1月の説教 1月4日 新年礼拝

いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。
「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神
(創世記1:1) 

              「全能者の陰に住む者」

新年おめでとうございます。今朝は2009年の最初の日曜礼拝です。毎年恒例になっていますが、「祈り」について詩篇91編から学んでまいりましょう。

1 苦しいときには祈りなさい

「彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、       彼を救い彼に誉れを与えよう。」(91:15)

15節で「彼が呼び求めれば答えよう」と神様が祈りに応えてくださるとの約束が明記されています。ここで重要なことは「苦しみの時こそ」呼び求めること、つまり祈ることです。「困った時の神頼み」という諺があるほどですから、手を合わせて祈るのは困った時と私たち日本人は一般に考えるかも知れません。しかしながらよくよく考えてみると、私たちは「苦しみの時」に、祈ることを忘れてしまうことが多いのです。なんとかこのピンチを乗り越えなくてはいけないと自我や自力であれこれ立ち振る舞い、神様に祈って導きをまとめることを忘れてしまうことがしばしばあります。その結果、期待していたものを何も得られず疲れ果てて、祈る気力さえ失ってしまうことが多くあるのではないでしょうか。一番祈りを必要とする時に祈ることができなくなってしまうのは考えれば大きな損失だと思います。神様に信頼するよりも自分の力に頼ってしまうという私たちの肉の性質が引き起こす失敗といえます。聖書は「あなたが苦しい時こそ神に祈りなさい」と呼びかけています。祈れないようなときだからこそ祈りなさいと諭しています。

神様は「私は苦しみのときに彼とともにいて彼を救う」(15)とはっきり約束してくださっています。ですから、神様のこの約束を疑うことなく信じ信頼しましょう。

カナダの女性マ−ガレット・パワ−ズが作詞した「フットプリント 足跡」という次のような美しい詩が世界中のクリスチャンに慰めを与えています。著作権の問題があり全文をご紹介できないのは残念ですが、概略を紹介させていただきます。

ある夜、詩の作者はイエス様とともに浜辺を歩いている夢を見ました。
振り返えるとそこにはイエス様の足跡と自分の足跡が残っていました。
ところが、たった一つの足跡しかないことに気がつきました。そしてそれは彼の人生で最も困難で悲しみに打ちひしがれているときだったことに気ずきました。
そこで作者はイエス様に尋ねました。「私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?」と。するとイエス様はこのように答えてくださったというのです。
私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、たった一組しか足跡がなかったのはあなたを携え歩いていたからです」と。

 この詩が世界中で愛されているのは、苦しい時や試練の時には、心ならずも神様の存在が感じられなくなり、思わず不信仰に陥り、神様をうらんだり呟いたりしてしまう弱さをもっているからではないでしょうか。苦しい時、私たちは「神様は私を忘れておられる」「私を見捨てておられる」「私などどうでもいいと思っておられる」あるいは「罪深い私に対して怒っておられる」と否定的な思いに捕らわれてしまい自分を責めてしまいがちになります。けれどもそのような時にこそ、マ−ガレットさんが綴った美しい詩を思い起こしましょう。私もこの詩を思い起こして慰めを受け、また立ち上がって歩き出した思いが幾度もあります。

あなたの心の浜辺に、どんなときにもあなたとともに歩まれるお方の足跡を刻んでいただきましょう。苦しい時にこそ、主に呼び求めましょう。祈れないようなときこそ祈りましょう。主はともに歩まれ、私たちが重荷のゆえに疲れ果て歩けなくなったその時、私たちをその背に背負い、持ち運んでくださお方なのですから。

「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
    わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ
464

2 天の使いがあなたを助ける

「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(11)と、神様の確かな守りについて約束されています。しかも、多くの御使いたちが共に働いてあなたを守っておられるというのです。カトリック教会では一人一人を守る守護天使の存在を教えていますがプロテスタント教会では、あまり天使の働きを強調しません。天使崇拝という異端の教えに近づいてしまう危険性があるからです。しかし聖書は天使たちの働きを繰り返し教えていることも事実です。ですから、「天使たちでさえもあなたの守るために働いておられる」ことを私は受け入れています。特に無力で無防備で弱い幼子たちを天使が守り、「ゴーサイン」がでれば即座に緊急出動できるように父なる神さまの顔を仰ぎ見ているというイエス様も教えを私は信じています。

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(マタイ1810

まだ若い頃のことです。教会の集会に間に合うようにと狭い路地を急いで車を運転していました。その時、横の狭い路地から三輪車に乗って追いかけごっこをして遊んでいた男の子が急に飛び出してきました。急ブレ−キを力いっぱい踏みましたが「ガシャン」と音がしました。「轢いた!」神様助けてくださいと叫ぶようにして祈り、すぐに外に出ましたが子供の姿が見当たりません。「車の下に巻き込んだか!」と思いましたが車の下をすぐ見る勇気が出ません。神様助けてくださいと祈りながらのぞきこみましたがいません。一体どうしたんだろうと思っていると、三輪車に乗って遊んでいた先ほどの子供と仲間の子供たちがまたにぎやかに大声を出して路地横から飛び出して何事もなかったかのように遊んでいます。

一体何が起きたのでしょうか。いまだにわかりません。車のタイヤの幅と細い三輪車のタイヤのゴムの部分同士がぶつかってスットそのまま後ろに戻ったようです。これを偶然といいきれるでしょうか。私には天から御使いが降りてきてさっと子供を守ったとしか思えません。子供に家を聞いてお母さんに事情を話し御詫びをしましたが、私の心は感謝の思いと不思議な思いで1日中包まれていました。神の臨在、御使いの存在を覚えたできごとでした。

みなさんも、「ヒヤッ!」としたことあるいは「はっ!」とした危ない瞬間を経験されたことがあると思います。もし「ここは危機一髪、守られたな!」と感じたらその数百倍以上、実は気がつかない間に守られていたということを信じて下さい。決定的な一つの大事故が起きる背景には数百倍の小さな事故が存在しているといわれています。この世界ではまさかと思うような事故や悲しい出来事が起きますが、その一つの事故の背景には数百倍もの守られた事故や怪我が実は存在しているのです。私たちが気がついていないところで、神様は御使いを用い、時には人を用い、あらゆる機会や資源を用いて私たちを守ってくださっているのです。目に見えていないところで守られながら今日まで生きてきたこと、生活してこれたことを感謝しましょう。

3 全能者の陰に宿る

ここには、高き方の隠れ場、全能者の陰、避けどころということばが使われています。詩篇の記者がここで意図していることは「鷲がその翼の下に雛を覆い隠して敵から守る」姿です。

「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける」(4

鷲は強い翼を伸ばして卵を外敵から守ったり、雛を覆い隠して雨風から安全に守ります。そのように、「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける」ことができるのだと詩篇の作者は美しいことばで神の守りを教えています。旧約聖書では神様とイスラエルの関係が大鷲と雛の関係でたとえられています。新約聖書ではイエス様と弟子たちとの関係が羊飼いと羊たちの関係でたとえられています。そこにあるのは確かな守りと真実な愛です。

鷲は外敵が近づけないような険しい崖の中腹に巣を設けます。そして卵から雛が孵り、成長してやがて巣から飛び立つ日を迎えるときに、親鷲は雛をくちばしでつついて巣から追い出します。巣から落ちた雛は必死で羽をはばたかして飛ぼうとしますがうまくいかず落下してゆきます。そうすると親鷲は雛の下に舞い込んで大きな翼の上に雛を乗せ、上昇気流をうまくとらえながら高く舞い上がることを教え込むそうです。落下してしまうことは雛にすれば「苦」に思える出来事ですが、親鷲の翼に守られ大空を舞うことを学ぶ最大の機会となるのです。親鷲の翼は、守ることだけではなく育むことにも用いられます。

私たちが困難や試練に直面するような時、確かにそれは苦しく悲しいことに違いありません。できれば避けたいと願うのも自然な感情だと思います。しかし、全能者に信頼する者は、み翼の陰に守られるばかりでなく、み翼によって育まれ、強められ、成長させていただくことができるのです。全能者の陰に信頼して住む者は、苦難の時に強められ立て上げられるのです。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
(詩篇11971

「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」(2)と告白されているような神様へのゆるがない信頼の思いを持ち、神様に祈り続けてゆくことが私たちには赦されているのです。なんと幸いなことでしょう。祈れないようなときこそ祈りましょう。神様へのゆるがない信頼をもちながら。