2009年度説教 10月11日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」
題「人生の分岐点」
「 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
(マタイ19:16)
昔の古い街道を歩くと、「右は奈良へ、左は京へ」というような道しるべが立てられた分かれ道にさしかかる場合があります。旅人の行き先がここで大きく左右に分かれてゆくのです。同じように私たちの人生にも岐路、分かれ道があります。たとえば中学まではほとんど同じようなコ−スを歩みますが、やがてどの高校へ進むか、どの大学へ進むか、どんな仕事に就くか、誰と結婚するか、こうした選択はその後の人生に大きな影響をもたらします。それらは重大な選択と決心を必要とする「人生の岐路」といえます。
先日、アメリカのストリ−トギャングを取材した番組があり、2人の若者の生き方が紹介されていました。麻薬を売ってすぐに手に入れるお金をファ−ストマネ−といい、地道に働いて稼いだお金をスロ−マネ−と言うそうです。一人はギャング集団から足を洗おうとして殺されかけましたが、犯罪からは手をひき、電話機を売るセ−ルスマンの道を歩み出しました。彼は「スロ−マネで得たお金は手に入れるまでに時間がかかるからその間に使い方をよく考えて賢く使うが、ファ−ストマネ−で得た金は、手に入れたとたんまたたくまに服や車や宝石やギャンブルに使ってしまう。そしてそんな生活の行き着く先は刑務所だ。もう刑務所はこりごりだ」と言い、結婚もして家族を心から大事にしていました。もう一人の若者は、「1日に電話を1台、たった99ドルで売るような仕事は俺にはできない。ファ−ストマネ−が好きなんだ」とあいかわらず犯罪行為を繰り返し15回も刑務所に入りながら更正する気はまったくありません。やがてギャングの抗争に巻き込まれて殺されてゆくことも覚悟していました。同じような境遇の中で育ちながらふたリの歩みは大きく異なりました。人生の分岐点において進む方向が異なったためです。
私たちは今朝、人生の岐路に、イエス様が立っておられることを学びたいと思います。
イエス様のもとに一人の若者が来て質問をしました。「先生、永遠のいのちを得るにはどんな良いことをしたらいいでしょうか」(16)。この若者は裕福な家庭で生まれ育ち、教養も資産もあり、役人(ルカ18:18)という地位もありました。物質的に恵まれながら永遠のいのちにいたる道、天国へ入る道、救いを求める宗教的な関心も強く持っていたようです。
さて、この若者がイエス様に質問した内容は一般的なユダヤ人の考えを反映していました。イエス様を「先生」(ディダスカレ−)と呼び、律法の教師に対する尊敬の思いを抱いていましたが、イエス様を「救い主」と信じるまでには至っていませんでした。さらに「どんな良いことをしたらいいのか」という彼の質問は、「永遠の命を得て天国へ入るためには「律法」を守り、良い行為を行うこと」というユダヤ人の一般的な考え、つまり「救いは善行によってもたらされる」との考えに基づいていました。
イエス様は「ユダヤの教師の教えによれば、良いことはすでに律法の中に明らかに記されている。良い方は律法を与えてくださった神様ただお一人である」(17)と答えました。彼が「どの律法ですか」と尋ねるとイエス様はモ−セの10の戒めの中の第5戒から9戒までと「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(レビ19:18)という戒めを組み合わせてお答えになりました。すると彼は「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(20)と質問してきました。
まじめな上流階級出身でお金持ちであったこの若者は、「貧しさやひもじさから盗みをする」というようなことはなかったことでしょう。ひもじさそのものも経験したことがなかったかもしれません。彼は罪を犯さなくても良い恵まれた環境に置かれていたため、罪をおかさなくても済んだのかもしれませんが、欲の強さ、富への執着、貧しい人々への愛のなさといった罪の性質から、完全に自由であったわけではありません。やがてイエス様の次のことばで彼の実体が明らかになってきます。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(21)
イエス様はこの若者にまず「完全さ」を求めました。もし律法を守って救いを得るというのであれば「完全さ」が求められます。てきとうなごまかしは認められません。みせかけの善行、偽善的行為も赦されません。イエス様はやつて「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)と断言されました。律法によって救いを完成しようとするならば完全でなければなりません。しかし、神と同等の完全さをもって律法を全うすることなど私たち人間に可能でしょうか。罪人には「完全」ということばなどないのです。
ちなみに「隣人を愛する」という愛における完全さとは全財産を施しきることを要求します。
貧しい人に対して余っている持ち物の中からわずかなものを施して、自分が優越感や自己満足にひたるような見せかけの同情は決して律法が要求する完全な愛ではありません。自分が何一つ痛みを覚えないような施しはまったき愛とはいえません。自分の愛する者を愛したとてそれは完全な愛とはいえません。敵を愛し敵のために祈ることができて完全な愛と呼べます。
この若者は律法について知識は有していました。同情からくる見せかけの施しは行うことができましたが、自分の身をけずり大きな自己犠牲を払うほどの愛に生きることはできなかったのです。
エリコの町に住む大金持ちの収税人ザアカイはイエス様を信じ自分の悪行を心から悔い改めて、「財産の半分を貧しい人に施し、不正な取り立てをした人には倍にして返済する」と自発的に申し出た態度とは遠くかけ離れていたといえます。結局、この若者はイエス様のもとを「悲しんで立ち去った」のでした。
イエス様はこの様子を見ていた弟子たちに「金持ちが天国へ入るのは難しい」(23)、大きなラクダが小さな針の穴を通るよりも難しいと話されました。弟子たちはこのことばを聞いて驚きました。当時、富や持ち物の豊かさは神様から愛され祝福された証拠と一般的に考えられていましたから、金持ちが天国へ入れないと言うイエス様のことばが理解できなかったためでした。
ここでイエス様が「金持ちは天国へ入れない」といった趣旨を考えてみましょう。この裕福な若者が考えていたように、もし律法を守って救いを得るという「ユダヤ教」の教えに従うならば、全財産を施すほど完全に徹底しなければならない。しかしそれは、欲とエゴに支配された人間にはできないことであり、律法を守って救いを得るという手段で天国に入ることは罪人には不可能だということをはっきり教えるためでした。そこでイエス様はむしろこの若者に、「律法を全うする道」ではなく、「私に従ってきなさい」と命じられているように、「キリストを救い主として信じる道」を歩むことを教えようとされたのです。今、この若者の永遠のいのちへいたる道の岐路にイエス様は立っておられるのです。
確かに私たちの人生には多くの分かれ道があります。しかし個々の分かれ道を考える前に、天国へ入るために「一つの岐路」があることを考えなければなりません。
「行いによって義とされる道」を歩み続けるか、行いによっては救われないことを悟って、完全にはなりえない自分の罪深さを自覚し、悔い改めて、「キリストを救い主と信じる道」を新たに歩み出すかが求められるのです。
多くの人々が、行いによる義の道を選びます。多くの宗教も良い人になって良い行いをする人間になるようにと善行による救いを説きます。あなたの両親もそのように幼い頃からあなたに言い聞かしてきたことでしょう。「うそつきはどろぼうの始まりですよ」と。学校でも「たばこを吸ってはいけない。髪を染めてはいけない。校則をちゃんと守って模範的な生徒でありなさい」と生活指導の先生が厳しく注意します。
しかし、神様は、良い行いをしようと願ってもそれを完全には行えない私たちのために、イエスキリストの十字架の死による罪からの赦しの道を備えてくださいました。誰一人、良き行いによっては救われませんが、誰でもキリストを信じるならば救われる道を用意してくださったのでした。それは、完全には決してなれない私たち人間のすべての罪、過ち、失敗をイエス様がすべて十字架の上で身代わりとなって背負い刑罰を受け、ご自身の死をもって償い精算しきってくださったのでした。これをキリストの十字架の死による罪からの救い−喜びの知らせ−福音といいます。
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。
これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)
「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」 (コロサイ1:14)
イエス様はこの若者に「そのうえで、わたしについて来なさい。」(21)と彼を招きました。それはイエス様ご自身が、律法を全うして救いを得る道の導き手ではなく、神の哀れみと恵みによる一方的な罪の赦しによる救いを得る道への導き手であるからです。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、
だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)
確かに私たちの人生には多くの岐路があり、わたしたちはそこに立ち止まりながら、選択と決断を繰り返しながら人生の道程を歩みます。しかし、永遠のいのちに至る分岐点はただ一つだけです。善き行いによって救いを得る道を進むか、神の恵みによる罪の赦しの道を進むか、2つに一つであり、イエス様はその分岐点に立っておられるのです。
私たち今日の礼拝に集った者はみな、イエス様を救い主と信じ、彼の十字架の死による罪からの完全な赦しに生きる道を選び、彼に信頼して歩んでいるお互いです。私たちはもう進むべき一つの道を選んだお互いです。ですから私たちにもはや迷いはないのです。
もちろんクリスチャンとしての私たちの人生にもさまざまな選択をもとめられる岐路があります。けれどももう私たちがどの道を進もうとも、私たちがイエス様に祈り、導きを得、信じて信頼して歩むならば、その道はすべて祝福の道であり、折りにかなった御助けが必ず与えられる道なのです。
私たちはうっかりすると、神様が決定しておられる祝福の道がはじめから定められていると思いこみがちです。しっかり祈ってその道を「当てない」とはずれてしまう。「万一はずれを引いたらたいへんだ。はずれを引いたからものごとがうまくいかないんだ。最初から引き直さないといけない・・・」と考えてしまうかもしれません。このようなクリスチャンを「キリスト教的おみくじ信者」と私は名前をつけたいと思います。彼らはみこころの道・はずれの道がまるで最初から存在しているかのように考えてしまうのです。そして、みこころの道にはどんな困難も悩みもないと考えます。しかし、それがクリスチャンの進む道でしょうか。神のみこころの道にはむしろ多くの苦難があるが、「おそれることはない、勇気をだせ、私の平安がある」と約束されたイエス様のことばを思い起こしましょう。
「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがた は、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしは
すでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
私たちはこの人生においてもっとも重要な永遠のいのちにいたる岐路に立ち、イエス様を救い主と信じるただ一つの道を選び、すでに、歩み始めました。ですからもはや迷いはありません。むろんこの道の途上にも幾多の困難や涙や痛みが伴うことを私たちは知っています。私たちはその困難を試練として受けとめ、そこにも神様の摂理と恵みを見つめ、いたずらに回避することのみを願い求めることはいたしません。どんな困難が伴っていたとしても、そこにイエス様がともにおられることを信じ、信頼しているからです。
イエス様とともに歩むいのちにいたる道にも多くの分かれ道、岐路があります。私たちはその都度、イエス様に祈り、イエス様に聞き、イエス様に導かれて従い進みます。その結果として選んだ道、信仰をもって進み出した道は、みな祝福の道なのです。「はずれ」の道などそこには存在しません。たとえその途上に困難があっても私たちはおそれません。なぜならば、人間にはできないが、神にはどんなこともできないことはないからです。イエス様の恵みと御助けと平安がいつも伴うからです。
「私についてきなさい」(21)と私たちを招いてくださったイエス様に従い歩み続けましょう。
「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、
神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)
神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。