キリストの復活シリ−ズ (2006年6月18日)
よみがえられたキリストとペテロの出会い(2)
「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15-27)
「イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」 (ヨハネ21:15) |
家内の高校時代の社会の先生が30数年前に「ロ−マ帝国が滅んだ理由は、老人と子供を大切にしないからだ」と授業で教えてくれたそうです。「なかなか鋭い観察だ」と家内から話しを聞いて私は思いました。世界一の長寿大国日本は、まもなく65歳以上の人口が全人口の25%を占めるようになり、2030年には若者2人で1人の老人を支えてゆかなくてはなりません。一方で女性の出産率の低下に歯止めがかからず、現在は1.27人まで落ち込んでいます。将来の国力や活性力に深刻な影響を与えるとされる人口構造が完全な逆ピラミッド型になってきています。超高齢化と超少子化が加速する中で日本の将来が大いに危ぶまれています。ローマ帝国ばかりでなく、日本ももし老人と子供を大切にしないならば滅びるといえるのではないでしょうか。この現象はそのまま日本のキリスト教会にも当てはまると思います。お年寄りと子供を大事にする教会、人に優しい教会、そんな思いを大事にしたいと思います。つぼみ会に先週も8名が集いましたが、車椅子で会堂に入るにも一苦労しました。おトイレに行っていただくにも不便さをおかけしています。私たちの教会はただ狭いばかりでなく、建物の設備が決してお年寄りに優しい教会とはなっていません。はいえません。子供たちも2Fの狭い部屋で礼拝をしていますが子供たちに十分な配慮ができた教会とはいえません。お年寄りや子供たちを大切にする愛の「交わり」が豊かな教会でありそのための器としての機能を有する会堂のためにもやはり祈らなければと痛感しています。
さて、よみがえられたイエス様はガリラヤ湖で再びお弟子たちと出会われました。イエス様は彼らを岸に招き、自ら用意した朝の食事を振舞われました。
その後イエス様はペテロに、「あなたは私を愛するか」(15.16.17)と、3度同じことを尋ねたのは、かつてペテロが大祭司カヤパの中庭で「イエス様など知らない」と3度拒んだことと関連していることは明らかです。ペテロに裏切られて「イエス様も根に持ってるのかな、結構執念深いなと」思われるかも知れませんが、イエス様は決してひきづるようなお方ではありませんから、ちゃんとした目的をもっておられました。「あなたは私を愛するか」この3度の問いかけには意味があるのです。
第1に、イエス様はペテロの心の傷を癒そうとされたことです。
イエス様を3度、拒んでしまった自分の過去を思い起こすとペテロはまだもとの気持ちには戻れませんでした。イエス様の赦しがすでにあることはわかっていました。でもまだ自分で自分を赦せないで自分を罰するような思いがどこかに残っているのを感じていたのです。岸に立っているのはイエス様ですとのヨハネの指摘を受けて思わず「上着をまとって、湖に飛び込んだ」(21:7)行動に中にもペテロの複雑な気持ちが見える思いがします。
赦しを受けることは大きな平安です。過去の失敗が赦されるという恵みは決して小さなものではありません。けれども人間は「赦されるだけ」では満足できないのです。赦されたならば「愛に生きる」ことを求めるからです。私を愛するかと問われて「愛します」と3度応えましたが、その返事をペテロはただ機械的に繰り返したのではなかったと思います。
もしこの場面をビデオで再現できればペテロの言葉に次第に力が入ってゆき、ペテロが返すことばが次第にいのちのこもったものになってゆくことが観察できるのではないでしょうか。
イエス様の赦しと愛は完全ですが、ペテロが心の中で自分自身で「壁」を作っているのです。「愛します」と改めてイエス様に向って言葉で告げることによって、イエス様を拒んでしまった自分を許し、心の壁を崩し、イエス様の赦しと愛の中にやすらかに自分を委ねることができ、喜びを回復することができたのです。イエス様の大きな赦しの中で、自分の中に築いてしまった「自分を許せない心の壁」を崩していただくことができるのです。
第2に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」(15)と言われました
子羊を子供たちと理解しても良いかと思います。古代社会では老人は敬われましたが女性や子供たちは十分尊重されませんでした。ですからかつてイエス様のもとに子供たちが押し寄せてきた時、お弟子たちは邪魔者扱いして追い払おうとしました。しかしイエス様は幼子たちを呼び寄せて「私のところに来させなさい。とめてはいけません。神の国はこのようなものたちのものです」(ルカ18:16)と言われました。幼子とは「赤ちゃん」を指すことばですから赤ちゃんとお母さんを招いたのです。子供も救いを受ける権利があり、神の国のりっぱな住民の一人です。弱い存在だからこそ愛をもって守りなさい、これがイエス様の御心であったと思います。
今日も2階で子供たちはキッズ礼拝を捧げています。この子供たちがこれからますますイエス様を深く知ってゆけるようにどのように家族と協力しながら仕えてゆくかを考えることが大切です。
羊も子羊もイエス様の羊です。教会に集う一人一人は大人も子供もみなイエス様の羊であり、かけがえのない大切な羊です。イエス様は大人ばかりでなく子供たちのためにも十字架で死なれ、罪の赦しと永遠のいのちへの道を備えてくださいました。永遠の救いに招かれている大人と子供が共に礼拝を捧げてこそ、公同の教会の真実な礼拝といえるのではないでしょうか。
礼拝学者ウィリアム・ウィルモンの次の言葉を私たちもしっかりうけとめたいと願います。
「子供たちは説教の対象としては除外されてきた。そしてまたそれと同様のことが、たくさんのおとなたちにおいても起こったのである。…子供はその年齢に関わりなく礼拝できるのである。たしかに子供たちは大人と同じような知的レベルにおいて礼拝することはできないかもしれない。しかしそれでもなお、彼らは礼拝することができるのである。…きわめて幼い子供なら教会内の託児室のような場所に預けられる場合があるかも知れない。しかし、教会としてはできるかぎり早くその親子が主日礼拝に参加するように望んでいることを知らせるように努めなければならない」(礼拝学入門)
イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」ヨハネ21:15
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