4月の説教 4月5日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「最も気高い祈り・ゲッセマネの祈り」

「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、
あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)

今週は受難週です。イエス様は弟子達とともに最後の晩餐をすまされ、弟子たちをつれて祈りを捧げるためにゲッセマネの園へ出かけました。聖書には印象深い祈りが多く記されていますが、その中で最も私の心をとらえるのはやはりゲッセマネの園での主イエスの祈りです。なぜならばイエス様の祈りの生活そのものがそこに映しだされているからです。

1 いつもの祈りの場所

ルカ22:39では「それからイエスはでてゆき、いつものようにオリ−ブ山に出かけ、いつもの場所に着いた」と記してあります。「いつものようにいつもの場所で」とあります。

オリ−ブ山の麓に位置するゲッセマネの園がイエス様の祈りの場所でした。オリ−ブの樹の根元でイエス様はいつも祈っておられました。伝道の力も父なる神様のみこころを求めてゆく知恵もそして十字架の道を踏み出してゆく真実な愛の力もすべてが「このいつもの祈りの場所」から生み出されました。

わたしたちは今、日常生活の中で祈りを失っているのではないでしょうか。現代人は祈りに価値を置くよりは、お金や権力や人間的な努力に価値を置いています。しかし、神のかたちに似せて創造された私たち人間は祈りを通して得られる神様との霊的な交わりなしでは真の意味では生きられない存在なのです。神様との交わりを失ってしまっているからむなしさが支配するようになるのです。祈りを回復するときに必ず、むなしさや孤独からも解放されることでしょう。

砂漠で生きる小さな昆虫たちがどのようにして生きるための水を得ているかご存じでしょうか。

太陽が昇る前に樹の葉や小石の上で、じっと動かず水滴が背中の甲羅にたまるのを静かに待ちます。そしてたまったら逆立ちをして口元に水滴を流し、その1滴の水を飲みます。太陽が昇れば水分は蒸発してしまいます。甲羅にたまった1滴の水が彼らの1日の必要な水分となるのです。

私たちも朝の祈りを大切にして1日の霊の力を受けたいと思います。いつものようにいつもの場所で祈りを通して、神様の恵みをいただきましょう。日曜日の朝ごとの礼拝もまた、あなたにとって「いつものようにいつもの場所で」の祈りとなるのです。

2 あなたの御心がなるように(39)

1)受け入れることの尊さ

イエス様はゲッセマネの園で夜を徹して祈られました。繰り返し3度も「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と、イエス様は祈られました。それほど祈りの内容は重いものでした。

この場合の「杯」とは、「十字架の死」を意味しています。「できるならば十字架の死という定めから逃れさせてください」という祈りをされたと文字通り理解して良いかと思います。十字架の処刑は当時のロ−マの法律では最も重く最も残酷な死刑方法でした。

罪を何一つ犯されなかった正しい人が、罪人呼ばわりされ、あざけられ、ののしられ十字架でむごたらしく処刑されてゆくことを、イエス様は静かに受け入れようとされているのです。しかも、社会から見放され人から捨てられることでさえ偲びがたいのに、人間のすべての罪を背負って神に捨てられ、呪われ、裁きを受けて滅ぼされようとするのですからこれほど想像を絶する苦悩はありません。そのすべてをイエス様は「あなたのみこころのままになさってください」と、まるごと受け入れようとされているのです。

今日の説教のテ−マは「世界で最も気高い祈り」としました。自らのいのちを十字架の上で捨てると
いう犠牲の愛を受け入れられたイエス様の祈りは、まさに気高い祈りと言えます。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」
(ヨハネ15:13)

世の中には受け入れがたいことがしばしば起きてきます。突然の病気、事故、災害、倒産、よもやの不合格、離婚・・・。嫌なことは避けよう避けようとわたしたちは行動し、そうならないようにと一生懸命祈ります。それでも起きてしまったことを今度は、「なぜ、どうして、何が悪かったのか」と、悩み、後悔し、自分を責めたりもします。そしてもがけばもがくほど答えのない世界へ落ち込んでゆきます。神様を抜きにしては答えが出ない世界があり、出ない答えを求めようとしても底なしの苦悩に沈んでしまうだけなのです。

そのような現実の中で、避けられないことを静かに受け入れることは、大きな人生の力の一つといえます。つらいことですがまちがいなくそれもまた人生の力なのです。

十字架を前にしてすべてを「みこころのままに」と受け入れられた、イエス様の祈りを通して、わたしたちは人生で忘れてはならない大切なレッスンを学ぶことができます。それは、受け入れるべきことは静かに受け入れるという真の勇気です。神様の中に委ねるという祈りをささげることです。

2)孤独な祈り

祈りはしばしば孤独を求めます。ゲッセマネの園でイエス様は弟子たちに一緒に祈るように求めました。しかしこのとき、弟子たちは祈りの支援をすることができず、眠りこけてしまいました。イエス様は3度、彼らの様子を見に来ましたが、彼らは眠りに勝つことができず祈ることができませんでした。

ただ一人イエス様は「孤独の中」で霊の戦いを祈り抜かれたのでした。

祈りは本来、このように一人で苦闘するという一面があります。祈祷は孤独な苦闘でもあるのです。

一人で神様の前に進み出て、神様と交わり、神様と語り合う聖なる孤独な世界です。みんなでワイワイ賑やかに祈ることはありません。イエス様は、

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:6)と、教えてくださいました。

このような孤独な祈りですが、幸いなことに、神の助けが伴います。

聖書はイエス様が祈られた時、「みつかいが天から現れてイエスを力づけた」(ルカ22:43)と記しています。神様は祈る者を、決して突き放すことはありません。孤独の中でそれでも祈り続ける者に対して御使いを通して励ましてくださいます。祈りを途中でやめてしまわないためにです。イエス様は私たちが祈り続けることができるように「執り成しの霊」としての聖霊を惜しみなく注いでくださいます。

最後まで祈り抜かせてくださるのは、神様の恵みなのです。

3 さあ行こう

「わたしの思いではなくて御心のままに」とイエス様は神様に全てを委ねきられました。御子が身代わりとなって十字架でいのちを捨てることが父なる神様の御心であるとしっかりと理解できたためでした。ご自身の死が全人類の罪を償う唯一の道であるとの確信をもたれたからでした。

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、
ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、
私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、
あなたがたは、いやされたのです」
(1ペテロ2:22−24)

イエス様は祈り終えて、「時がきました」「立ちなさい」「さあ行くのです」(46)と弟子たちに語りました。なんと力強いことばでしょう。もうそこには何の迷いもためらいもありません。雲が過ぎ去って青空が広がっているかのような印象を受けます。

祈りは必ず解決へ導いてくれます。そして、もっとも大きな祈りの答えは「さあ、行こう」との決意を導いてくださることです。大切なことを知ってほしいと私は思います。どの道を進み出そうともそれぞれの道に恐れや不安は伴うものです。不安がない道が御心の道とはいいきれません。不安をそのまま受けとめながら、それでも神の御心としてその導かれた道を進み出すことをしっかりと支えてくれるのは祈りです。

祈りに支えられた強い意志(立つ)があるところに実行力(さあ行こう)が生まれます。イエス様の強い意志を支えたのは「神の時」を信じるという信仰でした。「時が来たのです」とイエス様は言われました。永遠の神のご計画がついに時満ちて実現にいたったことをしっかりと理解したためです。

このことは宣教の初めからイエス様は自覚されていました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

時を知ったならば、いつまでも座っていてはなりません。もちろん眠りをむさぼっていてはなりません。むしろ「さあ、行くのです」と行動へと導かれることを求めましょう。

イエス様はゲッセマネの園での徹夜の祈りを終えて、立ち上がり、いよいよ十字架への道を歩み出されました。その歩みは二度と戻ることも立ち止まることもない歩みであり、全人類の罪をあがなうためにみずからのいのちを捨てるという十字架の愛の道でした。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んで
くださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、
進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ロ−マ5:6−8)

その人の意志の強さが人生を変えます。反対に人生を「ダメ」にする3つの「D」があります。「妥協 
惰性 打算」です。惰眠も加えて4つとしてもよいかもしれません。

祈りの中で御心を知り、祈りの中で時を知り、祈りの中から立ち上がり、進み出しましょう。
「さあ、行こう」とイエス様が呼びかけてくださる道には、恐れや不安も当然ながらありますが、
キリストの平安はさらに豊かなものとなるでしょう。なぜならイエス様がともに歩まれるからです。

   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。