2月の説教 2月8日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「御国がきますように」

「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国がきますように』」
(マタイ6:9−10)

多くのお年寄りが家族に迷惑をかけたくないので、できれば長患いすることなくぽっくり死にたいと願ってお寺参りをするそうです。いわゆる「ぽっくり寺」信仰が流行っているそうです。クリスチャンのお年寄りの中にも「早く天国へ行きたい」と願う方がおられます。私も「先生、もう未練もないし早く天国へ行けるようにお祈りください」と言われて困ったことがありました。私は「天国へ早く行きますように」と祈るよりは、「御国が早く来ますように」と祈られるほうが信仰的だと思いますとお答えしました。

 今日は主の祈りの中の「御国がきますように」という第3番目の祈りを学んでゆきます。

ここで御国あるいは神の国と訳されたギリシャ語は「国」という意味と「支配」という意味を持っています。この地上においてこの2つはかならずしも一致しているわけではありません。たとえばアフリカのソマリヤのように内戦で無政府状態に陥っていたとしてもやはり一つの独立国家と呼ばれます。しかし神の国と呼ばれるためには、国が神の義と愛で完全におさめられていなければなりません。神の真実と恵みが充ち満ちていてはじめて神の国と呼ばれるに値します。

1 地上の神の国

さて、イエス様の時代のユダヤ人の多くは、神の国ということばを文字通り「ユダヤ民族の独立国家」という政治的民族主義的な意味に理解しました。彼らはロ−マ帝国の支配から独立したダビデ王・ソロモン王の時代のような栄光に満ちた地上の民族国家を期待し待望していました。メシアが支配する地上の王国を待望していました。しかし、イエス様は「私の国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)とはっきり否定されました。この地上において完全な国はどこにも存在しません。なぜなら罪と欲に支配されている不完全な人間が王となって国を支配しようとするためです。そのためバビロンもペルシャもギリシャもエジプトもロ−マも衰退し滅んでしまい、近代のナチスドイツも大日本帝国もソ連も崩壊してしまいました。地上のどんな国も「神の国」と呼ばれることはありません。

2 イエス様の御国(終末において実現する神の国)

イエス様が弟子達に教えられた神の国とは、「人類の歴史のかなたに到来する永遠の神の国」を指しています。イエス様は繰り返し、「終わりの日にこの古い天と地は滅びさるが、その時、新しい天と地が創造される」と永遠の神の国が到来することを強調しました。神の国についての聖書の教えをまとめるならばつぎのように整理することができると思います。

1)過ぎゆくこの地上の世界とは異なる永遠の神の国が必ず到来すること

   ですから地上のことばかりに心がとらわれて天に宝を積むことを忘れていてはなりません。

2)その神の国の王は十字架で死なれ死の力をうち破って復活されたキリストであること

   キリストこそ王の王、主の主と呼ばれるただ一人のお方であり、来るべき御国の王なのです。

3)その神の国にはいるには罪を悔い改めて「聖霊によって新しく生まれ」なければならないこと

  「水と御霊に生まれなければ神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)のです。

4)キリストを信じる者は罪を赦され永遠のいのちを受け、神の国に国籍を持つ国民とされていること

 「あなたがたの国籍は天にある」(ピリピ3:20)

5)神の国は世界の終わりの時、王であるキリストの再臨とともについに実現し完成すること

6)神の国はいつ実現するのか神様以外に誰もわからず、神がその時をご支配しておられること

7)神の国は「新しい天と新しい地」(黙示21:1)と呼ばれること  などです

やがて人類の歴史の中に到来するこの永遠の神の国、キリストの御国こそが、私たちの希望であり、究極のゴ−ルであり、大いなる喜びです。この究極のゴ−ルをしっかりと意識していないと私たちは目先の小さな出来事に振り回され大局を見失ってしまいます。

辺り一面雪景色の中をまっすぐに歩く方法があるそうです。足下をみて歩く人は右へ左へ蛇行したり、最悪の場合はぐるりと利き足と反対方法に円を描くように曲がってしまうそうです。まっすぐに歩く秘訣は遠くの丘の1本の樹をしっかり見つめて歩くのだそうです。歴史のゴ−ルは永遠の神の国にあります。 神の国の到来を待ち望むという究極のゴ−ルを見つめましょう。

神の国の到来は、最高に価値のある完成の日ですから、「御国がきますように」と私たちが日々心から願い、祈り求めることは自然のことといえます。それは、婚約をしたカップルが1日も早く結婚式を待ち望む気持ちと同じです。ですから、初代教会では「主よ、来てください」という祈りが常に捧げられました。

「これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。
        アァメン、主イエスよ、きたりませ。」(黙示録22:20)

もう一度繰り返しますが、この世とあの世、現世と来世という地上と天上という上下2元論的思考で神の国をとらえるのではなく、直線的な終末論的思考で、新しい創造のみわざとしての神の国をとらえることが大切です。世界は神の国に向かって集約されてゆきます。人類の歴史は神の国の完成というゴ−ルに向かって確実に進んでいるのです。小さな小川の水が結びあってやがて海へ流れ込んでゆくように、歴史は神の国をめざして時を刻んでいるのです。ですからイエス様はいつキリストが来られても良いように心の準備を整えることを繰り返し強調されました。「御国がきますように」というイエス様の祈りのことばと、「まず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)という生活の基本態度に関する教えとは一つに結びついています。

3 キリストの国は愛の国

御国と訳されたギリシャ語バシレ−ヤにはもともと「支配」という大切な意味があるとさきほどお伝えしました。つまり神の国とは「神様がご支配される世界」を指します。神が恵みをもってご支配されるところに神の国が存在しているという意味になります。ヨハネはイエス様を紹介するにあたって

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られ たひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したから である。と言いました。」(ヨハネ1:17)

神の義と神の愛、神の真実と恵みはイエスキリストによってクリスマスの日に人間の世界にもたらされました。つまり、神の御子が私たちの世界にお生まれになったその時から、「すでに」神様の特別なご支配がはじまり、「すでに」神の国は到来しているのだという霊的事実を示しています。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 『そら、ここにある。』とか、 『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ 中にあるのです。」(ルカ17:20−21)

キリストを信じる者の心の中に、キリストを信じる者たちの交わりの中に、さらにいえば健全なキリストの教会の中に神の国が、すなわち満ち足りた神の義と愛が、すでに始まっているのだと教えているのです。キリストの御霊が惜しみなく注がれ満たされるからです。そのとき、クリスチャンの心の中にも、その交わりの中にも、そして教会の中にも、キリストの御霊である聖霊による神の愛と喜びが満ちあふれてゆきます。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを 禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22−23)

奈良県に住む牧師からその教会の歴史を聞かせていただいたことがありました。この教会は一人の熱心なおばあさんの祈りによって開拓が始まり今の大きな教会にまで成長したそうです。このおばあさんはかつて、村中の嫌われ者・やっかい者で「鬼瓦(おにがわら)」とあだ名されるほどあちこちでトラブルを引き起こしていました。ところがあるときおばあさんは教会を訪ね、イエス様を信じて聖霊による新生を体験されました。おだやかな優しい表情になり、いつも感謝するようになり、あまりの変化に村中の人が驚いたそうです。おばあさんは自分をこのように生まれ変わらせてくださったイエス様を人々に証しするようになり、自分の住む村に教会が出来るように祈りつづけた結果、ついに実現したのだそうです。かつては「鬼がわら」と呼ばれ恐れられていたおばあさんの心と生活の中に「神の国」が豊かに広がったのでした。もし一人の罪人が罪を悔い改めイエス様を救い主として心に迎えるならば、キリストの御霊がその心に宿り、その心は「神の愛と恵み」が満ちる神の国となるのです。こうして一人のクリスチャンの心から神の国は始まり、その家庭を神の国と変え、その人の人間関係と交わりの世界を神の国へと広げてゆくのです。

かつてナポレオンがいったそうです。「余は力をもって世界を支配した。しかしキリストは愛をもって世界をおさめた。余の国は滅んだが、キリストの国は永遠に続く」と。

御国がきますようにと、暗い時代の中にあって、希望に満ちた究極の歴史のゴ−ルを祈りましょう。

御国がきますようにと、罪を悔い改めて神様のもとに立ち返り、キリストを救い主として心に迎え、その心が神の国へと変えられますように、そして豊かに家庭や隣人関係の交わりの中へと広がりますようにお祈りしましょう。

 「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。」(ロマ15:33)