「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(ヨハネ1:14−17)
教会にクリスマスツリ−が飾られましたが、やはりツリ−が飾られるとクリスマスの喜びも徐々に深まって来る思いがします。お寺でも最近はクリスマスがお祝いされるそうですが、一般の人々はクリスマスを何の日だと考えているでしょうか? プレゼントをもらう日、ケ−キを食べる日、中にはサンタクロ−スの誕生日と考えている人もいるようです。クリスマスは神の御子イエスキリストの誕生を祝う日とされていますが、ヨハネの福音書にはクリスマスが「ことばが人となって、私たちの間に住まわれた」(1:14)恵みの日と記されています。
聖書において「ことば」は単なるコミュニケ−ションの手段ではなく、語る者の「存在・意志・力・権威」を現します。「光あれと仰せられた。すると光があった」(創1:3)と記されている通り、神の言葉には権威があり、無から有を生じさせるダイナミックな創造の力がありました。ですからイザヤは次のように語っています。
「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)
それゆえヨハネは、神の意志と神の権威と力をあらわす「神のことば」は「神を解き明かすことができる」(1:18)、神の御子であるイエスキリストに他ならないと解き明かしています。神のひとり子以外にそのような権威を誰も持つことができないからです。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、
神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)
1 神の栄光が
「私たちの間に住まわれた」(1:14)とは、神の御子が私たち罪深い人間の世界に誕生し、33年の生涯を歩み、十字架で身代わりとなって死なれ、3日後に死人の中からよみがえられたというキリストの全生涯を指しています。十字架から復活までの全エピソ−ドを含む言葉と言えます。この「住む」と訳されたことばは「天幕を張って住む」という意味をもっているそうですが、旧約聖書では「神の栄光・神の臨在」を現すことばとしても用いられています。
モ−セの時代に荒野を旅する民の宿営の中に特別な一つの天幕が張られ「会見の幕屋」と呼ばれました。それは神が臨在され神が人と出会われる聖なる場所であり、神に召された者だけが神と出会う場所でした。そして会見の幕屋はつねに栄光の雲で包まれていました。
「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」
(出エジプト40:34−35)
さらにダビデによって計画されソロモンによって建設されたエルサレム神殿は献堂式の日に栄光の雲が宮に満ち祭司たちが中に入れなかったほどであったと記録されています。強い神の臨在がありました。
「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」(1列王8:11)
ソロモンの死後、イスラエルは2人の息子によって2つの国に分裂し、やがてアッスリヤ・バビロンという強大な国家によって侵略され国は滅び、神殿は破壊され、民は捕らわれて奴隷となりました。捕囚後、バビロンを滅ぼしたペルシャ王クロスによってユダヤ民族には祖国への帰還命令と神殿再建の許可が出たため、彼らは祖国に戻り、ゼカリヤ・ハガイらの指導によって神殿を再建しましたが、そこに「神の臨在」はありませんでした。さらに後の時代に異邦人であるヘロデ大王によって荘厳なエルサレム神殿がユダヤ人民の懐柔工作として政治的に建設されましたがやはりそこにも「神の臨在」はありませんでした。
ですからユダヤ民衆は預言者ゼカリヤやハガイによって語られた神のことばの成就を心から待ち望んでいたのです。神の臨在が満ちる栄光の神殿が建てあげられることを久しく待ち続けました。
「主はいわれる。シオンの娘らよ。喜び歌え。私が来てあなたの中に住むからである」(ゼカ2:10)
このような旧約聖書の歴史を背景にしつつ、ヨハネはついに預言が成就し「神の栄光、神の臨在」がイエスキリストにおいて私たちの間に宿ったと大きな感動をもって語っっているのです。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」(1:14)
私たちが主の日の朝、イエスキリストを礼拝する時、神の栄光を恐れ敬いつつ礼拝をささげているでしょうか? モ−セが燃える柴の中から呼びかけられて足から靴を脱いで神のみこえに聞き従ったように、さらには会見の幕屋でひれ伏して神を礼拝したように、ソロモンと全イスラエルの会衆が栄光の雲に包まれた神殿の前でひれ伏して神を礼拝したように、大祭司が至聖所でおそれおののきつつ傷のない最高の犠牲の供え物をささげたように、私たちは神の臨在と栄光に充ち満ちたキリストを崇め、おそれ敬いつつ礼拝をささげているでしょうか? 私たちが主の日にキリストに礼拝をささげる意識や行動は「主の栄光・主の臨在」にふさわしいものでしょうか。神の臨在を意識し恐れ敬いつつ主の御前に進み出るものでしょうか各自が静かに問いかけなおしたいものです。
2 恵みとまことに満ち
ヨハネはさらに神の御子は「栄光と力と権威」に満ちておられるばかりでなく「恵みとまことに」(14)満ちていると証ししています。恵みとは一方的な神の永遠の愛、慈悲、慈しみを指し、まこととは神の移り変わることのない真実を指すことばであり、「恵みとまこと」は旧約においては1セットになっています。つまり「神の愛は永遠にかわらずその真実は決して消えない」ことを強調しているのです。
すでにこのような神の愛とまことは預言者たちによって語られてきました。
「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」(イザヤ54:10)
「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」(エレミヤ31:3)
そしてヨハネはこのような神の永遠の愛とまことを、カルバリの丘のキリストの十字架の身代わりの死の中にはっきりと見たのでした。キリストの十字架は全人類に対する神の愛の啓示であり、「ここに愛がある」と感動して叫んだのでした。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(1ヨハネ4:9−10)
カルバリの丘の十字架は全世界の人々に差し出された神の愛の結晶でした。神の御子キリストの十字架のなかに人は神の充ち満ちた恵みを見ることができるのです。
教会は神の臨在が満ちる聖い場ですが、同時に教会はイエスキリストにおいて明らかにされた神の恵みが満ちあふれるところでもあるのです。旧約時代のように栄光の雲が教会を満たすことはもはやありませんが、教会において十字架の救いのことばが福音として語られるところに神の恵みが満ちあふれるのです。教会は宣教のことばを通してキリストの十字架を語り、十字架が語られるところに神の恵みも満ちあふれるのです。赦しを必要とする罪深い者たちのなかに神の恵みが満ちあふれるのです。
教会は十字架の救いの恵みを全世界に発信してゆく恵みの母胎といえます。
3 恵みに恵みを
ヨハネは「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」(16)と語っています。恵みの上にさらに恵みをという表現を「恵みに交換して恵みを受け取った」と榊原康夫先生(ヨハネ講解書)は訳しておられます。そして「新しい恵みを次々にうけるのだ」と解説しています。一つの恵みがずっと続くこともすばらしいことですが、恵みにさらに恵みが加えられるので恵みが古くなることがないのです。どんなにあきっぽい人でも「神の恵みにもう飽きた」という人はいません。どんなに新しいモノが好きな人も「神様の恵みはもう古い」とはいいません。イエスキリストという恵みに満ち満ちたお方から、常に恵みが流れ出てくるので恵みが尽きることはないのです。折りに適ったその時その時に必要な恵みの力に助けられ導かれるから、いつも新鮮なのです。
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
(1:16)
わたしはときおりふと考えるときがあります。21歳でクリスチャンになりましたから信仰生活がもう37年になります。幾多の困難や試練の中で今日まで信仰生活を保ち続けることができたのはなぜだろうかなと。
はっきり言えることは、私の信仰が強かったからでは決してありません。今日までキリストによって恵みの上に恵みを加えられてきたからに他なりません。失敗や過ちをおかした時にも、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ロ−マ5:20)という恵みに支えられてきました。
私の祈りに神様が答えてくださり大きな恵みを与えてくださったことが何度もありました。神学校時代、靴底が破れてしまったことがありましたがお金がありませんでした。そのため朝のチャペルで祈っていましたが、ある時、靴箱に新しい靴がプレゼントとして入っていました。その感激を私は忘れることはできません。祈ったから祈りに答えられたという経験ばかりではありません。あまり祈らなかったときにも、いいえ疲れ果てて祈れなかったようなときでさえも、神様は恵みを豊かに注いでくださいました。私が祈った内容を時が経つにつれて忘れてしまったのに、神様は祈りを覚えてくださっていて、神様の御心の中にあるベストタイムにその祈りを実現してくださったこともありました。主の恵みを数えればきりがありません。そしてこれは私だけの経験ではなくすべてのクリスチャンが経験してることだと思います。
ですから、私たちもパウロの次のような感謝のことばに心から同意できるのです。
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(1コリント15:10)
神の恵みによって今の私たちはここにいます。イエスキリストの恵みによって私たちは罪を赦され御霊によって新しくされ、今ここに生きているのです。旧約時代の人々が待ち望んだ神の栄光と臨在は神の御子イエスキリストにおいて成就し、私たちはさらに恵みに恵みを増し加えていただきながら、今ここに生きているのです。感謝しつつ、栄光の御子の御前にひれ伏し私たちも心からの礼拝をささげましょう。