2009年度説教 8月9日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」(6)


題「ここにもってきなさい」

「 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」(マタイ14:17−18)

今日の聖書の箇所は、イエス様がたった5つのパンと2匹の魚で、5000人以上の人々を養われたという有名な奇跡物語です。すべての福音者に記されているのはこの奇跡だけですから、この出来事は弟子達にとって、特別な意味を持つ忘れられない感動的な出来事であったと思われます。

バプテスマのヨハネがヘロデ王によって殺されたというニュ−スが届きました。イエス様は一人祈るために人里離れた場所に行こうと船でガリラヤ湖を北上されました。ところが多くの群衆が岸沿いにイエス様の乗った船を追いかけていました。そこでイエス様は船を岸に着け、彼らを教えはじめ、また病を癒されました。それは自己よりも他者を思い図るイエス様の慈愛・あわれみの深さからでる行為でした。すっかり日も暮れ夕食の時間も過ぎてしまいました。弟子達はイエス様に「群衆を解散させて家に帰らせ食事をするように命じてください」と願いました。するとイエス様は「あなたがたが食べるものを与えなさい」と命じました。弟子達は困ってしまいました。

これは弟子達の訓練のためにイエス様が出された課題でありチャレンジでした。ヨハネの福音書ではこの様子がさらに詳しく記されています。地元ベッサイダ出身のピリピは周囲の様子を熟知していましたがたとえ地域の店でパンを買い占めても不足すると計算し、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」(ヨハネ6:8)とイエス様に答えました。1デナリは労働者の1日分の賃金額ですから、今日流に言えば「200万円でコンビニのパンを買い占めても足りません」という返事になるかと思います。するとそのやりとりを聴いていた少年が、母親が作ってくれた「パンと小魚のお弁当」を弟子のアンデレに差し出しました。アンデレは子供が気軽にコンタクトをとりやすい気さくな性質だったのでしょう。アンデレはイエス様のもとにその少年を連れて来ましたが、「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(9)と悲観的な発言をしました。

イエス様は「すでにご自分がなさろうとしていることをご存じでした」(6)。弟子達の信仰を試されたのです。残念ながらピリポもアンデレも合格できませんでした。弟子達はどうしたらいいのかわからずうろたえ困惑するばかりでした。自分たちで何とか解決方法を考えなければならないと思ったからです。どうしたらいいのわからずたいへん混乱している弟子たちの姿がここに見られます。

するとイエス様はアンデレに少年の弁当を指して「それをここへ持ってきなさい」と言われました。

1 ここへもってきなさい

「ここへ」というのは「イエス様のもとへ」、「イエス様の御手に」という意味です。まさにこれこそがイエス様が求めておられた答えでした。弟子たちはまだ気づいていませんでした。「ここに」すなわち「イエス様のもとに」解決があることをまだ信じることができなかったのです不信仰とはイエス様のもとに問題をもってこず、自分の力でなんとか解決しようとする努力を指します。信仰とはすべての問題を「イエス様のもとへ」信仰をもって携えてくることを意味します。

すでに多くの奇跡を目撃し驚嘆したにもかかわらず弟子達はまだ気づきませんでした。奇跡そのものに目が奪われ、奇跡を起こすことができるイエス様に目を留めることができなかったからといえます。不信仰とはイエス様のもとに問題をもってこず、自分の力でなんとか解決しようとする努力を指します。困難な課題こそ、イエス様が神のひとり子であり全能者であり救い主であることを信じ、その信仰に立って「イエス様のもとにもってくる」ことを始まりとしなければなりません。神様の祝福はここから始まるからです。

イエス様はそのパンと魚を少年から受け取りました。たとえ、わずかなものでもイエス様の手に渡すことによって、そのパンと魚が5000人以上の人々に奇跡的に配られ、彼らの必要を満たす、祝福のもととなったのでした。

イエス様が弟子たちに「あなたがたが食べ物を与えなさい」と弟子たちに命じた時、ピリポは「たとえ、〜があっても足りません」と答え、アンデレも「ここに〜がありますがこれでは役に立ちません」とどちらも否定的に応答しました。私たちもまた困難な状況の中で「でも」「しかし」を連発しながら不信仰なつぶやきを口にしがちです。いかがでしょうか。

信仰とは、イエス様の手に課題や問題や悩み事のすべてを渡し「あなたならすばらしいことをきっとしてくださいます」と期待し祈ることです。「でも、しかし」のつぶやきから「あなたなら可能です」「あなたなら最善をしてくださいます」「あなたならすばらしいことがおできになります」と信じ、イエス様のもとに課題をもってきて祈ることです。

「でも、しかし」という不信仰なことばをとめ、「イエス様、あなたなら最善をなさることができます。私はあなたを信じます」という信仰のことばを互いに語り合うことが大切です。

イエス様は多くの人生の悩みを抱えて苦しむ人々に対して、「私のもとに来なさい」と招きました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:28−29)

イエス様は「私のもとに来なさい。私から学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます」とはっきり約束されました。すべては「イエス様のもとに来る」ことから始まります。

クリスチャンが悩みをもった人々と出会い、伝道する時に、その人の問題をなんとか自分が解決してあげようと思い、行動しがちではないでしょうか。伝道とは、イエス様のもとへその人を導くこと以外のなにものでもありません。その人がイエス様の招きに自ら応じ、イエス様のもとに来て、イエス様にうち明け、イエス様に信頼し、イエス様に祈ることなくして真の解決も援助も存在しないと私は思います。

私はカウンセラ−として多くの人々の悩みを聴いたり相談にのったりしています。ときおり大きな壁や限界を感じることがあります。それは人間的な援助には限界があり、カウンセリングを受けて気持ちや考え方の整理ができたとしても、なお本人の中に自分の力の限界があるからです。人は完全な存在ではないのです。何もかも解決できると考えるのは錯覚にすぎません。できないこともあれば、無力無能なことも多くあります。私たちはもっともっと神様の前に謙虚にならなければなりません。自分の力を過信せず、謙虚になって神様の力を仰ぎ、助け主であるイエス様に目を向けたいものです。

「ここへもって来なさい」なんと幸いなことばでしょう。

重荷をもって苦労している者もイエス様のもとに来て荷を下ろすことができ、魂のやすらぎを得ることができます。わずかなものしかなくて困り果てている者も「ここへ持ってきなさい」と招いてくださるイエス様のもとに来てイエス様に手渡すならば、豊かな祝福を得ることができます。

2 弟子たちに命じて群衆を座らせる

イエス様は群衆を草の上に座らせるように弟子たちに指示しました。マルコ6:40では「50人ずつ、あるいは100人ずつ座らせました」と記してあります。 

5000人以上の人々を100人づつにすれば50組できる計算になります。12弟子がめいめい5組づつ担当すれば良いことになります。イエス様は、5000人以上の群衆に秩序やまとまりを与え、互いに顔を見合わせることができ、落ち着くことができ、他の人にも配慮ができるように、このように小さなグル−プに分けました。

混乱や無秩序の中では神様のみわざが行われません。パンを無限に分け与えるのはイエス様だけですが、神の恵みを受ける会衆に落ち着きと秩序をもたらすのは弟子たちに託された奉仕でした。それはイエス様のなさる奇跡的な神の御わざを、静かに期待し待ち望む備えのためでもあったのです。パンの残りを集めたら12の籠に一杯になったとありますが、大混乱の中では余ったパンはあちこちに捨てられだけです。騒然とした混乱のなかではせっかくの神様の恵みも捨てられてしまいかねません。神の恵みをけっしてムダにしないためにもそこには秩序が必要なのです。

神の恵みの御わざは、大興奮や混乱の中でおきるものではありません。神の恵みはむしろ静かな待ち望みの中で、静かにおき、そして静かに広がるのです。世の中の多くの新興宗教の教祖や啓発セミナ−のカリスマ講師と呼ばれる人たちが群集心理を巧みに操り、独自の熱狂的な興奮状態を演出して、人々の感情をあおり立て、まやかしのアッピ−ルをする姿とはまったく異なります。

神のことばを聴き、聖霊の豊かな働きかけを待ち望む礼拝においてもこのことが真に求められていると思います。がさついた礼拝、落ち着きのない礼拝、人工的にまるでショ−でも見ているかのように盛り上げる礼拝ではなく、聖性と秩序が保たれた礼拝をささげることができるように私たちも奉仕したいと願っています。神のことばを聴くために集う会衆が、聖なる秩序と静かな待ち望みの雰囲気と祈りをもって神様の臨在を待ち望むために、精一杯の奉仕をささげてゆきたいと願います。

イエス様がなさった5000人の人々へのパンの給食は、4つの福音書のすべてに記されているただ一つの奇跡です。後の時代にこの奇跡は「完成した神の国での晩餐」を意味し、教会で執行される「聖餐」を象徴する出来事として深く結び付けられました。ヨハネ福音書ではその傾向がはっきりと出ています。礼拝においてクリスチャンはキリストのことばをいのちのパンとしていただきます。

「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

旧約の民イエスラエルが荒野で40日間、天からのパンであるマナで朝ごとに満たされたように、新約においては神の民であるクリスチャンは日曜日の礼拝毎にイエス様のことばをいのちのパンとしていただき、日々の力とします。それほど大切な礼拝であるならば、礼拝が混乱と無秩序の中にあってはなりません。みことばを静かに待ち望むことが求められています。真の礼拝者はみことばを待ち望む者たちであるといえます。そこでは聖霊もまた豊かに自由に働くことでしょう。

2 献身

もし、少年がお弁当を差し出さなかったらこの奇跡は起こらなかったでしょうか。イエス様はどんな方法でもきっと5000人を養われたことと思います。座った群衆の足下にある小石をパンに変えることもおできになったはずです。しかし、少年が差し出した「小さなお弁当」をイエス様は用いてくださり、神の栄光を現す器としてくださいました。大人に混じって朝から一生懸命、イエスさまの話しを聴き、お腹がぺこぺこにすいて本当は自分一人だけで食べたいほど大事なお弁当だったと思います。ですから彼の差し出したお弁当は、アンデレにとって「何の役に立つでしょうか」と小さく見積もられた価値しかありませんでしたが、この少年にとっては決して小さなものではありませんでした。お母さんが作ってくれた大切なお弁当であり、彼の空腹を満たす必要なお弁当であり、今、ここで彼が持っている最高の価値ある持ち物でした。決して小さくはない大きな価値あるお弁当でした。その最高の品を少年はイエス様に捧げたのでした。もっとも大事なものをイエス様に差しだそうとした少年の「信仰と献身の思い」をイエス様は感謝して受け取り、祝福し、記念としてくださったのです。

イエス様は見た目に小さくそして何の役に立つだろうかとその価値が認められないような奉仕に対しても、その奉仕の背後にある信仰と献身の思いをしっかりと認め、受けとめ、豊かに祝福し、これを神の栄光があらわれる道具とし器とし、記念としてくださるのです。

ですから今、あなたが神様にお仕えしている献身と奉仕を、誰が見ていようと見ていまいと、神様の目に忠実にささげましょう。すべてがイエス様の目には覚えられている尊い奉仕だからです。

さて、少年のお弁当が念頭にあるのでしょうか、「こんな小さなものですが」と、家にある残り物や余り物を教会に持ってきて神様にささげるクリスチャンがいます。みんなで会食をしたりするための食べ物や牧師家庭や信徒の家庭の必要を満たす品物やバザ−の提供品であるならば、あまりものや残り物や着古したものも「もったいない」の精神で互いに分かち合うことはすばらしいことです。私も個人的には大歓迎です。私が使っているネクタイの3/4はそうしたもらい物ですがたいへん気に入っています。しかし、神様にささげるものであるならば残り物や余り物は許されません。いつも最高のものを最初に神様におささげするという高い意識と神様を敬う敬虔な信仰を保つことが大切と思います。良き物を、そして次善ではなく最善のものを感謝と喜びをもって神様におささげしましょう。

さらに、自分の持つ最高の信仰の告白をイエス様に告白しようではありませんか。アンデレは少年の献身と信仰を引き出しましたが、残念ながら自分の信仰は引き出すことができませんでした。むしろ「これしか」ありませんと不信仰なことばを口にしてしまいました。

「これしかない」ではなく「これもある」と信仰に立つことばを口にし、不可能と可能にするイエス様がともにおられると告白するものでありたいと願います。

5000人の給食の奇跡は、改めてイエス様が救い主であり助け主であることを私たちに確認させてくれます。

私たちが悩みや困難に直面する時、なんとか自分の力で解決を図ろうとして悪戦苦闘し、疲れ果ててしまうようなとき、「ここにそれをもってきなさい」とのイエス様の力強い招きの声を聴かせていただきましょう。主のことばは、信仰の回復を私たちにもたらしてくれることでしょう。

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16−15−16)

「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)

                   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。