3月の説教 3月29日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」
題「すべての栄光を神に」
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」(マタイ6:13)
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
(ヘブル1:3)
今日は主の祈りの最終回となります。
宗教改革者のルタ−は、朝夕の祈りに替えて「使徒信条」と「主の祈り」をささげることができるといいました。祈る人の立場や状況が異なっていても、主の祈りはすべてのクリスチャンにとって普遍的な祈りだからです。
さて、主の祈りの最後の部分は「国と力と栄えはかぎりなくなんじのものなればなり」で結ばれていますが、本来、イエス様のことばではなく後の時代の教会が付け加えたことばとされています。といってもすでに2世紀の初頭に記された教育テキスト「12使徒の教え」にはすでに加えられていましたからずいぶん古い時代から採用されていたことになります。教会の礼拝の中で「主の祈り」が祈られ、祈りの最後に「神の国、神の力、神の栄光を神に帰する」頌栄がささげられることはふさわしいことであると考えたからだと思われます。
1 祈りは究極において「神の栄光にすべてをお返しすること」です
わたしたちはそれぞれの願い事を神様におささげします。ですからこの世の宗教では「祈りが聞かれるかどうか」がたいへん重要になります。ある人が「もしこの祈りを聞いてくれなかったら、もう信じてやらないから、火つけて燃やしてやる」と神様を脅したそうです。中国の知り合いの人が「中国では、その宗教の神様、効き目がありますかと必ず最初に聞かれる」ということ話してくれました。つまり御利益が信仰の価値を決定していると言えます。
しかし、主の祈りは、この世の御利益宗教が教える祈りと大きく異なっています。クリスチャンはその祈りが答えられても答えられなくても、全てを神様のみこころにお任せし、神様を賛美し、神に栄光をお返しするからです。つまり、祈りが願い通りに聞かれることがゴ−ルではなく、祈りを通して神の栄光を賛美し崇めることがゴ−ルとなるからです。
1歴代29:10にダビデの祈りが記されています。
「ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。」
ここには、神を賛美することばが満ちています。祈りと賛美が一つに解け合っています。しかもただ単なることばの数珠つなぎではありません。1国の王が神の前にこのようにへりくだって祈り、神の前にひれ伏して礼拝をささげ、すべてはあなたのものですと賛美しているのです。
英国のエリザベス女王に仕える牧師が女王に質問したそうです。「女王様、もしキリストがあなたの前に来られたらどうしますか」と。すると女王は即座に、「頭の冠をとってキリストに前に置き、その足下にひれ伏します」と答えたそうです。
主の祈りの冒頭の「あなたの名が崇められますように」との祈りと最後の「なんじのものなればなり」とは一体となっています。主の祈りは賛美から始まり賛美で終わります。そして、このことはそのままわたしたちクリスチャンの生き方を現しているといえます。わたしたちの日々もまた祈りからはじまり祈りで終わることが求められています。
私はクリスチャンになる前は、演歌が大好きでした。酒と涙と別れと、恨みと未練が演歌の主要テ−マです。そしてそのような生き方をしていました。ア−メンもハレルヤも神様も関係がない人生を歩んでいました。口からでる言葉は、人を批判したり、悪口を言ったり、愚痴や不満ばかり。
神様の栄光を崇めるなんて知りませんし、神様に栄光をお返しすることも知りませんから、いつでも自分が中心になって自分が認められなければ思い、強い競争心を燃やしていました。
そんな私ですが、クリスチャンになってから次のことばを知りました。
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうかこの神に、 栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ロマ11:36)
すべてをご支配されすべてを導かれるのは神様お一人であり、偶然でも運でも宿命でもありません。しかも、この神様は愛をもってすべてを最善へと導かれるお方なんだとわかったのです。私は神様に安心して任せることを学ぶことができるようになりました。目先の出来事だけですぐに結論を出さなくてもいいことを知り、焦りと不安からも解放されました。
ローマ 8: 28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
2 教会はいつでもキリストにすべての栄光をお返しをします
主の祈りの最後の「限りなくなんじのものなればなり」とのことばが教会によって付け加えられたとするならば、そこには意図があったはずです。それは、教会が、教会のかしらであるイエスキリストを通して神の栄光をあらわすことを願ったためと思われます。ですから「汝」とは天の父なる神様と理解するより、救い主イエスキリストを指していると理解するほうが自然かと思います。
キリストが栄光を受けるにふさわしいお方であることは次の聖句からも理解できます。
「すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」(ユダ1:25)
「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(エペソ3:21)
「国と力と栄光は限りなく神のもの」と、もしロ−マ帝国を支配するロ−マ皇帝の前で告白したならば、そこに何が待ち受けていたでしょう。間違いなくそこには迫害が待ち受けていたことでしょう。事実、ロ−マ教会を筆頭に初代教会は、迫害の嵐の中で「国と力と栄とは主キリストのもの」と告白し、真実な礼拝をささげ、祈りぬいてきたのでした。何がその原動力となったのでしょう。
第1はゆるがないキリストへの信仰告白だったと思います。
「あなたこそ活ける神の御子、キリストです」と言ったペテロの告白は有名ですが、ヘブル人1:13−14には、「 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」と告白が記されています。この優れた信仰の告白を忘れてはならないと思います。十字架のキリストを、復活されたキリストをほめたたえましょう。
第2は御霊の働きでした。
キリストの栄光を現すのはキリストの御霊です。
「 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
(ヨハネ16:14)
人間の強さや熱意を通して御子の栄光が現されるのではなく、神の御霊のみが御子の栄光を豊かに現すのです。
「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」
この祈りを口ずさみながら、神の栄光を誉め讃え、キリストの栄光を賛美しましょう。
神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。