4月の説教 4月26日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「人を失敗から立ち上がらせる祈り」


シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを
願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、
兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31−32)

今、カウンセラ−として通っている会社で月1回、幹部社員約20名との聖書の学びが始まりました。終わった後の懇親会でいろんな感想や質問がでました。宣教師ギュツラフはどうしてヨハネの福音書を最初に日本語で翻訳したのか? とか、なぜキリストは30歳まで目立った行動を取らなかったのか?とか。どうしてキリストは3年間しか伝道しなかったのか?とか、なかなかおもしろい質問が続きました。短い伝道期間に関して私は「キリストの目的は3年半かけて12人の弟子達を育てることにあったのですよ」と答えました。すると「なるほど、確かに企業にとっても人材育成はいのちですからね」とうなずいておられました。

イエス様は寝食を共にしながら12人の弟子づくりに心血を注がれ、人材育成に尽力されたことは明らかです。しかも、イエス様の人材育成の特徴は、弟子たちに「失敗を通して多くを学ぶ」ことを導かれたことにあると私は思います。

1 成功を戒めたイエス様

イエス様は弟子達が伝道に派遣され、良い結果を出して喜びいさんで報告に来た時には、きびしくいさめました。

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)

イエス様は弟子達の働きが成功し、有頂天になったり浮ついた喜びに流されることをいさめました。なぜならばそのような喜びは自己満足や高ぶりに変質しやすいからです。「成果や結果」だけにとらわれることなく、もっと本質的な目的、つまり神の子供とされ天に名前が記されているという「救いの恵み」を喜びとし、託された働きに仕えることの重要性をイエス様は重視されました。

2 失敗を多く経験させたイエス様

反対にイエス様は弟子達が失敗をした時ほど、丁寧にフォロ−をされ、励まし、勇気づけました。

そもそもイエス様はお弟子達に多くの失敗を許しておられることに着目したいと思います。ペテロに限ってみても、みごとなほど人間的な失敗を繰り返しています。

イエス様がペテロに祈ることを求めましたが他の弟子たち同様ぐっすりと眠り込んでしまいました。ユダがロ−マ兵を連れてイエス様をとらえにきた時、激昂したペテロは短剣をぬいて大祭司のしもべマルコスに斬りかかり、彼の耳を切り落としてしまいました。さらに、「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(33)と息巻いたペテロをイエス様は「きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(34)と諭しました。

そして事実、イエス様が逮捕された時、ペテロは大祭司の中庭までひっそり後をつけて忍び込んだものの、女中から「この人も、イエスといっしょにいました。私はあなたを見た」と指さされたときに、震え上がり「私は知らない」(57)と3度も重ねてイエス様の弟子であることを否んでしまいました。

静かにイエス様がペテロを振り返った時、「ペテロは外に出て激しく泣いた」(22:62)とあります。自分の情けなさ、ふがいなさに涙しました。「言ってること」と「やってること」のギャップに心の中がバラバラになってしまったことでしょう。ペテロは「イエス様を知らないと」否んでしまった自分の行為そのものや自分自身の情けない心根に号泣したばかりでなく、イエス様がそんな自分をとうの昔に知っておられながら、それでも「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:32)と語りかけてくださったイエス様の愛にふれて泣いたのだと思います。

3 失敗から身をもって学ぶように見守ったイエス様

イエス様は弟子たちに失敗を通して多くの学びをさせました。これがイエス様の人材育成の鍵となる考えでした。イエス様の祈りはここにかかっていました。

失敗はしばしば成功することよりも大きな価値もたらす可能性があります。失敗することは決して「悪いこと」ではありません。失敗もまた人生のスパイスのようなものであり必要なものといえるからです。

最近「心を勇気づける魔法の言葉」というような本がよく売れていると聞きました。皆さんは、失敗に関して自分を励ます「魔法のことば」をもっていますか。聖書のことはいつでも私にとっては新しい力となる魔法のことばですが、ロバ−ト・シュ−ラ−牧師の次のような言葉も私は心に留めてときおり口にしています。

1.失敗はあなたが恥をかいたことを意味しない。それが意味していることはあなたが、進んでこころみたことだ。

2.失敗はあなたが何も成し遂げなかったことを意味しない。それはあなたが何かを学んだということである。

3.失敗はあなたが何もしなかったことを意味しない。あなたが勇気をもってチャレンジしたことを意味する。

4.失敗は神があなたを見捨てたことを意味しない。それが意味しているのは、神はもっと良い考えをお持ちだということである。

さらに、「いろいろなことをする人は多くのあやまちをおかすであろう。しかし何もしなかったという最大の過ちだけはおかさないはずだ」というベンジャミン・フランクリンのことばも印象的です。

まだ若い頃、神学校の牧会学で結婚式の説教演習のクラスがありました。アメリカでは結婚式で次のような祈りが司式者である牧師によって祈られることを学びました。

「彼らがやさしい心を保つために、必要な涙を与えてください。あわれみ深い者となるために
 十分な痛みと、あなたにあってしっかりと握りあった手を保つために、必要な失敗を、
 そして二人に私たちは神とともにあゆんでいるのだと確信させるために必要な成功を
 与えてください」

この祈りを知ったとき私は感動を覚えました。日本でよく聞かれるような現実離れしたおめでたいことばかりを並べ立てる祝辞とは異なり、現実をしっかりと見据えた上で、若い二人が人生を共にパ−トナ−として分かち合って生きるために必要な涙と痛みを与えてください、必要な失敗をも与えてください、神様がともにおられることを確信できるために必要な成功をも与えてくださいと祈る祈りは感動的でした。このような祈りに支えられて若い二人が人生を歩みだしてゆくことはなんとすばらしいことでしょうか。私はキリスト教結婚式の司式を依頼されたときは必ずこの祈りをするように心掛けています。

失敗そのものは人生のスパイスのようなものであり必要なものです。しかし、「また失敗するかも知れない」という「想像上の恐怖心」が心を縛って萎縮させてしまうことを注意しなければなりません。想像上の恐怖心が考えを否定的にしてしまい、否定的な考えは否定的な感情に陥らせ、負のスパイラルへと落とし込もうとするからです。困難が予測されても目標をかかげて前進してゆく実行力を奪い取ることになります。その結果、石橋を叩いて渡るどころか石橋をたたいて壊してしまうことになりかねません。雨降って地固まるではなく雨降って地ずぶずぶ状態になりかねません。

聖書にこのような真理のことばがあります。想像上の不安や臆する霊ではなくキリストの御霊に満たされましょう。

「神がくださったのは臆する霊ではなく、愛と力と慎みの霊です」(2テモテ1:7)

さらに私たちには魔法のことばだけではなく「失敗から立ち上がらせてくださる」お方の存在と祈りがあることを知っています。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
       だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(222:32)

ここには3重のイエス様の愛の祈りがあると思います。

イエス様は何よりも私たちの信仰を支えて守ってくださっています。信仰は神様からの最高の贈り物です。信仰がある限りどんな失敗からもきっと立ち直ることができます。信仰がある限りどんな大きな試練に直面してもきっとまた歩き出すことができます。イエス様はペテロの未来を見つめてくださっていました。今、失敗したペテロは明日もまた失敗するだろうとは見ておられません。たとえ今日失敗したとしても明日は立ち直って兄弟達を励ましているペテロをイエス様は見ておられます。そして、失敗を有益な価値あるものとしてくださいます。牧師として指導者としてペテロは「弱さと痛みと涙を知る人物」となり、その弱さを支え、その失敗を益としてくださるキリストの恵みの大きさを自らが深く体験することができました。ですから兄弟姉妹を心から励ますことができる良き羊飼いとなることができたのです。

ペテロは後に、教会に宛てて書いた手紙の中で、

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(1ペテロ1:6−9)

「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(1ペテロ3:8−9)

と、記しています。ここにはあの失敗から立ち直り、失敗を通してキリストの愛を学び、大きく豊かに成長したペテロがいます。失敗は決してペテロの人生の汚点ではなく、恥でもありませんでした。彼が成長するための必要な痛みであり涙だったのです。キリストの祈りの中に包まれた失敗でした。

繰り返しますが、何もしなければ何も失敗しません。しかし失敗をおそれて何もしなければ、何もしなかったという最大の失敗を犯すことを意味します。真の意味で生きるに値する人生を歩むためには失敗をおそれないでチャレンジをしなければなりません。失敗を通して私たちを成長させようとしてくださるイエス様がおられるのですから、臆する霊にとらえられていてはなりません。

私たちの歩みに失敗はつきものでしょう。悔い改めるべきことは悔い改め、失敗を通して大きく成長させてくださるイエス様にますます信頼をおきましょう。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
       だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(222:32)


   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。