3月の説教 3月8日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」
題「わたしたちの罪をお赦しください」
「私たちの罪をお赦しください」
(マタイ6:12)
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。
愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、
私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(第1ヨハネ4:7−11)
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
今日は、主の祈りの第5番目の祈り、「我らの罪を赦したまえ」を学びます。
アメリカのペンシルバニア州に電気やガスや車といった近代機械文明をすべて拒絶して自然と共に昔ながらの生活をする「ア−ミッシュ」と呼ばれるクリスチャン共同体の村があります。2006年10月2日にその村の学校に外部から侵入したロバ−トという男性が銃を乱射して女生徒5人を射殺し5人に重傷を負わせ自分も自殺するという悲惨な事件が起き、衝撃が全米中に走りました。さらに驚いたことは子供たちを殺された親たちが「殺人犯」を赦すと明言し、赦しを態度で示したのでした。事件が起きたその日のうちに、自殺した犯人ロバ−トの遺族である妻と子供達の家を犠牲者の家族が訪ね、「私たちはあなたを赦します」と伝えたのでした。「あなたがたは私たちよりももっと事件の犠牲者である。夫や父親を失った上に、自分の家族が凶行を行ったという恥を忍ばねばならないのだから」と慰めを語ったそうです。そして殺人犯の葬儀にも出席し妻と子供達を抱きしめたというのです。これらの出来事が「ア−ミッシュの赦し」(原文はア−ミッシュ・グレ−ス)として出版され全米のベストセラ−となり、昨年4月に日本語にも出版されました。皆さんはこの話しを聞いてどのようにお感じになりましたか。
読者の感想欄には、「9.11事件以後、世界は復讐にあふれている。そして今や宗教が怒りと復讐の代弁者になっている世の中で、ア−ミッシュの赦しは深く考えさせられます」とのことばがつづられていました。怒りと復讐が正義の名の下で繰り返されているのが現代社会の事実であると私も思います。だからこそ「キリストの罪の赦し」と「私たちクリスチャンが他の人々の罪を赦す」こととの間に乖離があってはなりません。今朝は焦点をそこに絞って学びたいと思います。
1 罪は「負債」です
「私たちの罪をおゆるしください」とルカの福音書で「罪」と訳されたことばは、マタイの福音書では「負い目」と訳されています。「負い目」ということばは、本来「返済すべき負債・借金」を指すことばです。人間が神様に対して犯した罪は、返さなければならない借金、償いきらねばならない負債とされ、すべてが清算されるまでは決して赦しがないことを意味しています。
聖書は「すべての人が罪を犯したので神からの栄誉を受けられない」(ロ−マ3:23)と指摘していますが、では一体、神様にどれぐらいの負債を負っているのでしょうか。
イエス様は「王様に1万タラントの借金をした」人物の譬え話をお語りになりました{マタイ18:25}。1タラントが労働者の1年分の給料でしたから、年収500万円として500億円になります。どう考えてももはや返済不可能な数字といえます。王様はこの男が泣きながら懇願するので深く哀れみ、その負債を全部帳消しにしてくださいました。王様自身が500億円の負債を全額埋め合わせて下さったのです。この譬え話しは、天の父なる神様が私たち人間の罪を御子キリストの十字架の死によって償わせ、すべての負債を帳消しにしてくださったという「十字架の赦し」を印象深く教えています。キリストはこの莫大な借金(罪)をご自分のいのちを十字架の上で代価として支払うことによって完全に帳消しにしてくださったのです。あなたの負債はすべて返済された!これが良き知らせなのです。
「わたしたちの罪のために罪を知らないお方を罪とされた」(2コリント5:21)
2 十字架の神の愛
「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」の中で使われている「赦しました」は過去完了形が用いられています。「すでに完全に赦しました、もはやこだわりがありません」という意味になります。「赦したいと思います」「赦すように努力してみます」「赦せたらいいなと思います」とは違い、「赦しきった」というのです。
「他の人の罪を赦したぶんだけ、私たちの罪も赦される」と説くならば福音ではありません。どれだけの人を赦せたか、その人数やレベルや努力によって私たちもまた赦されるとするならば、自力を強調する人々には受けとめやすいかもしれません。しかし、この祈りは、イエス様の弟子達に語られた教えですから、そのように赦しを救いの条件と考える視点は間違っています。聖書の順番は、「神があなた方の罪を赦してくださったから、あなたがたも赦しなさい」となっています。
「神がキリストにあってあなたがたを赦してくださったようにあなたがたも互いに赦しあいなさい」(エペソ4:32)
つまりイエス様はここでは順番をあえて入れ替えています。しかも、もう一つ、「負債を赦したように」という動詞は過去完了形が用いられていますから、すでに完全に赦しました、もはやこだわりがありませんということを意味しています。赦したいと思います、赦せるように努力してみます、赦せたらいいなと思います、とは違って、赦しきりましたと祈るようにと教えています。なぜここまで強調するのでしょうか。
私たち人間にとって人をゆるすことがどんなに難しいことかをイエス様はよく知っていたからです。
私たちが「いかに怒りや復讐にこころが捕らわれているか」、「赦しきるように祈れ」と言われて、私たちはうち砕かれるのです。「七度を七〇倍するまで赦しなさい」(マタイ18:21)と言われて私たちは肉の思いにうち砕かれるのです。ですからこの順番がどうしても必要なのです。
さらに、このように祈りなさいと言われて、くちさきだけで祈ることは易しいかもしれません。100万回でも祈れるかも知れません。しかしそのような祈りは心のこもっていない祈りであり、パリサイ人たちの偽善的な祈りと同じです。自分の生活と祈りの言葉が乖離してしまっている中身のない祈りははりぼての祈りに過ぎません。
娘を殺されたア−ミッシュの母親父親に身を置き換えれば「赦しました」と祈ることがどれほど困難なことか、苦しいことか、想像がつくと思います。
「できれば赦したいと思います」ではなく「赦しきりました」とまで求められるのですから、心の葛藤はすさまじいことと思います。しかしこの葛藤を通して私たちの祈りは、深められるのです。十字架の赦しがどれほど深い神の恵みであったかということを改めて知らされるのです。本来ならば赦せない相手を赦すことがどれほど真実な愛を必要とすることかを知らされるのです。福音の恵みの深さを、祈れば祈るほど知ることとなります。
パウロは「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり」(エペソ3:18)と祈っています。こうして、自分が赦されていることを、自分が赦すことの難しさを通して深く経験するのです。
十字架に御子をおつけになった父なる神様の愛の深さを、「父よ、彼らをおゆるし下さい」と祈られたキリストの愛を知るのです。
私たちの罪がイエス様を十字架に釘付けにしました。しかしイエス様の愛は私たちを十字架の愛に釘付けにしてくださったのです。パウロはこのように感動して告白しています。
「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリストイエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(ロマ8:39)
3 あなたの愛に生きる
「神がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦しあいなさい」(エペソ4:32)
十字架の愛は自分の負債だけを赦してもらって満足しているような利己主義をうち砕きます。神からの赦しを経験している者のしるしは他の者をゆるすことにあります。
タラントの譬えでは、1万タラントを赦された者が、自分が貸したわずか1デナリの借金を返せない者にひどい仕打ちをしたため、王様の怒りをかい、投獄されたという結びで終わっています。無限の愛を受けた者はその愛を返し続けてゆくことが求められています。伝道の力もここに隠されています。
「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない 負債を負っています。」(ロマ1:14)
赦された者は赦し続けなければなりません。いえ、ゆるされた者は赦し続けることができるのです。
「神がキリストにあってあなたがたを赦してくださったようにあなたがたも互いゆるしあいなさい」
(エペソ4:32)
「わたしたちの罪のために罪を知らないお方を罪とされた」(2コリント5:21)
「罪が消された者は幸いです」(詩32:1)を知る者は、他の人をも赦す生き方ができるのです。
韓国には「愛の爆弾」と呼ばれている牧師、ソン(孫)・ヤンオン先生がいます。ソン先生は自分の大切な息子を共産党員に殺されたのですが、その犯人を刑務所に何度も訪問し、愛をもって接し続けたそうです。はじめは心を閉ざしていた犯人も、ついにその牧師に問いかけました。
「どうしてあなたの息子を殺したこの私にこんなに良くしてくださるのですか。」。すると、牧師は答えました。「それはイエス様が私を愛して赦してくださったからだよ」と。その犯人はこの言葉を聞き、十字架の赦しの恵みを知り、悔い改めてクリスチャンとなったそうです。
日本でもミス東北に選ばれた女性がねたみから顔に薬品をかけられ重傷を負う痛ましい事件がありました。怪我から回復した彼女は逮捕された犯人に対して「私があなたにそのような罪を犯させてしまいました。ごめんなさいね」と赦しを求めたそうです。すると犯罪を犯した相手は「わたしこそあなたに赦しを求めなければならない罪を犯したのに」と泣いて悔い改めたそうです。今、この二人は東北地方にある同じ教会で平安な心をもって信仰生活を過ごしています。
これらは美談ではありません。聖霊が働くときに起きる神の美しい御わざなのです。主の祈りはこのように私たちの心の中に深く根を下ろしている「怒りと復讐」を「赦しと和解」に変えてゆく力をもっています。
あなたが「主の祈り」を祈るとき、赦せないはずの相手を赦しきるために、あなたにしかできない方法やことばを愛の御霊はきっとあなたのために備えてくださることでしょう。
あなたに注がれるキリストの愛、御霊の愛を祈り求めましょう。
神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。