礼拝説教要旨

我が主のために

聖書:ルカによる福音書 16章1~8節 説教:尹 成奎 牧師 日付:2026年10月25日

今日の聖書箇所は、「不正な管理人のたとえ」と呼ばれるイエス様のたとえです。ある金持ちの主人に、財産を任された管理人がいました。しかし彼は、主人の財産を自分のもののように扱い、無駄遣いしていました。そのことが主人に知られ、管理人は会計報告を求められ、解任されることになります。

管理人は、肉体労働をする力もなく、物乞いをするのも恥ずかしいと悩みます。そして、自分が職を失った後に受け入れてもらえるよう、主人に借りのある人々を呼び、証文の額を減らしました。油百バトスを五十バトスに、小麦百コロスを八十コロスに書き直させたのです。

普通に考えれば、これはさらに主人に損害を与える行為です。ところが主人は、この管理人の抜け目のないやり方をほめました。なぜなら、当時の社会では主人にとって財産以上に大切なものが「名誉」だったからです。借りを減らされた人々は、主人が自分たちを思いやり、負担を軽くしてくださったと思ったでしょう。その結果、主人の評判は高まり、恵み深く寛大な方として知られるようになりました。

もちろん、イエス様は不正を勧めておられるのではありません。大切なのは、管理人の行動がどこへ向かったかです。初め、彼は主人の財産を自分のために使っていました。しかし最後には、その行動が不完全ながらも主人の名誉につながりました。

このたとえは、弟子たちに向けて語られました。弟子とは、主であるイエス様に従う者です。ですから、弟子が求めるべきものは、自分の評価や満足ではなく、主人であるイエス様の栄光です。

私たちは完全ではありません。良かれと思ってしたことが人を傷つけたり、最善を尽くしても失敗したりします。しかし、主はその弱さを知ったうえで、私たちを招いてくださいました。私たちは欠けのある者ですが、それでも主のために用いられることができます。

大切なのは、私たちの心がどこに向いているかです。教会での奉仕、家庭での働き、職場での務め、人との関わり、そのすべては誰のために行っているのでしょうか。自分が認められるためでしょうか。感謝されるためでしょうか。それとも、主のためでしょうか。

イエス様は、「神と富とに仕えることはできない」と言われました。富に仕えるとは、自分の利益や安心、名誉や満足を第一にすることでもあります。だからこそ私たちは、何度も主の前に立ち返り、「これは誰のためなのか」と問い直す必要があります。

私たちの主人は、ただ一人、イエス・キリストです。私たちは弱く不完全な者ですが、それでも今日という日を主のためにささげることができます。私たちの言葉と行いが、自分のためではなく、主の御心と栄光のために用いられるよう歩んでいきたいのです。