2月の説教 2月1日 礼拝
2009年から「祈りのシリ−ズ」が始まっています
題「パウロの5つの祈り」
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず
目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」
(エペソ6:18)
今日は「祈りのシリ−ズ」の第2回目です。今日の聖書の箇所は投獄され監禁状態の中にあるロ−マの獄中からパウロがアジア州にあるエペソの教会の信徒に宛てて書いた手紙の中で、「私のために祈ってほしい」と願った箇所です。見出しに「パウロの祈り」とつけることができるかと思います。パウロはここで祈りについて5つのことを記していますので、順番に5本の指にたとえて学んでみましょう。
1 どんなときにも祈りなさい。
第1番目の指は「どんなときにも祈り続けること」です。18節では「どんなときにも」「たえず目をさまして」との表現があります。どんな状況のもとにおかれていてもいつでも祈りなさいとパウロは教えていますが、厳しい投獄生活を強いられている中で祈り続けるパウロのことばだけにたいへん説得力があります。パウロは自らの生き方を通して、日々の祈りが決して失われてはならないことを諭しているのです。
ミレ−の名画「晩鐘」は世の東西を問わず見る人々にいいしれない宗教的な感動を与えます。それは素朴で敬虔な祈りが人間の本質とは切り離すことが出来ないほど深く結びついていることを直感的に人々が感じとっているからではないでしょうか。
私たちの日々の生活の中から祈りが失われてはなりません。祈りが欠けた生活であってはなりません。悲しいことに私たち現代人はモノやカネに絶大な価値をおいた結果、目に見えないけれども人間をはるかに越えた大いなる存在である神様を忘れ果てた不信仰な生活をしています。神様に祈ることを忘れてしまった結果、感謝することや生かされていることを喜ぶことや互いに信頼しあうことも忘れてしまい、欲望に突き動かされ自己中心的に生きるようになってしまいました。人間社会のあらゆる罪深い業や悩みや混乱やむなしさの根本的な問題はここにあると聖書は指摘しています。私はもういちど現代人は生活の中に「祈る」ことを回復する必要があると思っています。
さてパウロは「すべての祈りと願いを用いて」祈りなさいと命じています。この場合の「祈り」は日々の生活の中で習慣化された祈りを意味し、「願い」は緊急を要するような特別な祈りつまり懇願を指していると考えられます。懇願は神様にホットラインをつないで緊急出動を願うような祈りです。ですから時には徹夜で祈ったり、断食をして祈るということもあります。一方、キリスト教の祈りの特徴は、神様と対話し語り合うことにあるとも言われています。クリスチャンの生活の中ですでに習慣化され生活の一部になっているような祈りといってもいいと思います。祈りが生活の中で習慣化されると、いつでもどんなときでも祈りが生活を導くようになってきます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(1テサロニケ5:16-18)
このように、私たちクリスチャンの祈りは、緊急出動を神様に求める懇願の祈りと、日々の生活の中で習慣化された神様との語り合いの祈りとから成り立っているといえます。
軽井沢の恵みシャレ−というキャンプ場で毎年祈りのセミナ−を開いておられる池田博先生は「朝の15分があなたを変え、教会を変える」という言葉をモット−にして、朝の祈りの大切さを強調しておられます。若いころ、朝起きてこたつに入って真っ先に新聞を広げていたそうです。ところがある朝、奥様から「あなた、新聞を読む前にすることがあるでしょう」とやんわりと指摘されたそうです。池田先生はその時、妻からの声ではなく神様からの声として深く受けとめ悔い改めたそうです。そしてそのときから早朝の祈りを始め、いつしか365日絶えることなく続けられる教会の早天祈祷会へと発展したそうです。
先生の書かれた本を読んで、どのようにしたら、たいへん忙しい人々が朝の時間に充実した「15分の祈り」ができるか私は朝の祈りの時間にいろいろ実験をしてみました。まず簡単に洗顔して身支度を整えます。神様の前に進み出るのですから目やにだらけで髪の毛が爆発しているような状態ではふさわしくありません。身支度が整ったらいつも祈る場所に正座をします。祈りの場所を決めておくことはとても有益だからです。次に、まず「主の祈り」をゆっくり声を出して祈ります。「このように祈りなさい」と主イエス様が命じられたのですから、1日を始めるにあたって主の祈りを祈ることは最もふさわしいと思います。続いて聖書を1−2章、ゆっくり声を出して読みます。聖書は見開き1ペ−ジ分をゆっくり声を出して読むとおよそ7分かかります。これで初めからおよそ10分になりますから、残りの5分を自分のことばかりでなく他の人々のために祈る、「執り成しの祈り」にあてます。そうすると丁度15分になり、忙しい朝の時間帯でも充実した祈りの時がもてます。 いかがでしょうか、ぜひお試し下さい。朝の15分の祈りが習慣化されることを願っています。 付録 15分の朝の祈りの手順
2 御霊によって祈りなさい
第2番目の指は御霊によって祈ることです。「どんなときでも御霊によって祈りなさい」(18)とパウロは命じました。御霊によって祈るとは、人間的な熱心さで祈ることと対比されています。頑張って朝早く起きて、頑張って祈り抜くという人間的な努力とは異なり、神の霊に導かれて祈ることを指します。直前の17節でパウロは「御霊の剣である神のことばを取りなさい」と命じています。つまり、御霊と神のことばと祈りは一つに結び合わされているのです。この三つは切ってもきれない関係にあります。大声で祈ったり、恍惚状態になって祈ったり、断食して祈ったり、人間的な熱心さで祈ることを否定するつもりはまったくありませんが、人間的な熱心さはいつか冷えてゆくものです。時にはあのパリサイ人のように他人を意識した祈りになって自分の行いを誇るようになれば、神様に捧げる祈りではなくなってしまいます。
御霊に導かれて祈るひとつのケ−スがあります。人は大きな試練に直面すると心身ともに疲れ果て打ちひしがれて祈れなくなるときが来ます。祈れないほど気落ちしてしまったときはどうしたらいいのでしょうか。祈れないときでも祈りをやめてしまわないためにまずいつものように自分の「祈りの座」に座ることです。つまり、神様の前に進み出ることです。言葉にならなくて沈黙をしたままでも、神様の前に進み出るためにまず座るのです。祈りの座に座り「ここに私がいます。祈ることすらできない私がここにいます。主よ。」と祈りのことばを失ったままのありのままの姿で主の前に居る時に、御霊がとりなしてくださるのです。
「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ロ−マ8:27)
祈りは神様との交わりです。ですから御霊が神の前に私たちを導いてくださり、父と子と聖霊との交わりの中に招き入れてくださいます。そして私たちの「霊」を強めてくださるのです。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を
強くしてくださいますように。」(エペソ3:16)
3 すべての聖徒のために祈りなさい
「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」(18)
第3番目の指は執り成しの祈りです。 聖徒とはクリスチャンを指す言葉です。パウロは同じ信仰を分かち合う仲間のために祈りなさいと命じています。この世ではすぐに解決するような問題は多くありません。時間と忍耐を要することばかりといっても過言ではありません。ですから時間がないと焦ったり答えがでないとあきらめて祈ることを閉ざしてしまうことが多くあります。忍耐の限りをつくして祈り続けることが求められます。
自分のことばかりを祈るのではなく、他のクリスチャンのためにより多くの時間を用意して祈ることを「執り成しの祈り」と呼んでいます。そして兄弟姉妹のために祈ることはそのまま「信仰の家族」(エペソ2:19)である教会のために祈ることでもあります。もし私たちの祈りが自分の為だけの祈りになっているならばその祈りは偏った祈りになっています。信仰の家族のため、そして教会のために十分に時間をささげて祈りましょう。
執り成しの祈りは即決の祈りではなく忍耐の限りを尽くすことを求めてきます。そしてそのような忍耐深い愛を、聖霊は私たちの心に希望とともに尽きることなく注ぎ続けてくださるのです。執り成しの祈りの愛は御霊の愛をその原動力としています。
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が 私たちの心に注がれているからです。」(ロ−マ5:5)
「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」(2テサロニケ3:55)
今、世界的規模で経済的な危機が押し寄せてきています。仕事や住まいを失う非正規雇用者が急増しています。特にダメ−ジが大きい製造業関係ではふたたび正社員にも大規模なリストラが及ぼうとしています。多くのクリスチャン家庭にも深刻な影を落としているのではと案じています。ですから一人一人の生活の上に神様の守りを牧師として祈っていますが、同時に、「試練が大きければ大きいほどそれを受けとめる信仰と祈りもさらに大きくなりますようにと」一人一人の霊的な成長を重ねてお祈りさせていただいています。人生は状況に対して受け身ではなく、積極的に志向し思考してこそエネルギーがあふれるものだと私は常に考えています。そのような考えと力を、神を信じる信仰の祈りそのものが生み出してくれるからです。ピンチは祈りを萎縮させるものではなくピンチは私たちの小さな祈りを大きな祈りに大胆な祈りに変えるチャンスをもたらすのではないでしょうか。
4 伝道者のために祈りなさい
第4番目の愛はパウロの職務のための祈りです。パウロは「私のためにも祈ってください」(19)と願っています。パウロは自分の働きが祈りで支えられていることを知っていました。兄弟姉妹の祈りを必要としないほど「私は強い」という人はいません。ましてや伝道者あるいは宣教師、何よりも神の国の「大使」(20)として召された使命に生きるパウロは霊的な支えなくしては働きを進めることが出来ないことをよく知っていました。大きなビルほど多くの支柱で支えられているようにパウロは兄弟姉妹に祈りのサポ−トを求めました。
私たちはどこかでプライドがじゃまをして素直に他者の霊的な助けを求めることをためらったり拒んだりしやすい者です。祈ってもらわなくても自分で解決できるとがんばる人よりも、他者の助けを素直に願い求めることができる人は心の豊かな人なのです。イエス様でさえゲッセマネの園で弟子たちに一緒に祈るように願い求めました。パウロは宣教の働きが霊の戦いの中にあることを知っていましたから、なおさら祈りのサポ−トというチ−ムの力を必要としていました。
「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。 私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ロ−マ15:30)
牧師にとって本当に心強いことは、教会員がいつも牧師のために祈ってくださっているという事実です。それは何にもまさる最大の霊的な支援だからです。
5 福音を語るために祈りなさい
最後の5番目の指は、大胆に福音を語ることができるための祈りです。「私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」(19)
パウロは大胆に語るべきことばを語ることができるように祈って下さいと願っています。強調点は大胆に語ることというよりはむしろ福音の奥義をしっかり語ることにあるように思います。この時点でパウロはロ−マの獄中にいましたから不特定多数の人々に福音を語ると言うよりは、同じ囚人仲間や牢獄を監視する近衛兵たちなど限られた人々に、継続的に福音の奥義を語り伝えることを意味していると思います。つまり教会における牧師の説教に非常に近いのです。多少の入れ替わりはあってもほぼ同じ教会のメンバ−に日曜日の朝ごとに繰り返し継続的に聖書から福音の奥義を語り続けてゆく働きに牧師は召されていますが、今のパウロのおかれている状況はよく似ています。
教会に送られてきた「祈りのための情報誌 プレヤ−ネット14号」で赤羽教会牧師の深谷春男牧師が、エペソ6章のパウロの祈りの5番目を端的に「説教のために祈れ」と解き明かしておられました。私は目が開かれた思いがしました。「そうだ、大事なことは大胆に恐れずに福音を語るという態度もさることながら、福音の奥義を説教においてしっかり語ることにあり、それゆえ説教のために祈りの支えが必要なのだ」と気づかされたからです。
伝道者は神様のことばを語ることが使命です。伝道者が福音の奥義、つまり福音の中心を語ることは具体的には伝道者の語る説教そのものの中に凝縮されます。すべての説教者は神のことばという「御霊の剣」(17)を受け取らせていただき戦っています。説教者はいつも福音の宣教を妨げようとするこの世のもろもろの霊との戦いの現場の最前線に送り込まれています。ですから祈りの支援を必要としています。エペソ6章のパウロの祈りは要約すれば執り成しの祈りの中でも非常に大切な「牧師のための祈り」「説教のための祈り」といえると思います。深谷牧師の視点の深さに教えられました。
牧師としての私も、毎週日曜日の朝の「説教」を大きな仕事だと思っています。説教は講義ではなく、福音を語ること、神のことばを取り次ぐことですから、神様の臨在なくしては語れません。そして福音を唯一の土台とする教会は、説教によって建てあげられてゆくという事実におののきを覚えます。私も他の牧師同様、1週間かけて30分の説教を準備しますがその30分の説教に心血を注ぎ込んでいます。相手が100名であっても1000名であっても、今私が語っている30名近い方々に対してであってもこの姿勢は全く変わらないと思いますし、変えてはならないのです。
信徒の皆さんが牧師の生活が守られるようにと経済的な祝福を祈ってくださることはうれしいことです。いつも健康でありますようにと牧師家庭の健康を祈ってくださることも感謝です。しかし何よりも「説教のために」祈ってくださることにまさる喜びはありません。
先ほどの池田先生の教会では牧師が礼拝で説教をしている間、別室でその説教と礼拝の祝福のために執り成しの祈りをささげる信徒さんたちのグル−プがいるそうです。しかも信徒さんが自らそのような説教のための祈りを申し出てくださったそうです。なんと祈りが深められている教会でしょうか。
まさに私たちが今年、願っている「祈りの家としての教会」の姿を見る思いがします。
兄弟姉妹のために祈る教会、牧師のために祈る教会、説教のために祈る教会が祝福されないわけはありませんね。私たちももう一度イエス様に願いましょう。
「主よ、私たちにも祈ることを教えてください」(ルカ11:1)
エペソ書に記されたパウロの5つの祈り
1 いつでも祈りましょう
2 御霊によって祈りまししょう
3 聖徒(兄弟姉妹)のために祈りましょう
4 あなたの牧師のために祈りましょう
5 牧師の説教のために祈りましょう
追加 「朝の15分の祈り」の手順