ようこそ教会へ!


教会に初めておいでになった方は、戸惑いをお感じなることもあろうかと存じます。 そこで、教会の礼拝や、聖書の内容について少しでもご理解いただけるようにと、簡単な小冊子をご用意しました。ご参考のためにお読みいただければ幸いです。

筑波キリスト教会

牧師 牧野 友隆



礼拝のプログラムについて


1.賛美

 賛美はただ歌を歌うことではありません。歌によって神をほめたたえるのです。賛美歌の歌詞は聖書のことば、神への感謝、信頼、祈りが満ちています。この歌詞を心から歌うことによって神のすばらしさをたたえます。


2.祈り

 祈りは神との会話です。神社の「祈願」のように、人間の願望を神に押し付けるのではありません。神に感謝し、神をたたえ、あるいは自分の罪を告白して赦しを求めることもあります。神には何でも祈ることができますが、聖書の約束に応答して祈ることが大切です。

 礼拝では、心を合わせて共に祈ります。


3.説教

 「お説教」とは異なります。聖書のことばを「説き教える」ことが説教です。ですから、牧師の個人的な考えや意見を語るのではなく、聖書の内容と実生活への適用を語ります。

 説教に関する疑問や質問は礼拝後、ご遠慮なく牧師にお尋ねください。


4.献金

 神への感謝のささげものです。神が私たちの必要を満たしてくださっていることに感謝し、自分自身を神にささげるしるしとして、お金をささげます。

 ささげられたお金は教会の活動のために用いられます。また海外の宣教師や飢餓対策のためにもささげられます。

 金額は決まってはいませんし、強制でもありません。ご用意のない方、その必要を感じない方はそのまま袋を後ろにお回しください。


5.聖餐式

 毎月第一日曜の礼拝で持たれます。パンとぶどう液は、それぞれ十字架で死なれたキリストのからだ(パン)と血(ぶどう液)をあらわします。これらを食べ、また飲むことによって、キリストの十字架の死が自分のためになされたものであることを覚えます。

 洗礼を受けた方だけが対象ですので、洗礼を受けておられない方はパンとぶどう液を取ることはご遠慮ください。



聖書の基本的な教え


1.聖書とそのメッセージ

■聖書は「神のことば」

 「永遠のベストセラー」と言われる聖書は、神が人間に与えた「神のことば」です。

 神は次の二つの方法でご自分を人間に示しています。

 1)神がお造りになった宇宙全体のすばらしさを通して、

 2)人間の記者たちを通して記された「聖書」を通して、

 です。

 聖書はおよそ1400年以上の歳月を経て、40人以上の人間の手によって記されました。しかし、記者たちの働きの中に神の働きがあり、彼らは神によって教えられた言葉を記しました。ですから単なる人間の言葉ではなく、「神のことば」なのです。


■聖書には誤りがない

 聖書の究極の著者が神であるなら、聖書には誤りがあると考えるべきでしょうか?ある人は(クリスチャンの自称しながらも)「聖書は神話である」と語ります。

 確かに、私たちの理性には受け入れがたいこともたくさん書かれています(奇跡や復活など)。しかし、科学によっても、聖書の記述に誤りがあると証拠立てられたことはありません。それどころか、科学は聖書を信じる科学者たちによって発展してきた歴史を持っています。また近年の考古学の発掘は聖書の歴史的記述に誤りがないことを次々と裏付けています。


■聖書は神ご自身について教えている

 聖書を読むことによって、何を知ることができるのでしょうか?

 第一は、「神ご自身について」です。既に述べたように、神は宇宙のすばらしさを通してご自身について示しておられます。しかし、人間は宇宙を見ることによっては神を知ることはできません。ある宇宙飛行士は地球の美しさを知り、神の存在を信じるようになりました。それでも、本当の神がどのようなお方かを知るまでには至りません。私たちの周りにはたくさんの「神」と呼ばれるものがあります。木像や石像、人間、太陽などでさえ「神」と呼ばれ、拝まれています。これらは本当の神ではありません。

 ですから、本当の神がどのようなお方であるかは、ただ宇宙や自然界を見るだけでは不十分なのです。「聖書」に記されている神についての教えを通してのみ、人間は神を正しく知ることができるのです。

 聖書は神が唯一のお方であり、全世界の創造者であり、聖いお方であり、同時に私たちの小さな歩みにも愛とご計画を持っておられるお方であることを示しています。


■聖書は人間について教えている

 第二に、聖書は「私たち自身について」も教えます。人間は何者であるのか、生きる目的はどこにあるのか、何を基準として生きるべきかなど、聖書は私たちが生きる上で必要なことを語っています。聖書全体を読むことによって、私たちは自らが神によって造られ、しかも神に背く罪を持っており、それでも神に愛されている存在であることを知ることができます。

 私たちの死、病、苦悩はすべて罪によって生じました。しかし、神は愛を持って私たちのために罪からの救いと永遠のいのちを備えてくださった、それが聖書の中心メッセージです。


■旧約聖書と新約聖書

 聖書は大きく分けると旧約聖書と新約聖書とに分けることができます。

 旧約聖書は世界の創造と、イスラエルの歴史が中心であり、新約聖書はイエス・キリストとその後誕生した教会の活動が中心です。

 旧・新約聖書に一貫していることは、人間は神に背く罪を持ち、救いを必要としていること、そしてその救いがキリストによってもたらされた、ということです。


2.イエス・キリストについて

■イエスは人となった神

 聖書の中心はイエス・キリストです。では彼は何者でしょうか?

 イエスの生涯は今から2000年前のイスラエルが舞台です。歴史的に実在した人物であることは、聖書外の記録からも間違いありません。その生涯の詳細は新約聖書の4つの福音書に記されていますが、聖書はイエスが人となられた神であると記しています。神である方が人となり、罪のない生涯を送り、人間の苦しみや痛みを経験され、ついに人間のすべての罪の罰の身代わりとして十字架で死んだのです。さらに、死からよみがえって、罪と死とに勝利されました。それがイエスの生涯です。


■神が人となった理由

 ではなぜ、神は人となったのでしょうか?それは人間は誰しも神の前に聖い歩みを送ることができず、罪の罰を受け、滅んでいかなければならないからです。罪とは、神に従わないことです。私たちは誰一人として生まれながらに神に従おうとはせず、自分の自由に自分の好きなように生きたいと願います。そして欲望に駆られて他の人を傷つけたり、自己中心的な行いをしたり、偽ったり、騙したりします。

 聖なる神は、こうした私たちの悪を放置することはなさいません。正しい方が悪を放置するなら、自らの正が曲げられたことになります。もし犯罪者に優しい交番があるなら、その街では正しさは曲げられ、不正がはびこることでしょう。神の正は罪と妥協することのない正しさです。それゆえに人間は罪の罰を受けなければならないのです。

 しかし、神は人間を愛してくださるお方でもあります。それで罪の故に人間が滅びることを望まず、赦しを与えようとされました。

 神の正しさと愛、この両者を曲げずに人間を赦すものがキリストの十字架です。神ご自身が人となられ、人間の身代わりとして死なれたことによって、罪を悔いて赦しを求める者には、罪の赦しと神との交わり、そして永遠のいのちが与えられます。

 イエスを罪からの救い主として信じるなら、神の愛によって心が満たされ、消え去ることのない喜びが湧いてきます。

 これがイエス・キリストによって与えられる「救い」です。


■救われるためには

 人間は誰しも罪があり、救いが必要です。そして救われるためには、イエス・キリストを信じることが必要です。自らのこれまでの歩みが神を無視し、自分の好き勝手に歩んできたものであったことを悔い改めて、神の赦しをいただくのです。

 神に立ち返ること、それが大切です。


 以上、なるべく簡潔に記しましたが、まだまだ舌足らず、説明不足の感は否めません。お読みになってもよく分からないことや疑問もお感じなることと思います。

 この小冊子はあくまでもキリスト教の基本的な部分をご説明するための一助として用意したものです。これからキリスト教についての理解を深めていただければ幸いです。

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