2月の説教 2月22日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「みこころが地になりますように」

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」
(マタイ6:10)

今日は主の祈りの3番目の祈り「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」を学びます。みこころとは神様のご意志、お考え、おはからいを意味します。神様の思いは天においては完全に行われています。なぜならば天には神のみこころを遂行するために創造された天使たちと神様の言葉に従いいのちまでも捨てた多くの信仰者達もいるからです。しかし残念ながらこの地上においては、人間の欲と罪とが絡み合って不信仰という闇の力を形成し、そこに神様に敵対するサタンが荷担して一大抵抗勢力を築き上げ激しく抵抗しているために、神様のみこころが100%実現しているというわけにはいきません。そこで、「神のみこころが地においてなりますように」と祈る人々が一人でも多く起こされることを父なる神様は願っておられるのです。

1 神様のみこころを求める祈り

「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」(エペソ5:17)

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになりあなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」(ピリピ1:9−10)

パウロは神様のみこころがなんであるかよく悟りなさいと勧めています。神のみこころを見分けることができるように真の知識と識別力が養われるようにと願っています。クリスチャンであればだれでも神様のみこころがどこにあるかを知って、みこころに従いたいと願います。具体的に、進学であれ、就職であれ、結婚であれ、重大な人生の岐路において自分が選ぼうとしている道が神様のみこころに適っているかどうかを知りたいと願うのは自然な思いです。

私が若い頃に読んだ本の中に、みこころにかなうことか否かを判断する「5つの原則」が記されていました。私は今でも基準としていますのご紹介します。

1 よく祈ったかどうか。
思いつきであるならばやがて気が変わりコロコロと方針も変ってゆきます。一時の感情的な興奮であればすぐに冷めてゆきます。しかし、よく祈ったことであれば揺るぎません。ですから祈ることを学ばなければなりません

2 みことばが与えられたかどうか。
私はこれを大事にしています。御聖霊はみことばとともに豊かに働きますから、みことばが与えられることを大切にしたいと思っています。それは私たちの祈りの生活とみことばに根ざした生活とがばらばらにならないためです。みことばをおみくじのように引用するためではありません。みことばに根ざした祈りの生活を築くためです。

3 心に平安があるかどうか。
みこころに適うことであるなら御霊の平安が心を支配します。自己本位のことがらには自己満足は伴いますが、神の平安はともないません。御霊は神の思いがなんであるかをよく知っており、心の平安をもたらすことがおできになります。

 ローマ   8:  6  肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
 
1コリ    2: 11  同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

4 他の人々の祝福になっているかどうか。 
神様の御心であればその人ばかりでなく周囲の人々にも祝福となります。他の人を悲しませたり不幸をもたらすような神のみこころはありえません。自分の思いで行動しがちなときにその考えの中心には自分自身がいます。自分の満足や自分の楽しみが中心を占めています。ですから他の人々への思いやりや愛が欠けてしまうことがしばしば見られます。自分の満足に終わってしまうのか、周囲の人々に祝福を与えることになってるのかどうかを祈りに覚え吟味しなければなりません。

5 状況が開かれているかどうか。 
「求めよ、さらば与えられん」と神様は約束してくださっていますから、みこころには必ず備えが伴います。祈りに応じて必要が備えられ満たされてゆきます。注意をしなければいけないことは、ある有利な条件が提示されているからみこころだと思い込んで軽率な行動に走らないことです。好条件イコ−ルみこころでは決してないからです。この世の好条件はむしろサタンの誘惑という餌の可能性さえあるありますから、よくわきまえなければなりません。

付け加えて、神様のみこころならばなにもかもが順調にゆくという夢物語からも目覚めなければなりません。神様のみこころにかなうことであるからこそ、この世からの反対と妨害もまた強くなる一面もあるからです。イエス様が歩まれた「みこころの道」は十字架の道であったことを忘れてはいけません。ゲッセマネで祈られたイエス様は「あなたのみこころのままに」と父なる神様のみこころを確信し、祈りから立ち上がって、カルバリの丘への道を歩み出されました。苦難の中に栄光の道が隠されていました。提供された好条件や順調な状況の中にみこころを求めることには慎重でありたいものです。

以上の5つを心に覚えながら祈り求めてゆくならば、主のみこころに近く歩むことができるのではないでしょうか。

そして、少なくとも「これがみこころだ」と断言しない謙虚さをもつ必要があると私は思います。牧師や宣教師や役員といった教会の指導者が傲慢になると「うその権威」を帯びて断言的な言い方をする傾向が強く出てきます。神様が求めておられるのはそのような偽預言者たちではなく、みこころに謙虚に仕えようと願うしもべたちです。ですから「これがみこころだ」と見せかけの権威を示すことを退け、「このことはみこころにかなうことだと私は信じています」という真実な謙虚さをもって祈りつつ神様に仕えることが大切だと思います。

私は若い頃、ある牧師から、神様のみこころがどこにあるのか、どちらにあるのか迷ったときや、わからなくなったときは「十字架の道」を選びなさいと教えられたことがあります。楽な道を選ぶのではなく苦難の道を選びなさいという教えでした。「古くさい教えだな。今時の考えにはあわないよ」と言われるかも知れませんが、私は古い教えかも知れないけれどいつの時代にも通じる人生の真理ではないかなと今も思っています。他人にそのように生きなさいとはいいませんが、少なくとも自分自身はそのように生きてゆきたいと今も願っています。十字架の道はいばらの道です。非合理的な理屈に合わない損な道です。誉れや賞讃ではなくののしりとあざけりの道です。喜んで多くの人が歩む道ではありませんが、キリストが歩まれた道であり、いのちの道です。そして一番、神様のみこころに添った道であると信じています。

迷ったときは「十字架の道を選びなさい」、多くの選択肢が用意されているときにも「十字架の道を選びなさい」と私は自分の心に語っています。

2 神様のみこころの中心

さて、今朝はここで改めて考えてみたいことがあります。そしてこのことが最も大切なことだと思っています。それは、父なる神様の「みこころ」とは何であるかという問いかけです。もちろん、私たちが日々の生活の中で、このことあのことがみこころにかなうことかどうかと悩んだり迷ったり、あるいは熱心に祈り求めることがあるかと思いますが、そのようなもろもろの出来事に対する個別のみこころを尋ね求めることが、神様のみこころを尋ね求めることのすべてなのでしょうか。

イエス様のことばの中に答えがあります。

「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ6:39−40)

このイエス様のことばを通して、父のみこころとは、「御子イエスキリストを信じる者がみな、ひとりも失なわれることなく永遠のいのちをもつこと」であるとわかります。父なる神様はあれやこれやのみこころではなくただ一つの明白な中心的なみこころをもっておられました。それは神の御子イエスキリストを救い主と信じる者が一人も滅びることなく永遠のいのちをもち神の国に入ることでした。聖書はこのことを「罪からの救い」と呼びます。

パウロは「みこころの奥義」と言う表現をしました。そして罪からの救いは、神の御子イエスキリストの十字架の身代わりの死を信じることによって無条件で、神からの賜物として与えられることを語り続けました。

「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」
(エペソ1:9−10)

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」(ガラ1:4)

イエス様も十字架の死を前にして、徹夜で祈られ、神のみこころを確信されました。

「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)

「イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」(マタイ26:42)

イエス様は、父なる神様のみこころは、十字架の身代わりの死による全人類のあがないにあることを確信し、「みこころのままに」とご自身を委ねきり、十字架の道へと歩み出されました。何と崇高な精神でしょうか。

あのみこころ、このみこころと多くの御心を尋ね求める必要はありません。神のみこころはただ一つです。「御子イエスの十字架の身代わりの死による罪の赦しを信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得ること」こそが、神のゆるがない唯一のみこころです。罪からの救いこそが、父なる神様の大みこころであり、神様の愛のご決意であり、聖なる永遠の誓いでもあるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

3 すべての奉仕はこの一つのみこころに仕えるため

キリストを信じる者は一人も失われない・滅びない・永遠のいのちを持つ、この「父のみこころ」に仕えることが私たちの「奉仕」の根幹といえます。

「神の御子キリストを救い主として信じるならばだれも滅びない、信じる者はみな救われる」この永遠の真理は別名「福音」とも呼ばれています。ですから教会におけるすべての奉仕は、神のみこころへの奉仕であり、永遠の救いという真理への奉仕であり、福音への奉仕であると言えます。

私たちが神のみこころを行うこととは、私たちが「福音」に仕えることと同じであるとの中心をはずして、あのことこのことの中にみこころを探し求めてもそれこそ、みこころにかなうことではありません。教会で行われる全ての働き、礼拝も宣教も交わりも教育も奉仕もみな、神の救いのみこころに仕えることに他なりません。どんな小さな奉仕もそれは神のみこころに仕え、神のみこころを行う貴い奉仕といえます。今朝もこの礼拝の時間に3階のキッズル−ムでは、幼い子供たちの救いのために教会学校の教師たちによる奉仕が捧げられています。父なる神様のみこころに仕えるかけがえのない奉仕に召された姉妹たちが仕えています。

教会そのものがキリストのみこころを行うキリストのからだとしてこの世に存在していることを私たちはいつも心に覚えましょう。そして神様の救いのみこころに仕えることを願う者は誰でもイエス様の家族と呼ばれていることを覚え、互いへのサポ−トを忘れず感謝しましょう。

「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12:50)

主の祈りを教えてくださったイエス様は弟子達に「みこころが地でも行われますように」祈りなさいと命じました。神様のみこころが地において成就するためには、神様の救いのみこころを知り、神様の救いのみこころに仕えることを願う者がさらに多く起こされる必要があります。十字架の救いにあずかった私たちが、残りの人生を生まれながらの欲望に従って生きるのではなく、神のみこころに仕えるために生きようになることがその鍵となります。

「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」(1ペテロ4:2)

私たちが日々の生活の中で、あるいは日曜日の礼拝の中で、主の祈りを祈るたびごとに、「神のみこころのために過ごすことを願う」志しが、御聖霊によっていよいよ整えられ強められるのではないでしょうか。主の祈りは、祈る者の人生を、自分の欲と我の思いのままに生きようとする古い肉の人生から解放し、神のみこころのために生きることを願う新しい人生へと造りかえ、神のみこころの中に遣わしてくださいます。こうして、御子イエス様が父のみこころを行うために遣わされたように、私たちも、父のみこころを行うためにキリストから遣わされるのです。

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方の
みこころを行なうためです」(ヨハネ6:38)