たちは「どんなときにも神様に信頼」しているでしょうか。神様は私たちの心の思いわずらい、願い、それらを聞いてくださいます。その上で、最善をなしてくださいます。私の救いも、望みも神様から来ると告白したいと思います。私の問題、課題を解決してくださる救い、そして私の心の奥底にある願い、求めをしっかりと聞いてくださるという望みです。それらを神様の御前に注ぎ出して、委ねていきたいと思います。力は神様のものです。他の何かに頼るのではなく、最終的には全権を神様に委ねて、神様を待ち望みましょう。神様は必ず応えてくださいます。その時、私たちはこのダビデの詩篇に心から賛同して、神様を賛美できると思います。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

田舎ユダヤから御言葉が

私の理解するところでは、彼は死罪に当たることは何一つしていません。ただ、彼自身が皇帝に上訴したので、私は彼を送ることに決めました。
使徒25:25

使徒の働きも終盤になりました。使徒の働きの後半は、主にパウロの宣教旅行が描かれて、パウロがローマにたどり着くところで終わります。パウロは3回目の宣教旅行を終えて、エルサレムに戻りました。するとそこで大変な騒ぎが起きて裁判沙汰になります。この辺りから、ローマ人らしい名前の人が多く登場し、ややこしくなるので、少し整理したいと思います。

当時ユダヤの地域は、ローマ帝国の属州でした。しかしある程度の自治権が認められていました。そのため、ユダヤ人たちはユダヤ独特の言語や文化、宗教を守ってせいかつすることができました。しかし支配階級のレベルになると、あまり安定した統治が行われているとはいえず、ちょこちょこと紛争がありました。新約聖書の時代を見ると、ヘロデ大王が一人で統治していた時期、ローマ帝国本土から送られたローマの総督が統治していた時期、ヘロデ王の子孫である王たちと総督が共同統治していた時期など、様々です。使徒25章の時代はアグリッパ王2世と総督ポルキウス・フェストゥスの共同統治となっていました。ユダヤ人から見れば、ユダヤの首都はエルサレムでしたが、ローマ帝国から見れば、ユダヤ州の州都はカイサリアということになっていました。ですので、ユダヤ人たちはエルサレムで裁判することを望んでいますが、パウロはカイサリアに送られ、そこで裁判を受けています。

使徒の働きはパウロの裁判について、イエス様の裁判の時のように描いています。パウロには何の罪も認められませんでしたが、ユダヤ人たちは死罪を求め続けました。これにはユダヤの文化を良く知らないフェストゥスも困り果てたと思います。アグリッパ王2世は、ユダヤ人の血が混じっていることもあり、やや理解していました。26章に入ると、パウロはイエス・キリストについて力強く証しし、アグリッパ王2世が心動かされている様子が描かれています。イエス様の裁判とパウロの裁判の共通点は、どちらも罪はありませんでしたが、神様の召しによるものであったということです。違いは神様の召しの目的です。イエス様は十字架に架かることが目的でしたが、パウロは外国人にキリストを証しすることでした。パウロは鎖につながれてはいましたが、裁判を通して、多くの人にキリストを証しすることになったのです。

ローマ帝国にとってユダヤ属州はどのような位置づけだったでしょうか。おそらく片田舎のちょっと変わった民族くらいにしか思っていなかったでしょう。地理的に見ればエジプトに接する重要拠点ではありましたが、文化的には程度の低いものとして見ていたと思います。しかし、神様は、全く違う見方をしていました。この片田舎ユダヤから始まってやがて世界全体へキリストの福音が宣べ伝えられていきます。そのための一歩として首都ローマへのパウロの旅がありました。神様からの視点と、片田舎と思っていたユダヤに翻弄されるローマ中央の役人たちのお様子が混じって描かれているのが使徒の働き後半と言えます。どのような文化の違いも、神様の導きの前では障害とはならず、逆に福音を広める器となります。そう信じていたからこそ、パウロは鎖につながれても全く動揺せずにキリストを証しすることができました。

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みことばは、あたがたたを成長させ…

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。
使徒20:32

パウロたちは使徒18:23で一度アンティオキア教会に帰り、2回目の伝道旅行が終わりました。そしてまた3回目の伝道旅行に出ていきました。パウロは良くも悪くも、各地で名前が知られていくようになりました。そのため3回目の伝道旅行では、パウロが来ることで励まされる教会も多いですが、パウロが伝道の妨げに会うことも多くなりました。

パウロは伝道旅行において、たくさんの人をキリストの弟子として育ててきました。多くの人が、各教会で長老や御言葉を取り次ぐ伝道者となりました。パウロ自身もたくさんの同行者を連れて行くようになり、20:4ではその時のパウロの同行者たちの名前が書かれています。また20:5からは突然、文章の主語が「私たち」となり、使徒の働きの著者もこの時はパウロに同行していたことが分かります。使徒の働きの著者はルカと言われています。

また20章の中には、エペソの教会の長老たちとパウロのお別れの様子が書かれています。エペソでのパウロの活動は前の19章に記されています。この時、聖霊を受けた人たちが12人いたと書かれています。おそらくこの人たちを中心にエペソ教会は拡大していったものと思われます。そのエペソ教会の長老たちとパウロは別れの挨拶をしました。パウロへの迫害は日増しに強くなっていました。当時は飛行機のようなすぐに移動できる手段はありません。町から町へと移動するのに何日もかかる時代です。迫害の手が強まるにつれ、パウロは通ることのできる道が少なくなっていき、もう一度エペソに行くことはもうできないだろうと覚悟したのだと思います。そこでこのような別れの挨拶となりました。

パウロは別れの中で「あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ…」と言っています。パウロが宣べ伝えていたのはキリストの福音、神様の福音でした。パウロの福音ではありません。ですから究極的に言えば、パウロと会えなくなっても、キリストが中心にいれば教会は成り立ちます。むしろそうなるように、パウロは一生懸命に聖書を説き明かし続けてきたのです。パウロはキリストの福音の力、神様のみことばの力を身をもって体験していました。伝道旅行の中で、神様のみことばの力を実感し続けてきました。だからこそパウロは「あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。」と言っています。

私たちは神様の力、みことばの力をどれほど信じているでしょうか。私の個人的な話になりますが、今年は私自身がもっと神様のみことばの力を知るようにと語られている気がしています。礼拝において、祈祷会において、もっと言えば、生活の中で生き生きと神様の力がみことばを通して働くさまをもっと見るように、もっと信じるように言われている気がします。神様のみことばは私が想像している以上に、私たちの魂と心を癒し、力と慰めを与え、学びと訓練を与える力であると信じたいと思います。そしてそのようなみことばを握りしめていることに希望と誇りを持てたらと思います。

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イエス様を信じる義

私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。
使徒15:11

前回、10章では神様の導きによって、コルネリウスという外国人(異邦人)が聖霊を受けて、バプテスマを受けるという出来事を見ました。これによってユダヤ人クリスチャンたちは少しずつ、外国人にもイエス・キリストの福音を伝えるようになります。そして13章でいよいよ大きな転機が訪れます。神様の導きにより、パウロとバルナバを宣教師としてユダヤ以外の地域へ派遣することになったのです。パウロとバルナバは、初めは他の地域に住むユダヤ人たちにイエス・キリストの福音を語っていました。しかしそのうちにユダヤ人だけでなく、多くの異邦人がパウロの言葉に熱心に耳を傾けて、イエス・キリストを信じるようになりました。こうして外国人への宣教が始まっていったのです。

異邦人たちは元々ユダヤの文化で生活していた人たちではありません。まったく違う生活を営み、聖書も読んだことがありませんでした。しかし彼らは、パウロが証ししたイエス・キリストの福音を受け入れ、神様を信じてバプテスマを受けました。そしてその後で、聖書を学び、神様に従って歩む生活を始めるようになったのです。これは私たち日本人がキリストの福音を聞き、信じ、クリスチャンとしての生活を始めることと似ているかもしれません。それまでは聞いたこともなかった神様の話を聞き、聖霊によって心動かされ、これからは神様に従って歩もうと決心したのです。

14章の終わりでパウロとバルナバはある程度の宣教の働きを終え、アンティオキア教会へ帰って来て、神様がどれだけ豊かに外国人たちに働きかけて救って下さったかを報告しました。アンティオキア教会はその報告を聞いてとても喜び神様に賛美しました。ところが15章に入ると教会全体は、一つの問題に直面します。それは今まで聖書を知らず、律法を知らずに生活してきた外国人に、どこまで律法の行いを守って生活するように指導するかという事でした。これは要約すると、神様の救いを受け取り、神様に従って歩むにはどのような生活をしたら良いかという事を表しています。ユダヤ人たちは旧約聖書の律法に従って生活してきました。律法は神様から与えられた聖なるものであると分かっていたからです。しかし多くの場合、失敗してきました。それは罪ある人間が聖なる生活を続けることの困難さを表しています。イエス様の十字架はそれらすべての赦しと贖いのための十字架でした。イエス様の十字架を信じて歩む信仰によって、私たちは全ての律法の行いを全うし、神様の前に義とされているとみなされるのです。しかしだからと言って、何をして生きてもいいという事ではありません。15章で教会はその線引きの仕方を議論したのです。そして一致したことは15:20にあるように、偶像を避けること、偶像に捧げたものを避けること、淫行を避けることと決めました。つまり神様以外に心を捧げることを避けることでした。この議論では、何かを避けることについてのみ言及され、積極的に神様の愛によって行動することについては聖書に書かれていません。しかし神様の愛によって行動することも外国人たちに積極的に教えられたと思われます。大事なことは、私たちは何かをしたから救いを受けるのではなく、神様の愛、恵みによって救われたという事です。そしてユダヤ人と外国人の違いはありません。ですから私たちは今後、神様以外のものを神とすることなく、神様の愛と導きによって生活していけばいいのです。

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どこの国の人であっても

どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
使徒10:35

イエス様は全ての人の救いのために十字架に架かって下さいました。しかしイエス様ご自身は、ユダヤ人以外の所には積極的に宣教に行きませんでした。イエス様は神であり、何でもできるお方でしたが、救い主として地上に来られた時には、人間としての制約に縛られていました。イエス様は十字架の贖いを第一にして行動し、それを神様の計画通りに全うしてくださったのです。イエス様が復活し天に昇られた後は、神としての無限の働きを弟子たちの背後でなさっています。

ユダヤ人以外への伝道は、主にイエス様の弟子たちが担いました。その弟子たちの働きが使徒の働きに記されています。しかし弟子たちは当初はユダヤ人以外の所へ伝道に行くことを考えていませんでした。しかしイエス様は弟子たちを、ユダヤ人以外にも伝道するようにと導いていきます。その一つが使徒の働き10章のお話です。

コルネリウスというローマの百人隊長は、ユダヤ人ではありませんでしたが真の神を恐れる人でした。10:2に「彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた」とあります。コルネリウスの祈りは神様にしっかりと聞き届けられていました。神様はコルネリウスを用いて、ユダヤ人以外への伝道の足掛かりとしてくださいました。御使いが幻のうちにコルネリウスに現れ、イエス様の12弟子のペテロを招くようにと教えます。コルネリウスは自分の舞台の兵士を送り、ペテロを招きます。同じころ、イエス様はペテロにも働きかけて、コルネリウスの招きに応じるようにと教えます。

当時、ユダヤ人たちは、外国人たちと一緒に食事をすることはありませんでした。異教の者と一緒に交わることは汚れることであると考えられていたからです。このことは10:28でペテロが説明をしている通りです。ペテロもユダヤの伝統を守り、汚れを避けて生活していました。このままでは弟子たちが外国人に伝道していく機会には発展していきません。イエス様は夢の中でペテロに語り、コルネリウスの家に行くことは神様の導きであることを伝えます。コルネリウスの家は神様がきよめたのできよいのです。

ペテロはイエス様の後押しもあって、コルネリウスの家に行き、福音を語ります。そしてイエス様の福音を語りました。すると、10:44に書かれているように、コルネリウスたち外国人にも聖霊が降りました。彼らは聖霊に満たされて異言を語り、賛美し始めました。これを見たペテロたちは驚きました。そして神様はユダヤ人も外国人も関係なく、すべての人に救いを提供しておられる事を知りました。こうして外国人に対する伝道が始まっていくことになります。しかしそれは同時に、新しい問題課題を教会に突きつけることにもなります。この先、使徒の働きはその問題課題も丁寧に記しています。

私たち日本人が神様の救いを受け取ることができるのも、神様がえこひいきをなさる方ではないからです。ユダヤ人も外国人もみな同じように神様からの救いが提供されています。肌の色、出自、心身機能に関係なく、神様を恐れる人には豊かに神様からの祝福が与えられます。そして教会はそのような違う人たちが主にあって兄弟姉妹として集まっている場所なのです。神様の深い愛によって違う人同士が一つとされている場所です。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
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  • 新来会者、求道者が来られるように
  • 受難日特別礼拝、イースター礼拝のために
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