1月の説教 1月18日 礼拝

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、
福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、
信じない者は罪に定められます。」
(マルコ16:15-16) 

              プロテスタント日本宣教150周年
                 喜びの知らせを伝えよう

今年2009年は日本のプロテスタント宣教が始まり150年となる記念の年です。150年前の1859年(安政6年)、横浜、函館、長崎の3港が開港され、ヘボン師、ブラウン師、シモンズ師が神奈川に、フルベッキ師、リギンス師、ウィリアム師が長崎に公に宣教師として来日しました。ちなみにカトリック教会は1549年にフランシスコザビエルが鹿児島に上陸しています。さらに薩摩藩の支配下におかれていた琉球沖縄にはすでに1846(弘化3)年に英国国教会系の医療宣教師ベッテルハイムが上陸し8年間の医療活動と聖書の琉球語翻訳活動を行っていました。明治政府内には岩倉具視を筆頭にキリスト教を邪宗門とみなして嫌う者も多く、「キリシタン禁止令」を掲げたまま弾圧政策をとり続けました。難航している欧米との条約締結を有利に運ぶため明治政府はついに1873年(明治6)2月19日にキリシタン禁止令を解き、キリスト教の布教を黙認しました。こうして名実ともにプロテスタントキリスト教の伝道が始まったのでした。

鹿児島に上陸したザビエル、沖縄に来たベッテルハイム、横浜や長崎に来たヘボンやフルベッキら宣教師たちは迫害と困難の中にあって日本を愛し、日本人の救いのためにいのちをかけて宣教しました。かれらは「全世界に出ていってすべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」との宣教命令に従い、祖国を後にして宣教地へ旅立ちました。主イエスのことばに彼らは応答し全生涯をささげたのでした。

1 不完全な者でも主は用いられます 

イエス様が復活されたことを当初弟子たちは信じることが出来ませんでした。イエス様は「彼らの不信仰とかたくなな心を責められた」(14)とあります。そんな不信仰で不完全な弟子達にイエス様は宣教命令を与え世界に派遣しようとされました。御使いを用いて一瞬のうちに世界中にメッセ−ジを伝えることも可能であったにもかかわらず、イエス様はあえて不信仰でかたくなな弟子達を用いようとされました。なぜでしょう。それはあらゆる人間的な弱さや不信仰がキリストの十字架のもとですでに解決され、復活の力のもとにおかれて強められているからです。そもそも伝道は人間の力によって進められるものではなく御霊の力によって進められるものです。

「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。」(1コリント2:4)

神のなさる神の働きはすべて『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリア4:6)

ときどき「もっとりっぱなクリスチャンだったらりっぱな証しもできるのにと」嘆くクリスチャンと出会うことがあります。私はその時、「クリスチャンがあまり立派すぎるとあんなふうにはなれない。自分とは別世界の人々だ」と自分に失望し信仰から降りてしまう求道者の方もおられますよ。たとえあなたが不十分であってもあなたを用いてくださるイエス様が完全なお方ですから、ありのままの自分自身を証ししイエス様の恵みを伝えましょう」とお勧めしています。自分の不信仰さや不完全さや罪深さを悔い改めつつも、そこに捕らわれることなく、出ていって福音を宣べ伝えましょう。証しするのはあなたではなく主イエスの御霊の力によるのですから。

2 伝道の対象は全世界に住むすべての人々です

イエス様は最初に12人の弟子をユダヤ人の住む町や村に派遣されました(6:7)。それは旧約聖書において約束されていたユダヤ人の王であるメシアがついに人となってこの世界に来られたことを宣言するためでした。しかし十字架にかかり自らの死をもって全人類の罪を償われたキリストは、よみがえられて死の力をうち砕き、罪と死の力から解放する全ての人々の救い主となられました。それゆえ復活された主イエスは全世界の人々のもとへ出ていって福音を伝えよと弟子達に命じました。福音を伝える対象は世界中の全ての人々です。ユダヤ人を初め、異邦人と呼ばれていたギリシャ人やロ−マ人などヨ−ロッパに住む人々ばかりでなく、アフリカ、アジア大陸に住むすべての人々をも含みます。人種や民族の壁を越えたすべての人々、赤ちゃんからお年寄りまで全ての年齢の人々を含みます。健康な人ばかりでなく病気に悩む人々、そして障害をもった全ての人々をも含みます。

すべての人間が、神に逆らって罪を犯してしまったアダムの子孫であるがゆえに「罪の性質」を遺伝として受け継ぎ、罪と死の力に束縛され支配されています。それゆえすべての人々が、罪を赦す権威と死の支配をうち砕く永遠のいのちを持つ救い主を必要としています。「すべての人に」と言われたイエス様の言葉の中に、あなたの大切な家族一人一人も含まれていることを覚えましょう。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

伝道者として日本で一番多くの人々をキリストのもとに導かれた本田光慈先生は、ご自分のお父さんの救いのために50年間祈られたそうです。そして本田先生の涙の祈りは聞かれました。あなたの大切な人々のためにあなたが祈る祈りはとぎれることなく続いていますか。「すべての人に福音を宣べなさい」と命じられた主イエスのことばを今、もう一度聞き直しましょう。

3 永遠の運命の分かれ道

福音を信じる人々にはどのようなことが起きるのでしょう。イエス様は明言されています。「福音を信じバプテスマを受ける者はみな救われます。しかし不信仰なものは罪に定められます」(16)
この場合の救いや罪に定められるという言葉は終末における「最後の審判」にかかわることばと言われています。聖書が教える「救い」は安泰な生活、ビジネスの成功、スム−ズな人間関係といったような現世的な救いをさすことばではありません。永遠の運命に直接係わることばです。永遠のいのちを受けキリストの永遠の国に生きることを指します。一方、「罪に定められる」ということばも同様に私たちの永遠の運命に係わることばです。

もし、イエスキリストの十字架の死による罪の赦しをいただかなければ、その人は神様の永遠の審判の日に、自分で自分が完全無欠で何一つ罪がないことを証明しなければなりません。ところで、自分が歩んだ人生の道で、私は何一つ罪も過ちも犯したことがありませんと言い切れる人が本当にいるでしょうか。聖書は「すべての人が罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない」(ロ−マ3:23)と私たちの現実を鋭く指摘しています。

もし自分で自分の罪を償うとしたらどれぐらいの代償を支払えばいいのでしょうか。何をもって罪を償うというのでしょうか。「死」いがいには罪の償いはありません。永遠の死、永遠の滅びがそこには待っているのです。

キリストの十字架の身代わりの死という神の愛を信じて罪の赦しをいただくか、最後までかたくなな心をつらぬいて十字架の赦しを拒み、永遠の滅びをもって罪を償う道を選ぶか、2つに1つなのです。私たちの前には、永遠のいのちか永遠の滅びか、2つに一つしか存在しません。この世の生活では、あれもこれも選択することができるかもしれませんが、最後の審判の時には1つしか選べないのです。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある
永遠のいのちです。」(ロ−マ6:23)

4 宣教する教会にはめぐみのしるしが伴います

イエス様は、宣教する者達は、「悪霊を追い出し」「新しいことばを語り」(17)「へびをつかみ」「毒をのんでも死なない」(18)と約束されました。これらは「みことばに伴うしるし」(20)とも言われています。イエス様の弟子達が活躍した初代教会時代には、福音の宣教に伴う大きなしるしがしばしば伴いました。しるしによって使徒達の語ることばの確かさを神様が保証されたからです。この目的のために使徒の時代には特別に強い聖霊のお働きがあったのです。

現代において、同じようなしるしがともなうことを求める必要はありません。牧師の私が「毒を飲んでも死なない」と聖書に書いてあるからといって青酸カリを口に含んだらどうなるでしょう。神様をしるしをもって試す必要はないのです。新約聖書の存在そのものによって福音の確かさが歴史の中で明らかにされてきたからです。みことばに伴うしるしがなければ聖書自体が存在していなかったことでしょう。聖書はあのすさまじい迫害の炎に包まれても燃え尽きることはありませんでした。考えてみればこうして私たちが今、日本語に翻訳された聖書を手にとって日々読み、神様の御心を余すところなく知り、十字架の赦しと救いの恵みを信じることができること自体が、大きなしるしなのです。町の大きな書店に行けば、宗教の本のコ−ナ−があり、そこに聖書が並べられています。キリシタン禁止令が出ていた150年前にこのような光景を想像できたでしょうか。聖書の存在自体が大きなしるしといえるのではないでしょうか。

さらに、みことばに伴う最大のしるしは、宣教する主の弟子達と教会には復活されたキリストが世の終わりまでともにおられるという恵みの事実です。

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

諸々のしるしよりも、力あるお働きをなさる権威を持つキリストがともにおられることこそが最大のしるしといえます。キリストのことばに従い、福音の宣教に仕える教会と信徒は、キリストの臨在を豊かに経験してゆくことができます。死んでしまった者にもはや試練はありません。生きているから人は悩み、困難や試練と向き合うことになります。幸いなことにその試練の中で、そこにともにいて導かれるキリストの恵みを経験し、励まされ、成長してゆくことができるのです。キリストがともにおられるならば何を恐れることがあるでしょうか。キリストがともにおられるならば外は試練の嵐が吹き荒れても、心のうちは神の平安に包まれるのです。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ロ−マ8:31)

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

150年前に来日した初代のプロテスタント宣教師たちも、きっとこのような平安と確信に満たされ日本の地に上陸し、福音宣教の第1歩を踏みしめたのではないでしょうか。