2009年度説教 10月18日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」
題「神のなさる恵みの計算」
「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、
労務者たちと一日1デナリの約束我できると、彼らをぶどう園にやった。」「このように、あとの
者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20:1−2、20)
幼稚園の学芸会で子供たち全員が主役の「桃太郎」になって一人も鬼の役や家来の役をする子供がいないというコマ−シャルが流れていました。「なぜ私の子供が鬼の役なんですか」「なぜ私の子供が家来の役をしないといけないのですか」と文句をいう親への配慮からでしょうか、時代の風潮をあらわしている一こまだなと思いました。
ある時イエス様は弟子たちに、「天の御国の重要な真理」を教えるために有名なたとえ話をされました。ある農園の持ち主が、働く人を雇いに出かけ1日1デナリの契約をむすんだ。さらに彼は9時、12時、午後3時、さらに日没1時間前の5時にも町へ出かけてゆき労働者を雇い入れました。そして各自に朝1番に雇われ1日中炎天下で農作業に励んだ人と同賃金の1デナリが支払われました。「それはおかしい」と最初に雇われた人が文句を言うと、農園の主人は「あなたへの約束はちゃんと果たした。他の人はあわれみで同じ約束を与えただけだ」と答えたというたとえです。
常識的・ビジネス的な計算でいえば、納得がいかず文句が出ても当然なケ−スといえます。12時に雇われた人は1/2デナリ、3時の人は3/4デナリ、5時に雇われた人は12/1デナリの計算になるはずです。あるいは最後の人が1時間で最初の人の12倍もの早さで同じ量の仕事をしあげたというなら納得がいくかもしれませんがそうではないようです。
イエス様はこのたとえ話をわざわざ弟子たちに話して何を伝えたかったのでしょうか。最後の結びのことばである「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(20:16)ということばとどのように関連づけたらいいのでしょうか。最後の人から順番に賃金を受けたので「後の者が先になった」と言っただけなのでしょうか。もっと深い意味があると思います。
ブドウ園は天国・神の国、ブドウ園の主人とは天の父なる神様を指していますが、最初に雇われた労働者や最期に雇われた労働者たちが誰を指すのかははっきりしません。いずれにしろ、以下の点は明白だと思います。
第1に、神のぶどう園に導かれる人々には時間やタイミングの違いがあるということです。
朝、1番に雇われた人もいれば日没寸前に雇われた人もいます。旧約時代の信仰者もいれば新約時代の信仰者もいます。最初はユダヤ人でしたがやがて後には異邦人たちも神の国の民として招かれました。ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネのように最初からイエス様の弟子となりおよそ3年半にわたり寝食を共にした弟子たちもいれば、十字架で処刑され人生を閉じようとしていた最後の時に、罪を悔い改めてイエス様を信じて救いに導かれた強盗もいます。
「イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスに
います。」(ルカ23:43)
さらにイエス様が十字架で処刑された後に、ロマ総督ピラトに遺体の引き取りを願って、自らもキリストの弟子であることを証ししたアリマタヤのヨセフやニコデモもいます。
救いには「時」があります。腕時計や置き時計ならば、遅れていれば時計の針を進め、進んでいれば針を戻すことができます。時計であればこちらから自由に針を動かしたり遅らせたり調整することができますが、魂の救いとなるとそうはいきません。「時」は人が動かせないのです。「時」をご支配されるのは神お一人ですから神様の御心にまかせるしかありません。
けれどもこのたとえ話の中で、農夫自らが何度も町へ出かけて行って、仕事にあぶれてしまった一人一人を見つけて声をかけているように、神様ご自身は誰よりも熱心にご自分の民を捜し求め働いておられます。しかも、夕方になってもまだ仕事を探そうとしている労働者の切実な願いや、何とか家族を養おうとしている思いをちゃんと理解し、その願いに答えようと神様は働いてくださっているのです。
1日、仕事もせずにブラブラ遊んでいる、怠けているというふうには決してごらんにならず、理解をしてくださっているのです。自分さえ仕事につけば、仕事につけなかった他の人のことなど頭から消えさり忘れ果ててしまっていた労働者たちとは違い、この主人は仕事に就けなかった者対を忘れず心に留め覚えてくださっていたのです。このような父なる神様の愛とかえりみの中にあって永遠のいのちに至る救いのみわざが神様によって進められているのです。
「そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」
(ヨハネ5:17)
第2は、導かれる時間、タイミングは同じでなくても受け取るものはまったく同じものであることです。私たちが天国でいただく最大の贈り物はキリストにある永遠のいのちです。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」
(ロマ6:23)
「先の者が後になり、後の者が先になる」とはイソップ物語のウサギと亀の競争にたとえられているような内意ではなく、神の国においてはもはや後も先も区別がないことを指しています。先の者も後の者も神の御国では同じ永遠の命をいただくのです。
子供のころから救われた者にも晩年になって救われた者にも等しく、十字架の死によってもたらされた罪の赦しと、復活によって証明された永遠のいのちが神からの贈り物・恵みとして与えられるのです。
この祝福は「支払われるもの」つまり当然に「要求できるもの」ではなく「値しない者が受け取らせていただく」贈り物としての特質をもっています。クリスチャンは神様の恵みを恵みとして受け取らせていただくことを学ばなければなりません。私たちは本来、神様に大手をふって要求できるような立場にはおかれていません。にもかかわらずいつしか神様に何かを要求できるかのような思い上がった傲慢な態度をとるようになっていないでしょうか。
柏木道子さんという大学教授が若い女性の意識調査をしたところ、「こどもを妊娠出産することを表すふさわしいことばとして第1位に「こどもを作る」という表現があげられたそうです。先生は「子供をさずかる」という昔のことばはもう死語になったのかと思うと語っておられました。子供のいのちを自分が作る、つまりコントロ−ルしよう、あるいはコントロ−ルできるという発想はその後の育児や教育に大きな影響を与えてゆくことは明らかです。天からいのちを「さずかった」という畏敬の念、感謝の思いがじつは子育ての根本を支えているのではないでしょうか。
授けられたいのちだから大切に育ててゆく、たとえ障害があったとしても意味があって私たち夫婦に預けられたいのちだから、心からいとおしんで大事に育ててゆく、そんな思いへと導かれてゆくのではないでしょうか。
神様の恵みに生きること、恵みに生かされてゆくことを決して忘れてはなりません。
第3は、神の国で働くことは喜びであり、けっして不平不満の対象とはならないことです。
「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」(1ペテロ4:9)
クリスチャンになって時々、「しまったな、若気のいたりで早まったな」と後悔する人がいます。「もっと自由に好き勝手なことをしておけばよかった・・」と思うようです。親がクリスチャンであったばかりに自由がなく、「なんて不幸なんだ」と思う子供もいます。「1/10献金もきついな・・このお金で服も買えるのに・遊びにもいけるのに・・」とふと考えるクリスチャンもおられることでしょう。
しかし、神様から離れて生きることは決して本当の幸せには通じません。なぜなら罪は快楽であっても真の喜びではなく、神様ぬきの自由は、結局は罪と欲の奴隷状態に他ならないからです。空高く舞い上がっている凧が「この糸が自分をしばっていて不自由だな、うっとおしいから切ってしまえ」と糸を切ったとしたらどうなるでしょう。切れたとたんに風に流されきりもみ状態で墜落してしまいます。神様とともに歩くこと、神様を愛して奉仕の道を歩むこと、与えられたものを感謝して神様に喜んで捧げて生きること、これらは私たちを束縛するものではなく私たちに喜びと平安をもたらすものです。
10月31日の土曜日の午後、ラジオ番組を提供している近畿福音放送伝道協力会の「世の光」ラレ−が向島教会で開かれます。講師の村上宣道先生は牧師の子供として生まれましたが、ずいぶん信仰には反抗したそうです。中学時代に学校で進化論を学んだ時に決定的に悟ったそうです。「親父は間違っている。神様が人間を造ったなどと古くさい考えを持っている」と。ですから友達を教会に誘うどころか「教会はまちがったことを教えている。行かない方がいい。牧師の息子の俺が言うのだから間違いがない」と確信をもって説き伏せていたそうです。やがて社会人になったとき、神様抜きの人生のむなしさを知り、罪の道を歩んだことを心から悔い改めて信仰に立ち返ったのでした。お父さんもきっとやりにくかったでしょうね・・。そんな村上先生がお父さんにならいやがて牧師の道を歩み、キリスト教世界のリ−ダ−の一人となって日本のみならず世界でも活躍されているのです。神様を信じて生きることにまさる喜びはないのです。
文句を言った最初に雇われた人々は、その日、仕事につけなかった人々の焦りや不安や苦しみを十分に思いみることができませんでした。自分が仕事を得たことで満足してしまったからです。もし、他の人を思いみる心があれば「君、よかったな思いもかけず仕事につけて、しかも1デナリももらえるなんて、あきらめずに待った甲斐があったな」と、一緒に喜びを分かち合うこともできたことでしょう。神の国の喜びはこのように分かち合う喜びであることも特質といえます。
自己中心的な生き方に自己満足は伴っても分かち合う喜びは伴いません。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ロマ12:15)。
奉仕や伝道に励み、神様のために仕えて生きる人に不平や不満は少ないのです。イエス様のもとに召されたならば、召された時点でベストを尽くして神の国のために地上において時間が許されるかぎり奉仕をささげてお仕えしてゆきましょう。イエス様のために12時間も働くことができればなんと感謝なことでしょう。たとえ1時間しか働けなくてもそれもまたなんと感謝なことです。さらに一人ではなく一緒に共に働くことができたならなんと感謝なことでしょう。
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて
上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
(ピリピ3:13−14)
神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。