『来たぞ、我らのウルトラマン!』
 
 ちょうど50年前の1966年7月、『ウルトラマン』のテレビ放送が始まりました。 

 撮影当時、ウルトラマンを演じる俳優、古谷敏(びん)氏は悩んでいました(注)。 
 「俳優なんだから、脇役でも顔が出た方がいい。」 
 そもそも、そう思って断った役でした。 
 再三の依頼で引き受けたものの、スーツアクションは過酷で、ケガも絶えません。撮影後には何度も吐き、体重が減っていきました。 
 そんなある日、「人間」が演技する撮影現場をのぞきました。怪獣との死闘を演じる特撮現場とは別世界。オレンジ色の隊員服を着た俳優たちが談笑していました。これを見た古谷氏の心は折れてしまいました。  
 「隊員役が羨ましい。」「ウルトラマンを降板しよう。」 
 ところが、その決意を伝えるべく撮影所に向かったバスの中で、4人の小学生の会話を耳にします。 
 「バルタン星人が好きだよ。」「なんで3分しか地球にいられないのかな。」「早く次が見たいよ。」 
 楽しそうに目を輝かせ、興奮気味に話していました。 古谷氏の心に、新たな決意が湧き上がりました。 
 「子どもの夢を育てる手伝いがしたい。自分にしかできないヒーローを演じよう。」 
 実は、『ウルトラマン』には「にせウルトラマン」が登場する話があります。古谷氏は他者が演じる「ウルトラマン」を見て、別物だと感じました。そして思いました。 
 「ウルトラマンは誰にも渡せない。自分にしか演じられない。」 
 中身が誰でも同じであるかのように思える「ウルトラマン」。でも実際は、古谷氏が演じてこそ真の「ウルトラマン」だったのです。 

 翻って、私たちはどうでしょうか? 
 「自分の代わりは他にもいる。」「自分がいなくても大して変わりはない。」「自分の価値はそれほどのものではない。」
 「あの人が羨ましい。」
 そんな思いを抱いてはいないでしょうか? 
 あなたはヒーローあるいはヒロインではないかもしれません。そして職場や学校では、代わりになれそうな人、それどころか、もっと優れていると思える人もいて、羨ましく感じるかもしれません。 
 聖書は、私たちはひとりひとり、異なる役割、異なる使命を持ち、代わりはきかないことを教えています。 

 「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている」(ローマ人への手紙12:6) 

 また、私たちはそれぞれ、神によって造られ、神に愛されている存在です。 

 「私たちは神の作品」(エペソ人への手紙2:10) 

 あなたは、あなた以外の誰も代わることはできない、かけがえのない存在です。 
 聖書を通して、神があなたに向けている愛、また、あなた自身の大切さを知っていただけたら、と願います。 

 教会は、あなたのお越しをお待ちしています。
 どうぞ、お出かけください。 
 最後に替え歌を。「来〜たぞ、我らのウルートラマン」ならぬ「来〜てよ、我らの教会へ!」

(注)朝日新聞夕刊 『光の国から』2015年5月15日、6月6日、6月13日記事参照
Messages

受胎告知。そのときマリヤは?』

「あなたはみごもって、男の子を生みます。名をイエスとつけなさい。」


突如現われた天使が、マリヤにこう告げる場面を描いた「受胎告知」を多数の画家たちが描きました。

天使が現われた時、マリヤは何をしていたのか?想像や伝承を元にこの時のマリヤの姿が描かれています。読書中、井戸水を汲んでいる最中、糸巻きをしていた・・・。また、驚きのけぞる姿、戸惑う姿、天使に問いただす姿も描かれています。

処女であるのに、「身ごもり、男の子を産む」と天使に告げられる。さらに「生まれる者は神の子と呼ばれる」とさえ語られた時、いったい人はどう答え得るでしょう?


「神にとって不可能なことは一つもありません。」


神が人として生まれるという信じがたい「事件」の予告はこう結ばれました。神が神であるならば、この言葉の通りでしょう。

しかし、それはマリヤには必ずしも喜ばしいことでありません。未婚の母への世間の非難、婚約者ヨセフが何と言うか。彼女の人生の計画は・・・。

「迷惑です!私の都合も考えて!」私たちなら、こう叫んでしまうかもしれません。


「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」

マリヤの返答は、この上もなく神への従順に満ちています。「私は私のもの。誰の指図も受けない。自分の生きたいように生きる。」こうした思いに支配されている私たちには信じがたい言葉です。「受胎告知」の時、マリヤが何をしていたのかは不明です。しかし、この言葉は忘れてはならないものです。


「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」

神が人となるという信じがたい告知は、2000年前の一女性の信じがたい従順の告白を経て歴史の真実となりました。「自分の生きたいように生きる」という姿勢は、マリヤの時代も、現代も、人間を捕らえています。これが留められる時、人は怒りを感じ、争いが生じます。

あるいは喪失感や無気力に陥ります。それはこの願望に縛られている限り、2000年を迎えても、富を得ても変わりません。


しかし、マリヤのように自分優先の生き方をストップし、私たちを愛しておられる神に自分を委ねる時、私たちは新しい人生の扉を開くことができるのです。キリストの誕生こそ、神が私たちを愛している証拠です。

開かれた墓

ゴゴゴゴ・・・・と墓のふたは動き、やがて死んだはずの男が墓から──。


今から2000年ほど前の、春の朝の出来事です。

墓をふさいでいた石は転がされ、男は確かによみがえったのでした。

その男は、その日曜日の朝から2日ほど前、金曜日に死んだはずでした。

しかし、今や墓に残ったのは、彼を、いや、彼の遺体を包んでいた布だけでした。


しばらくしてから、生前、彼に従っていた女たちが墓にやって来ました。

彼の遺体に香料を塗るためです。しかし、すでに彼の遺体はありません。


「死んだはずのあの方が?そんなバカな!」

誰もがそう思ったに違いありません。ところが彼は生きて現われたのです!

女たちに。弟子たちが集まっている家に。二人の弟子の旅の途中で。

「私は彼の傷痕に手を触れなければ、決して信じない!」

そう宣言した弟子にも。


信じられない。

しかし、彼らはその目で見、よみがえった体に触れた以上、信じるしかありませんでした。

そして、弟子たちにはハッキリとわかったのです。

彼の死の意味と死からよみがえったことの意味が。

また、彼こそが人となった神であり、救い主であることが。


イエス・キリストの死は、人間の罪の罰をすべての人に代って受けるものでした。

罪とは、人間が自分の造り主である神に従わず、好き勝手に生きていることです。

そして、イエスのよみがえりは、罪と、その罰として人間を支配している死を打ち破るものでした。


この出来事によって、私たちに確かな希望がもたらされました。

自らの罪を認め、イエス・キリストによる赦しを得るなら、罪と死に対する勝利を得るのです。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか!」と宣言することができるのです。


弟子たちは、キリストのよみがえりを信じました。彼らは、復活のキリストをその目で見たのです。

作り話や妄想であるはずはありません。

なぜなら、彼らは生命の危険にさらされても「キリストはよみがえった」と証言したのです。

キリストが十字架にかかる直前には、恐怖のあまりキリストを捨てて逃亡した彼らが、そろいもそろって

作り話や妄想に命をかけるでしょうか?とても考えられません。


開かれた墓──イースターの朝の出来事は、私たちすべてに死への勝利、罪からの解放を差し出しています。あなたはこれをお受け取りになりませんか。

聖書が語る夫婦像

結婚式、あなたは神前式ですか?仏式でしょうか?それともキリスト教式でしょうか?


キリスト教式の結婚式をされた方は、牧師か神父の前でこんな誓約をしたことでしょう。

「・・・常に妻/夫を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、命の日の限り、あなたの妻/夫に対して堅く節操を守ることを約束しますか。」

「はい、約束します。」


私が手にしている式文では、どれも夫婦ともに同じ誓約の言葉が用いられています。

ところが、かつては妻にだけ一つ多い誓約が要求されていたのです!


それは「(夫に)仕え(obey)」という一語です。


この夫婦の誓約の差別(?)は、どうも女性の反発を買ったらしく、近年は夫婦ともに同じ誓約をするものが主流のようです。つまり、「仕え」は削除されるか、あるいは夫にも「仕え」を加えなければ妻の気が済まない、と言うことなのでしょう。

もちろん、伝統を守って、妻だけが「仕え」を誓約する式文も存続しています。


この「仕え」という語が妻にだけ課せられる誓約は、聖書に根拠があるとされます。

しかし、実は聖書では「妻は夫に従いなさい。」と命じ、続く箇所で「夫は妻を愛しなさい。」と命じています。(新約聖書「エペソ人への手紙」5章参照)


ある牧師は結婚式の説教で、

「聖書は夫が妻を愛せないから、『愛しなさい』と命じているのです。

夫は妻よりも仕事を愛し、名誉を愛し、別の女性を愛するような者だからです。

また、妻が夫に従えないから、『従いなさい』と命じているのです。

妻は、夫に従うことは束縛で、自分の好きに生きたいと考えたり、自分の好きにできる子供に心血を注ぐような者だからです。」

と語りました。


あなたはどうでしょうか。

夫に仕えていますか?妻を愛していますか?


「愛し続けること」「仕え続けること」は困難なことです。

悪いことではなく、良いことと知りながらもできないのです。

愛すること、仕えることがどのようなことかを知らずに結婚し、悲劇的な結末を迎える夫婦は増加の一途をたどっています。


「人々の愛は冷えて行く」と聖書で語られている通りです。

けれども、私たちはこの西暦2000年の現代においても、イエス・キリストを通して最高の愛、最高の仕える姿を具体的に知ることができます。

そして、キリストがどんなに私たちを愛し、仕えて下さったかを知ることによって、愛を知らず、仕えることを避ける者が、愛する者に、また、仕える者に変えられて行くのです。


ご夫婦でキリストを知り、愛し合い、仕え合う御家庭が築かれますようにと祈ります。


「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

(新約聖書、ヨハネの手紙第一4章19節)

後日贈られるプレゼント、既に贈られたプレゼント

クリスマス商戦の追い込みの慌しさの中、ある女性が50枚一揃いのクリスマス・カードを箱買いしました。

彼女はカードに印刷されている文字を読む間もなく、ものすごい勢いで自分の名前を書き、宛名を書き、急いで投函しました。

彼女の手許に残ったクリスマス・カードは1枚だけでした。


数日後、残ったカードが目に入り、彼女はそこに記されていた文字を何気なく読みました。


 「!」


彼女は驚きの余り言葉を失い、立ちすくんでしまいました。

何とカードにはこう書かれていたのです。


このカードは、後日ささやかなクリスマス・プレゼントが届くことをお知らせするものです。

この女性の驚きと苦悩は想像に難くありません。


「プレゼントを送らなければいけないかしら?それとも、改めておわびの手紙を送るべきかしら?」


こうなると、クリスマス・プレゼントは呪いのようにさえ感じられるでしょう。

一方、このカードを受け取った人々は、プレゼントの到着を「今日か、明日か」と心躍らせて待ったに違いありません。


この女性のカードではありませんが、私も「すでにあなたに贈られているクリスマス・プレゼントがあります。」とお伝えしたいのです。罪ある私たちに代わって罰を受けるために人となられた神、イエス・キリストこそ私たちに贈られた最初の、そして最大のクリスマス・プレゼントです。

この神の愛そのもののクリスマス・プレゼントをお受け取りになられますようにと心から願います。


「ことば(神ご自身を表わす存在としてのキリスト)は人となって、私たちの間に住まれた。」

(ヨハネの福音書1章14節)

『毎日が宴会?』


「13日の金曜日」。映画のタイトルにもなっていますが、
イエスが十字架で死んだ日ゆえに「不吉な日」、「縁起の悪い日」とされます。
でも、実際にイエスが死んだ日が13日の金曜日であったかどうかは不明です。

「縁起が悪い」とされているものは他にもあります。
例えば、病院やホテルの部屋では4という数字を嫌います(死を連想するため)。
また9という数字も避けられる場合があります(苦を連想するため)。
葬儀は「友引」には行なわれません。
結婚式場は仏滅の利用は10%のディスカウントが一般的だと聞きます。
縁起など気にしない人もいますが、多くの人が漠然と気にしていることも事実です。

聖書は、こうした事柄には根拠がないことをはっきりと語っているばかりか、
毎日がどの日もすばらしい日であることを約束しています。


「私たちは、神の中に生き、働き、また存在しているのです。」
                         (使徒の働き 17章28節)

私たち人間は神によって造られた存在です。
そして、1日1日は神によって与えられた日です。
神を信じ、神の守りの中にあることを確信して歩むなら、どの日も不吉な日とはなりません。


「悩む者には毎日が不幸の日であるが、
 心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」
                   (箴言 15章15節)

神を信じて歩む人は心に楽しみを持ち、たとえ苦しみにあっても喜びを失うことはありません。


「いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべてのことについて、感謝しなさい。」
                  (テサロニケ人への手紙 第1  5章16節〜18節)


喜び、祈り、感謝する毎日をあなたもお始めになられませんか?
教会へのお越しをお待ちしております。

「聖書を通して教育を」  



 数年前、新聞で興味深い国際調査の結果を見ました。

 日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツの小学校5年生と中学校2年生を対象に「親から何を言われているか」について調査したものです。

 「よく言われる」、「たまに言われる」、「言われない」の三項目で回答が集計されていました。


 驚いたのは、どれほど「ウソをついてはいけない」と言われているか、という項目の結果です。

 

 ◆第一のグループ:韓国、アメリカ、イギリス

 「よく言われる」 「父から」も「母から」も40%以上。

 「たまに言われる」を合わせれば、80%を超える国も。


 ◆第二のグループ:ドイツ

 「よく言われる」、「たまに言われる」を合わせれば60%。


 ◆第三のグループ:日本

 「よく言われる」は、「父から」11%、「母から」16%。

 驚くべきは「言われない」の突出ぶり!「父から」71%、「母から」でも60%に上ります。


 「いったい、この国の倫理はどうなってしまうのか!?」と心配になります。

 もちろん、親が禁じてもウソはつく。それが人間の悲しい性質でもあります。しかし、何が良いことで、何が悪いことか。これを教えることは教育における基本のはずです。


 教会では「教会学校」が毎週日曜日に行われています。

 聖書を通して、「良いこと」と「悪いこと」も含めて、人間にとって必要なことが語られます。

 「永遠のベストセラー」である聖書のエッセンスは国際的な教養としても、芸術や文学の分野でも有益です。

 「学校」と言っても堅苦しいものではありませんし、信者の子どもである必要はありません。

 また、毎週来なければならないものでもありません。

 聖書を通して愛、正しさ、優しさ、親切などをお子さんたちに知っていただきたいと願っています。親御さんの参観もいつでも歓迎です。

 どうぞお子さんたちを教会学校にお送りください。お待ちしています。


 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(聖書)

教会近隣に配布しているGood Newsの原稿より

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性=聖


「高3の4割弱”初体験済み”」─新聞の片隅にグラフと共に若年層の性交体験のアンケート結果が載せられていました。高3では男女ともに40%弱、男子では高1で既に25%、女子では高2で35%が「経験済み」ということでした。


こんな結果を見るまでもなく、凄まじい「性」意識の世の中です。おそらく、この”初体験済み”の若者たちの多くは未婚でしょう。


聖書は、「性」を「聖」いものとして、神が人間に与えたとしています。しかし、人間が「聖」い神に背を向けたとき、さまざまな人間の性質と共に「性」も歪められるようになりました。


「性」の「聖」は、結婚生活においてのみ保たれます。─時代遅れの、固い考えでしょうか?

しかし、結婚生活を離れた「性」は、刹那的な快楽のためでしかなかったり、一方的な欲望を満たすためだけのものであったり、お金のためであったり、決して本当の意味での男女の喜びを与えません。むしろ、空しさを感じさせ、遅かれ早かれ、男女に悲しみをもたらすのです。


「経験済み」の若者たちは、やがて結婚したときに、配偶者とかつての異性を比べるでしょう。それは愛情を冷めさせたり、夫婦間の不信感の原因となるかもしれません。

反対に、「性」を「聖」とする純潔は夫婦の関係を強くします。


「聖」なる神に背を向けた現実は、欲望にさらされる「性」の分野で顕著に人間に不幸をもたらしています。しかし、イエス・キリストによる罪の赦しは、そのような渦中の私たちに有効であり、傷ついた心と体を癒します。この世にあって神の「聖」に人々が目覚めることを、そのときに人はどんなに幸福になれるかを知るようになることを願います。


イエスは深く哀れみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。

「私の心だ。きよくなれ。」

(新約聖書、マルコの福音書1章41節)


 『青空を見上げて』
 青空が美しい季節を迎えました。最近、空を見上げたのは、いつのことですか?
 『声に出して読みたい日本語』で有名な斎藤孝氏が『人生練習帳』という本で

 「まずは青空を見上げてみよう! 青空から力をもらえ!」

 と「青空力」を提唱しています。
 澄み渡る空。抜けるような空。吸い込まれるような空。広がる空。美しい空。見上げればそこにある空は、私たちに力を与えてくれる、身近な(なんと無料!)ものですね。
 
 「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」

 こちらは旧約聖書のことば(詩篇19篇1節)。
 大きな宇宙まで含めて、天が神の壮大さを現しているとの宣言です。
 ギリシャ人は昔から人間を「アンスローポス」(上を見る者)と呼んできました。
 昼は青空(雨空のこともありますが)、夜は星空を見上げる。しかし、ただそれだけではなく、それらを造られ、私たちをも造られ、愛しておられる永遠の神を思う。
 人間の真の憩い、そして力の源は、神にこそあります。

 そこで、斎藤教授のおとこばをもじらせていただいて…。
 「まずは青空を見上げてみよう! 青空を造られた神から力をもらえ!」

『心はふしぎな所』
   心はふしぎな所
   信じるべきを うたがい
   愛するべきを 憎み
   のぞむべきを 落胆し
   喜ぶべきを 悲しみ

 私たちの心は、確かにチグハグな、「ふしぎな所」ではないでしょうか?
 上記は、水野源三(1937-1984年)さんの『心はふしぎな所』という詩の前半です。水野さんは9歳のとき、脳性麻痺で眼と耳以外の機能を失いました。運動も、話すこともできなくなりました。でも、まばたきによって、ことばを紡ぎました。それで「まばたきの詩人」と呼ばれています。
 水野さんは12歳のときに、聖書を通してイエス・キリストの愛を知りました。そして18歳から紡ぎ続けた詩には、喜びと感謝があふれています。
 この詩の後半も、イエス・キリストの愛を知った、水野さん自身の心の大きな変化が語られます。
  
   心はふしぎな所
   いったん主(注.イエス・キリストのこと)の御手にふれるならば
   見たり きいたり
   ふれたり しなくても
   信じ 愛し のぞみ
   喜ぶことができる

 イエス・キリストは、私たちを愛しています。あなたを愛しています。その愛は、私たちのチグハグな心を「信じ 愛し のぞみ 喜ぶことができる」ものへと変えます。
 教会へお越しになって、聖書に記された、イエス・キリストの愛に触れてみませんか?歓迎いたします。

  「たとい山々が移り、丘が動いても、
   わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、 わたしの平和の契約は動かない」。  (旧約聖書・イザヤ書54章10節)