6月の説教 6月14日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「神の武具としての祈り」

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。救いの兜ををかぶり、   また御霊の与える剣である神の言葉を受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなとき   に御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、     忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:10、 17−18)

あるビジネスマンが疲れて遠い町へ旅に出ました。町のことを良く知っているタクシ−の運転手に「この町で一番静かなところへ連れて行ってほしい」と頼みました。公園、静かな湖畔、森、いろいろ静かな場所を彼は期待していました。ところが運転手が彼を案内した場所は、「墓地」でした。そして運転手はこう言いました。「お客さん、この世の中じゃ、しずかな場所といえばお墓の中、土の下しかありませんよ」と。

私たちの人生は考えれば、どこでも「戦い」の連続といえます。職場も学校も家庭の中にも戦いがあります。大人ばかりでなく小さな子供でさえ家庭の中で戦いを始めます。私の友人は、赤ちゃんがお腹にできたとたん4歳の娘さんから「いらない!返してきて」と言われたそうです。お母さんをめぐる独占戦争がもう赤ちゃんが生まれる前からはじまっているわけです。

パウロはエペソの教会へ手紙を書き送るにあたって、結びのことばとして「最後に言う、主にあって、その大能の力によって強められなさい。」と強調しました。なぜなら、信仰生活もまた「戦いの場」といえるからです。その上、私たち人間は、弱く無力な存在です。欲に弱く、罪に敗北し、サタンに対してまったく無力といえます。だからこそパウロは「主にあって強められなさい」と呼びかけています。

「主にあって強められなさい」とは「神様によって私たちが強められる」ことを意味しますが、「神様の中において」という限定条件がそこにはついています。つまり、神様からはずれては、力を失ってしまうことを意味します。私たちが強くなるのではなく、強いのは神様なのですから、神様の中にいなければ、私たちはすぐに破れてしまうことを意味します。

聖書によれば、私たちの最大の敵はサタンと呼ばれています。私たちがきよい生活を歩むためには、人間の欲や罪と戦わねばならないという教えは一般の人にも理解できるところですが、「サタンと戦わねばならない」と聞くとまるで漫画の世界へ引き込まれるような違和感を覚える求道者も多いかもしれません。しかし、信仰の世界では、人間の欲を刺激し、罪を支配する悪魔の存在を抜きに考えることはできません。パウロははっきりとこの地上の世界は、神の聖い力と悪魔のもつ闇の力の対決の場であることを指摘しています。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(12)

サタンは神に逆らって追放された堕落した天使であることを聖書は教えており、サタンは人間よりはるかにまさる力を有しています。サタンは策略を巡らし、私たちの信仰をゆさぶってきます。教会に攻撃をかけてきます。信徒の交わりを断ち切ろうとしてきます。人を高ぶらせ自分と同じ滅びの道を歩ませようとします。「神などいない!」という無神論という名の宗教を広げる有能な宣伝者です。そのうえ、一方では、あらゆるいかがわしい宗教の総本山に君臨して悪意に満ちた犯罪的な宗教産業を繰り広げています。ラブホテルを経営し10数億円もの脱税をしている宗教団体や高額な印鑑や壺を弱みにつけ込んで売りつけるような霊感商法が後を絶たず毎年のように摘発されています。

巧妙なサタンの策略に対して私たちはしっかり「予防対策」を立てることが必要です。パウロは悪魔の策力に対する「予防対策」を書き送っています。

予防対策は、まず「立ち上がる」(14)ことからはじまります。立ち上がるとは「決意表明」を指します。座ったままでは戦えません。準備ができません。まずしっかり「立ち上げる」ことが大事です。立ち上がったならば、次に神様が用意される7つの武具をしっかり身につけることが奨励されています。そうでなければサタンの策略に対して戦えないからです。

神の武具の第1は、「真理の帯」です。

帯は衣服を束ねます。ボタンやファスナ−のない時代、人々の服は何枚もの着物を重ねてベルトでしめましたから、もし帯がゆるんでしまうと服がほどけてしまいます。ですからしっかり帯をしめることが必要です。下着を帯で締めた上に鎧を身にまといますから、帯は外から見えません。隠れていますが帯はもっとも重要なのです。

教会はいつの時代も信仰の真理、福音の真理を守って継承してきました。信仰の真理とは「教理」を指しています。宗教改革者のカルバンは「我々が福音の教理によって訓練された時に、初めて正しくこの世を歩くことができる」と言いました。教理の学びは礼拝ではなかなかしにくいので聖書研究会や個人的な学びを深めていただくしかありません。聖書が教える重要な基本的教理、なによりも「キリストの十字架による救い」という福音の救済論について、さらに福音的な教会論について良い本を一冊はじっくり読んでいただきたいと思います。真理の帯をしっかりしめてください。

神の武具の第2は、「正義の胸当」です。

胸当ては心臓を守る武具です。心臓は人間の体の中で最も重要な臓器です。正義とは神様との正しい関係をさします。義に生きるとは、神様との正しい関係を築き信仰を保持し、敬虔な生活を歩むことといえます。神様との正しい関係が築かれることは幸いな人生の始まりです。そこには必ず「心の平安」が伴います。ストレスがかかると心臓発作や不整脈や過換気症状などが起こりますが、同様に私たちが悪を行うとき、心の平安は失われ不安に襲われます。神様との正しい関係が破れては心の安らぎや真の幸福を求めても空しい結果に終わってしまいます。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

神の武具の第3は、「福音の靴」です。

立ってしっかり歩くために、あるいは遠くまで歩くために、あるいは戦場のような危険な場所で戦うためには、足を守る靴をはかなければなりません。サタンがもっとも恐れるものの一つは、神の救いのご計画である福音が人々に知らされてゆく宣教の働きです。なぜならば、福音が宣べ伝えられるところでは、サタンは敗北してゆかざるをえないからです。サタンが耳を塞ぎたい言葉は、イエス様の宣教命令です。出て行かせなくすることがサタンの本心でありそのために靴を奪おうとします。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)

福音の靴を履かせないで、裸足のままの状態に留めおこうとするのです。

「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」(ロ−マ10:15)

福音の靴を履いて、一人でも多くの人々に「キリストの福音」を紹介しようではありませんか。

神の武具の第4は、「信仰の大盾」です。

盾には小盾と大盾があります。大盾はロ−マ軍が最も得意とした武具と言われています。大盾はいろいろ組み合わせて用います。敵が火矢を放つときに大盾で大きなド−ムを形成して頭上から降り注ぐ矢を防御します。騎馬兵がつっこんでくる場合にも固い丸いド−ムを作って馬の突進を防ぎ、馬を転倒させます。敵兵を盾で壁をつくり迷路へ誘い込むこともできます。丸く一丸となってじわりと突き進んで敵陣に接近する「生きた戦車」にも変身します。あらゆる形態に自由に変化させ用いますから「盾」はそのまま「攻撃用の武具」に転化させることができます。大盾は個人技というよりはむしろ集団技術です。

ですから訓練とチ−ムワ−クが必要です。信仰はもっているだけではなく活用しなければなりません。今の時代は、信仰を働かせることが求められるのです。それは丁度人間の「脳」と同じです。脳はもっているだけではいいというわけではありません。つかえばつかうほど減るどころか活性化しますます賢くなりますが、使わなければどんどん退化萎縮します。パウロが強調したのは「信仰を働かす」ことではなかったでしょうか。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)

神の武具の第5は、「救いの兜」です。

心臓の次に重要な体の臓器は脳です。心臓の次には頭を守らなければなりません。兜やヘルメットは頭を守る武具です。信仰生活で重要なのは「キリストの救い」をしっかりと理解し確信をもっているかどうかだと私は思います。

「あなたはキリストにあって救いを受けています」と問いかけられて「はい。ア−メン」と喜びをもって答えることができているでしょうか。「う−ん、救われているか否か、今ひとつわからない」と悩んではいませんか。「救われているか否か、天国へ行ってみないとわからない」などとあいまいなままではありませんか。兜でだいじなことは「緒を締める」ことです。受けた救いをしっかりと理性においても確認し、ゆるがない確信という兜の緒を締めているでしょうか。

キリストにあってあなたの罪は赦されています。
キリストにあってあなたはすでに死からいのちに移されています。
キリストにあってあなたは彼の御霊を心の中に宿しています。
キリストにあってあなたの名はすでに天に記されています。

これらの神様の約束をあなたは一つ一つみことばに基づいて確信されているでしょうか。あなたの生活状況やあなたの感情といった主観的なものではなく、「聖書のことば」という客観性に基づいてあなたは知的にも説明し、確信を語ることができるでしょうか。

神の武具の第6は、「御霊の剣」です。

パウロは、御霊の剣とは神のことばであると明言しています。この剣は「短剣」を意味しており、佐々木小次郎が背中に背負うような長い刀ではありません。 抜くのに一苦労するようなものではありません。いつでもさっと抜き出せる短い剣であり、御霊によってさっと導かれる神のことばを意味します。す。「あのみことばどこだったかな・・え−と」と抜き出せなくて困ってしまう場合がないでしょうか。御霊に導かれて神の言葉、キリストの言葉を心に豊かに蓄えましょう。

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)

神の武具の第7は、「御霊による祈り」です。

神の武具の最後は「祈り」です。サタンの策略との戦いは、最後に「祈り」の戦いとなります。イエス様は病気の息子の癒しを求めた父親に対して「このたぐいは祈りによらなければならない」(マルコ9:29)といいました。祈りに寄らなければ解決しないものもあることをこのことばは教えています。祈ることだけが問題解決の唯一の道であることも確かにあるのです。もしそうであるならば、御霊に導かれてひたすら祈るしかありません。祈りの中に答えがおかれているならば祈り込むことが最善の解決に至る道となります。

御霊による祈りには16節にあるように「どんなときにも」と「忍耐の限りを尽くして」が伴います。人間的な祈りは、思い出したように祈り、すぐにあきらめて祈ることをやめてしまったり、何を祈ったかすら覚えていないようなことが起こります。

「どんな状況下においても」「どんな時にもたえず」祈り続けることが求められます。興味深いことに、祈り以外の他の武具は、脱ぐときやはずす時が必ずあります。兜をつけたままシャワ−を浴びることはできません。靴はいて寝ることもありません。けれども「祈り」はいつでもまとうことができる唯一の武具です。いつでも働かすことができる唯一最大の武具なのです。

「主よ、いのることを教えてください」との弟子たちの求めに応じてイエス様は「祈り」を教えてくださいました。「主の祈り」という従来の「ユダヤ教」の祈りではない、クリスチャンの祈り、教会の祈りをイエス様は教えてくださいました。弟子達はイエス様から「主の祈り」のことばだけではなく「祈ること」そのものを学びました。朝、一人で祈っておられるイエス様の姿を見、ゲッセマネの園で血の汗を流して徹夜で祈るイエス様の姿を見、十字架の上で罪人を赦すイエス様の赦しの祈りを見ました。イエス様に学びながら弟子達は「祈る」ことを学び身につけてゆきました。

あなたは今年の1月から始まった礼拝説教の「祈りのシリ−ズ」で何を学びましたか。どのようにあなたの祈りの生活は変化しましたか。

「また、みことばを実行する人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

祈りがあなたの生活の中で霊的な力となってあなたと神様との関係をいっそう豊かなものとしてくださるようにとお祈りいたします。


神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。