『受胎告知。そのときマリヤは?』
「あなたはみごもって、男の子を生みます。名をイエスとつけなさい。」
突如現われた天使が、マリヤにこう告げる場面を描いた「受胎告知」を多数の画家たちが描きました。
天使が現われた時、マリヤは何をしていたのか?想像や伝承を元にこの時のマリヤの姿が描かれています。読書中、井戸水を汲んでいる最中、糸巻きをしていた・・・。また、驚きのけぞる姿、戸惑う姿、天使に問いただす姿も描かれています。
処女であるのに、「身ごもり、男の子を産む」と天使に告げられる。さらに「生まれる者は神の子と呼ばれる」とさえ語られた時、いったい人はどう答え得るでしょう?
「神にとって不可能なことは一つもありません。」
神が人として生まれるという信じがたい「事件」の予告はこう結ばれました。神が神であるならば、この言葉の通りでしょう。
しかし、それはマリヤには必ずしも喜ばしいことでありません。未婚の母への世間の非難、婚約者ヨセフが何と言うか。彼女の人生の計画は・・・。
「迷惑です!私の都合も考えて!」私たちなら、こう叫んでしまうかもしれません。
「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
マリヤの返答は、この上もなく神への従順に満ちています。「私は私のもの。誰の指図も受けない。自分の生きたいように生きる。」こうした思いに支配されている私たちには信じがたい言葉です。「受胎告知」の時、マリヤが何をしていたのかは不明です。しかし、この言葉は忘れてはならないものです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」
神が人となるという信じがたい告知は、2000年前の一女性の信じがたい従順の告白を経て歴史の真実となりました。「自分の生きたいように生きる」という姿勢は、マリヤの時代も、現代も、人間を捕らえています。これが留められる時、人は怒りを感じ、争いが生じます。
あるいは喪失感や無気力に陥ります。それはこの願望に縛られている限り、2000年を迎えても、富を得ても変わりません。
しかし、マリヤのように自分優先の生き方をストップし、私たちを愛しておられる神に自分を委ねる時、私たちは新しい人生の扉を開くことができるのです。キリストの誕生こそ、神が私たちを愛している証拠です。
『開かれた墓』
ゴゴゴゴ・・・・と墓のふたは動き、やがて死んだはずの男が墓から──。
今から2000年ほど前の、春の朝の出来事です。
墓をふさいでいた石は転がされ、男は確かによみがえったのでした。
その男は、その日曜日の朝から2日ほど前、金曜日に死んだはずでした。
しかし、今や墓に残ったのは、彼を、いや、彼の遺体を包んでいた布だけでした。
しばらくしてから、生前、彼に従っていた女たちが墓にやって来ました。
彼の遺体に香料を塗るためです。しかし、すでに彼の遺体はありません。
「死んだはずのあの方が?そんなバカな!」
誰もがそう思ったに違いありません。ところが彼は生きて現われたのです!
女たちに。弟子たちが集まっている家に。二人の弟子の旅の途中で。
「私は彼の傷痕に手を触れなければ、決して信じない!」
そう宣言した弟子にも。
信じられない。
しかし、彼らはその目で見、よみがえった体に触れた以上、信じるしかありませんでした。
そして、弟子たちにはハッキリとわかったのです。
彼の死の意味と死からよみがえったことの意味が。
また、彼こそが人となった神であり、救い主であることが。
イエス・キリストの死は、人間の罪の罰をすべての人に代って受けるものでした。
罪とは、人間が自分の造り主である神に従わず、好き勝手に生きていることです。
そして、イエスのよみがえりは、罪と、その罰として人間を支配している死を打ち破るものでした。
この出来事によって、私たちに確かな希望がもたらされました。
自らの罪を認め、イエス・キリストによる赦しを得るなら、罪と死に対する勝利を得るのです。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか!」と宣言することができるのです。
弟子たちは、キリストのよみがえりを信じました。彼らは、復活のキリストをその目で見たのです。
作り話や妄想であるはずはありません。
なぜなら、彼らは生命の危険にさらされても「キリストはよみがえった」と証言したのです。
キリストが十字架にかかる直前には、恐怖のあまりキリストを捨てて逃亡した彼らが、そろいもそろって
作り話や妄想に命をかけるでしょうか?とても考えられません。
開かれた墓──イースターの朝の出来事は、私たちすべてに死への勝利、罪からの解放を差し出しています。あなたはこれをお受け取りになりませんか。
『聖書が語る夫婦像』
結婚式、あなたは神前式ですか?仏式でしょうか?それともキリスト教式でしょうか?
キリスト教式の結婚式をされた方は、牧師か神父の前でこんな誓約をしたことでしょう。
「・・・常に妻/夫を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、命の日の限り、あなたの妻/夫に対して堅く節操を守ることを約束しますか。」
「はい、約束します。」
私が手にしている式文では、どれも夫婦ともに同じ誓約の言葉が用いられています。
ところが、かつては妻にだけ一つ多い誓約が要求されていたのです!
それは「(夫に)仕え(obey)」という一語です。
この夫婦の誓約の差別(?)は、どうも女性の反発を買ったらしく、近年は夫婦ともに同じ誓約をするものが主流のようです。つまり、「仕え」は削除されるか、あるいは夫にも「仕え」を加えなければ妻の気が済まない、と言うことなのでしょう。
もちろん、伝統を守って、妻だけが「仕え」を誓約する式文も存続しています。
この「仕え」という語が妻にだけ課せられる誓約は、聖書に根拠があるとされます。
しかし、実は聖書では「妻は夫に従いなさい。」と命じ、続く箇所で「夫は妻を愛しなさい。」と命じています。(新約聖書「エペソ人への手紙」5章参照)
ある牧師は結婚式の説教で、
「聖書は夫が妻を愛せないから、『愛しなさい』と命じているのです。
夫は妻よりも仕事を愛し、名誉を愛し、別の女性を愛するような者だからです。
また、妻が夫に従えないから、『従いなさい』と命じているのです。
妻は、夫に従うことは束縛で、自分の好きに生きたいと考えたり、自分の好きにできる子供に心血を注ぐような者だからです。」
と語りました。
あなたはどうでしょうか。
夫に仕えていますか?妻を愛していますか?
「愛し続けること」「仕え続けること」は困難なことです。
悪いことではなく、良いことと知りながらもできないのです。
愛すること、仕えることがどのようなことかを知らずに結婚し、悲劇的な結末を迎える夫婦は増加の一途をたどっています。
「人々の愛は冷えて行く」と聖書で語られている通りです。
けれども、私たちはこの西暦2000年の現代においても、イエス・キリストを通して最高の愛、最高の仕える姿を具体的に知ることができます。
そして、キリストがどんなに私たちを愛し、仕えて下さったかを知ることによって、愛を知らず、仕えることを避ける者が、愛する者に、また、仕える者に変えられて行くのです。
ご夫婦でキリストを知り、愛し合い、仕え合う御家庭が築かれますようにと祈ります。
「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
(新約聖書、ヨハネの手紙第一4章19節)
『後日贈られるプレゼント、既に贈られたプレゼント』
クリスマス商戦の追い込みの慌しさの中、ある女性が50枚一揃いのクリスマス・カードを箱買いしました。
彼女はカードに印刷されている文字を読む間もなく、ものすごい勢いで自分の名前を書き、宛名を書き、急いで投函しました。
彼女の手許に残ったクリスマス・カードは1枚だけでした。
数日後、残ったカードが目に入り、彼女はそこに記されていた文字を何気なく読みました。
「!」
彼女は驚きの余り言葉を失い、立ちすくんでしまいました。
何とカードにはこう書かれていたのです。
このカードは、後日ささやかなクリスマス・プレゼントが届くことをお知らせするものです。
この女性の驚きと苦悩は想像に難くありません。
「プレゼントを送らなければいけないかしら?それとも、改めておわびの手紙を送るべきかしら?」
こうなると、クリスマス・プレゼントは呪いのようにさえ感じられるでしょう。
一方、このカードを受け取った人々は、プレゼントの到着を「今日か、明日か」と心躍らせて待ったに違いありません。
この女性のカードではありませんが、私も「すでにあなたに贈られているクリスマス・プレゼントがあります。」とお伝えしたいのです。罪ある私たちに代わって罰を受けるために人となられた神、イエス・キリストこそ私たちに贈られた最初の、そして最大のクリスマス・プレゼントです。
この神の愛そのもののクリスマス・プレゼントをお受け取りになられますようにと心から願います。
「ことば(神ご自身を表わす存在としてのキリスト)は人となって、私たちの間に住まれた。」
(ヨハネの福音書1章14節)
『毎日が宴会?』
「13日の金曜日」。映画のタイトルにもなっていますが、
イエスが十字架で死んだ日ゆえに「不吉な日」、「縁起の悪い日」とされます。
でも、実際にイエスが死んだ日が13日の金曜日であったかどうかは不明です。
「縁起が悪い」とされているものは他にもあります。
例えば、病院やホテルの部屋では4という数字を嫌います(死を連想するため)。
また9という数字も避けられる場合があります(苦を連想するため)。
葬儀は「友引」には行なわれません。
結婚式場は仏滅の利用は10%のディスカウントが一般的だと聞きます。
縁起など気にしない人もいますが、多くの人が漠然と気にしていることも事実です。
聖書は、こうした事柄には根拠がないことをはっきりと語っているばかりか、
毎日がどの日もすばらしい日であることを約束しています。
「私たちは、神の中に生き、働き、また存在しているのです。」
(使徒の働き 17章28節)
私たち人間は神によって造られた存在です。
そして、1日1日は神によって与えられた日です。
神を信じ、神の守りの中にあることを確信して歩むなら、どの日も不吉な日とはなりません。
「悩む者には毎日が不幸の日であるが、
心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」
(箴言 15章15節)
神を信じて歩む人は心に楽しみを持ち、たとえ苦しみにあっても喜びを失うことはありません。
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことについて、感謝しなさい。」
(テサロニケ人への手紙 第1 5章16節〜18節)
喜び、祈り、感謝する毎日をあなたもお始めになられませんか?
教会へのお越しをお待ちしております。
「聖書を通して教育を」
数年前、新聞で興味深い国際調査の結果を見ました。
日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツの小学校5年生と中学校2年生を対象に「親から何を言われているか」について調査したものです。
「よく言われる」、「たまに言われる」、「言われない」の三項目で回答が集計されていました。
驚いたのは、どれほど「ウソをついてはいけない」と言われているか、という項目の結果です。
◆第一のグループ:韓国、アメリカ、イギリス
「よく言われる」 「父から」も「母から」も40%以上。
「たまに言われる」を合わせれば、80%を超える国も。
◆第二のグループ:ドイツ
「よく言われる」、「たまに言われる」を合わせれば60%。
◆第三のグループ:日本
「よく言われる」は、「父から」11%、「母から」16%。
驚くべきは「言われない」の突出ぶり!「父から」71%、「母から」でも60%に上ります。
「いったい、この国の倫理はどうなってしまうのか!?」と心配になります。
もちろん、親が禁じてもウソはつく。それが人間の悲しい性質でもあります。しかし、何が良いことで、何が悪いことか。これを教えることは教育における基本のはずです。
教会では「教会学校」が毎週日曜日に行われています。
聖書を通して、「良いこと」と「悪いこと」も含めて、人間にとって必要なことが語られます。
「永遠のベストセラー」である聖書のエッセンスは国際的な教養としても、芸術や文学の分野でも有益です。
「学校」と言っても堅苦しいものではありませんし、信者の子どもである必要はありません。
また、毎週来なければならないものでもありません。
聖書を通して愛、正しさ、優しさ、親切などをお子さんたちに知っていただきたいと願っています。親御さんの参観もいつでも歓迎です。
どうぞお子さんたちを教会学校にお送りください。お待ちしています。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(聖書)
教会近隣に配布しているGood Newsの原稿より
Copyright(C)筑波キリスト教会
All Rights Reserved
『性=聖』
「高3の4割弱”初体験済み”」─新聞の片隅にグラフと共に若年層の性交体験のアンケート結果が載せられていました。高3では男女ともに40%弱、男子では高1で既に25%、女子では高2で35%が「経験済み」ということでした。
こんな結果を見るまでもなく、凄まじい「性」意識の世の中です。おそらく、この”初体験済み”の若者たちの多くは未婚でしょう。
聖書は、「性」を「聖」いものとして、神が人間に与えたとしています。しかし、人間が「聖」い神に背を向けたとき、さまざまな人間の性質と共に「性」も歪められるようになりました。
「性」の「聖」は、結婚生活においてのみ保たれます。─時代遅れの、固い考えでしょうか?
しかし、結婚生活を離れた「性」は、刹那的な快楽のためでしかなかったり、一方的な欲望を満たすためだけのものであったり、お金のためであったり、決して本当の意味での男女の喜びを与えません。むしろ、空しさを感じさせ、遅かれ早かれ、男女に悲しみをもたらすのです。
「経験済み」の若者たちは、やがて結婚したときに、配偶者とかつての異性を比べるでしょう。それは愛情を冷めさせたり、夫婦間の不信感の原因となるかもしれません。
反対に、「性」を「聖」とする純潔は夫婦の関係を強くします。
「聖」なる神に背を向けた現実は、欲望にさらされる「性」の分野で顕著に人間に不幸をもたらしています。しかし、イエス・キリストによる罪の赦しは、そのような渦中の私たちに有効であり、傷ついた心と体を癒します。この世にあって神の「聖」に人々が目覚めることを、そのときに人はどんなに幸福になれるかを知るようになることを願います。
イエスは深く哀れみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。
「私の心だ。きよくなれ。」
(新約聖書、マルコの福音書1章41節)