2009年度説教 8月2日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」(5)


題「家族への愛と伝道」

「さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37−38)


序 先週は12使徒を宣教に送り出すに当たってのイエス様の心得を学びました。最初のイエス様の派遣されてゆく弟子達への教えはユダヤ教という既存の宗教権力やロ−マ皇帝と総督という異教の政治権力からの迫害を恐れず、人を恐れず、キリストを告白することでした。
「しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、              そんな者は知らないと言います。」(29)

今週はその続きで、家族との軋轢を超えて伝道を進めることに焦点があてられています。

「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」
                (マタイ10:30)

「なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
               (マタイ10:37−38)

かなり大胆なそして誤解を招きかねない強烈なことばでイエス様は語りかけておられますから、イエス様の真意をしっかり理解する必要があります。もし表面的なことばだけを受けとめていたら、イエス様はまるで家族の敵、家庭の崩壊者となってしまいかねません。

1 家族を最も愛されたイエス様が言われたことばである

イエス様は幼い弟たちや妹6人を養うために、父に代わって石大工の重労働に励み家計を支えてきました。30歳になるまでは家族を養い育てるためにナザレの村で石大工をしながら地道に働き続けました。伝道の生涯に立ち上がられた時にも、最初の奇跡をカナの村の結婚式で行われ、台所の瓶の中の水を最高級の葡萄酒に変えて若い夫婦の門出を祝福されました。イエス様が結婚式を祝福し家庭を祝福しておられることのなによりのしるしです。さらに十字架の死を前にして老いた母マリヤを弟子ヨハネに託しました。

「それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、
    この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:27)

このように家族を大切にされたイエス様だからこそ、やがてイエス様の弟たちも信仰を持ち、新しい神の家族の一員となり、中心的な弟子の一人になってゆきました。家庭を顧みない、無責任でいい加減な人が、「家族の者がその人の敵となります」と、語ったわけではありません。モ−セの戒めを全うされたイエス様は、なによりも「「あなたの父母を敬いなさい」(出20:12)との教えを尊ばれたことはいうまでもありません

2 家族は「心配から」反対する

ユダヤ教指導者からの迫害やロ−マ皇帝によるキリスト教弾圧は憎しみや敵意に基づいた迫害でした。しかし、家族の場合は敵意や憎しみや偏見からの迫害というよりは多くは「心配」から反対しているのが実情ではないでしょうか。

その典型例としてイエス様の家族でさえ、イエス様が伝道の生涯に立ち上がられたときに、家族そろって引き留めにきた(マタイ12:46)という出来事が記されています。弟子達のほうが気遣ってその対応に苦慮したことがわかります。突然、家業を捨て「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と伝道者の生涯へと進み出したイエス様を、たいへん心配して母マリヤと弟、妹まで連れだってイエス様を連れ戻しに来たからです。しかし、考えればこれはごく自然な家族としての健康な反応でもあります。

人間の集団は変化よりは安定を好む傾向があります。何か新しいことがおきることを避けて従来通りの安定を求めます。いままでお互いがそれなりに安定して結びあわされていた中から誰かがほどけてゆくことに、たとえそれが自立・独立の道であっても、不安や心配を感じ、もとに戻そうと働きかけてくるものです。

家族の反対は個人的なうらみつらみというよりは「もとに戻そうとする復元力」が、反対や迫害という形で生じる場合が多いといえます。良きに付け悪しきに付け、家族の絆が強いほどその復元力も強いものです。良きというのは「家族の情愛」が深い場合です。結婚式で嫁いでゆく娘に対して父親が号泣する場合があります。悪しきにつけとは「家の因習が強い」場合や中心的な人物の「支配力が強い」場合などの対立などを考えることができると思います。いわゆる家のしきたりや親の支配力が強くて自律的なキリスト教信仰を許さないといったケ−スが考えられます。

イエス様は自分の家族が引き戻しに来た時、新しい霊の家族について語りました。

「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12:50)

イエス様はここで家族制度や家族関係を決して否定しているわけではありません。むしろ新しい家族関係を提示されたのでした。自分の親兄弟という古い家族関係から、新しい信仰による家族関係の中に導き入れようとされているのです。新しい家族、霊の家族、永遠の神の家族とも呼ばれていますが、キリストによる新しい創造を意味します。ですから、古い家族関係の中に安定を見いだそうとするのでなく、新しい家族関係の中に真の安定をみいだすように、ご自分の家族でさえも招いておられるのです。

3 家族の反対を乗り越える

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(37−38)

イエス様は「ここで父や母、息子、娘を愛するよりも私を愛せよ」と求めています。さきほども言いましたが、家族関係には自立してゆく者に対して「もとに戻そうとする」古い力が働きます。そしてその復元力に抵抗して自らが選択した道を歩もうとする者は、心の中で家族に対する「罪悪感」を覚えてしまいがちです。つまり家族への「裏切りもの」意識に悩むことがあるのです。「家族を見捨てたのじゃないのかな」という思いで悩むことも生じてきます。家族の中に働く「復元力」はそうとう手強い存在です。

そこで、考え方を思い切って転換して、「360度一回転」して古い家族関係を新しい家族関係にキリストにあって再創造するという「ビジョン」をもつことが必要だと私は思います。古い家族関係に戻そうとする復元力に屈せず、家族を「真に愛する」ことに徹することが求められます。家族を愛することは古い家族関係を愛することとは異なります。真に愛するべきは新しい家庭です。その新しい家庭を生み出すための「産みの苦しみ」として家族の反対を受けとめることが大切です。

家族の反対を乗り越えるもう一つの点は、私たちが「家族の不安」に巻き込まれ「同情」「同感」して、信仰の不徹底に陥ってしまうことです。大切なことは、家族がキリスト教の信仰に対して抱える不安を受けとめ、十分に「説明」を果たし「安心感」を与えることです。何を不安に思っているのかを良く「聴く」ことです。キリスト教教理を教え込もうとするのでなく、不安を抱えて反対している家族の話しをよく聴いて不安がやわらぐように丁寧に説明することです。

38節では、家族を愛する「愛」も、イエス様を愛する「愛」も、神の愛を現す「アガペ−」ではなく一般的な情愛や友情を現す「フィレオ」というギリシャが用いられています。神様への愛も家族への愛も同じ愛に生きることを指しています。

信仰に健全性が欠けると一般感覚から欠け離れた独りよがりな極端な言動がおきてきます。

キリスト教新興宗教の一つで輸血などを禁じるあるキリスト教グル−プでは、子供をしつけるのに聖書にそう書いてあるからと「ムチ」を使用するそうです。けれども実態は、ムチではなく「鉄制の定規」で叩いたり、自分の手がはれて痛いからと「スリッパ」でたたく信者もいることを私は見聞きしています。そうした両親に育てられた子供達はそれを「虐待」経験、心の傷として持っている場合も少なくありません。

信仰という名の下で「極端化」に走ることは避けなければなりません。イエス様は私を愛する愛も家族を愛する愛も同じであり、真の家族の新創造が達成されるために、引き戻しの力に屈しないで、私を愛し続け、私に従いなさいと呼びかけておられるのです。真の意味での新しい家族関係を築くまでには、時間がかかることは避けられません。復元力という反対勢力に対抗するためにはかなり悪戦苦闘する場合も多いかと思います。しかしその苦悩はイエス様が言われるように「私の十字架」としてしっかり負わせていただきましょう。なぜならば、真の新しい家族関係を創造するための苦闘だからです。

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
(37−38)

4 最後に「喜び」と希望を!

「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(10:40−42)

イエス様の弟子を受け入れ、イエス様の弟子に水1杯でも飲ませる者は「報いに漏れることはない」と、イエス様ははっきり約束しておられます。イエス様の弟子たちに行ったどんな小さな奉仕でも、それはすべて神様に覚えられているのです。

あなたの家族があなたの信仰に反対しているとしても、あなたの証しやあなたの言葉やあなたの行動を頭からすべて否定してばかりで「全く受けとめてくれなかった」ことばかりでしょうか。広い意味で教会の働きに協力してくれたことが本当に「皆無」と言えるでしょうか。

「信仰を非難ばかりすると責めるけれど、それなりに協力してやってるじゃないか、黙って見守っているじゃないか、少々の不自由は我慢してやっているじゃないか」、そんな声なき声がちゃんと届いているでしょうか。むしろ積極的に「感謝」をことばを口にしているでしょうか。

「教会から帰って来たら主人はパチンコにばかり行ってる」と主人に腹を立てる前に、ご主人はあなたが帰ってくるまではパチンコをして時間をつぶしているだけという見方は成り立たないでしょうか。「お墓はどうするんだ」と怒る主人のことばの裏に「お墓の中でも一緒に居たいんだ」という、切なる声が聞こえてこないでしょうか。

「この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は            決して報いに漏れることはありません。」(10:42)

もっと積極的に「ありがとう。私の信仰を大事にする思いを受けとめて隠れたところで協力してくれていることをうれしく思うわ。ちいさな奉仕であっても報いにもれることはないと聖書には書いてあるわ」と、声をかけることは、どんな伝道にもまさる伝道であり、証しではないでしょうか。

次のことばもまた新しい家庭の創造を祈るあなたの励ましとなるのではないでしょうか。

:なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」(1コリ7:14)

神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。