2009年度説教 11月1日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」


題「天国からの招待状」

                         2009年度 召天者記念礼拝

そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、
それにふさわしくなかった。
・・・・招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」               (マタイ22:8,14)

今日のたとえ話で、イエス様は「天国は一国の王様が王子のための結婚披露宴にお客を招待するようなものである」と語りました。悲しみを分かち、慰めを語るお葬式とは異なり、結婚式は希望や喜びをわかちあう場です。お葬式がお別れや終わりを意味するとすれば、結婚式は出会いや始まりを意味します。天国はそのような新しい始まりと希望と喜びの場であるとイエス様はこのたとえ話を通して伝えてくださっています。

みなさんはこの地上の生活が終わった後の世界をどのようなイメ−ジでとらえているでしょうか。この地上の世界での生活が終わった時、みなさんはいったい何処へ向かって旅たつのでしょうか。地上の生活は長くて90数年までですが、その後の長い永遠という時をどこでどのように過ごされるのでしょうか。行き先がはっきりわかっているでしょうか。行き先も決めずにバスや汽車に乗り込み、気ままな一人旅をする人もたまにはいるかもしれません。けれども行き先も決めないで飛行機に乗ることはできません。タクシ−の運転手に「よくわからないので、どこでもいいから行ってくれ」と言えば、運転手は怪しんでタクシ−強盗かもしれないと警察に通報するかもしれません。みなさんはこれからの長い人生をすごす世界がどのような世界なのか、そして行き先がはっきりわかっているでしょうか。

今日、紹介した10数名の召天者の方々はみな、行き先がわかっておられ、その行き先がどんなすばらしい世界であるかもわかっていましたから神のみもとへゆくことをある意味で楽しみにされていました。彼らの行き先は天国であり、たとえるならば王様のが開く王子のための結婚式の披露宴のような喜びに満ちた世界なのです。このたとえ話では、王様は天の父なる神様、王子であり結婚式の花婿はイエス様、イエス様の花嫁は教会を指していると理解されてきました。天国では父なる神様と救い主であるキリストが待っておられ、「よくやった忠実なしもべよ」と慰めのことばをかけてすべての労をねぎらってくださり、永遠という時をこの上もない大きな喜びの中で過ごすのです。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2−3)

クリスチャンは「天国、神の国」という美しいことばを持っていますが、この世の人々は「あの世、死者の国、草場の陰、黄泉、彼岸、極楽、浄土など」のことばを用います。しかし、その生活がいったいどのようなものであるか教えに一貫性が欠け、曖昧模糊とした部分が多く想像することができないのです。どのような世界かわからい所へ行くことほどほど不安で恐ろしいことはないと思います。

病院では深夜になると入院患者さんがときおり叫ぶそうですね。「看護婦さん、怖いよ、俺は何処へ行くんだ。死にたくないよ」と。しかしながらクリスチャンが、「俺は死んだらいったいどこへゆくんだ。そこで何が待っているんだ。怖いよ」と恐怖におののきながら死んでいったという話を私は聞いたことがありません。なぜならば、はっきりと行き先が天国であり、そこで救い主イエス様が待ってくださっていることを知っているからです。不安や怖れに代わってそこには希望と平安が満ちています。

昨日、ラジオ放送「世の光」、テレビ放送「ライフライン」でおなじみの村上宣道牧師を迎えて向島福音自由教会で視聴者地域集会がありました。村上先生のお父さんも牧師でした。晩年、ガンの末期状態で入院していた時、お父さんと葬式の準備を語り合いました。お父さんは「天国へ行くのはイエス様の結婚式に招かれるようなものだ。悲しい曲はふさわしくないので「結婚行進曲」をかけてくれと言ったそうです。さすがに村上先生も「それは困る」とお父さんと語り合っている姿をお医者さんが見て「何を楽しそうに話し合っているのですか」と聞きました。「お葬式の準備を話し合ってるんです」と応えると目を丸くしてびっくりされていたそうです。死を間近に迎えてもこんな平安を心にもっているクリスチャンのあり方にたいへん感動されていたそうです。

昇天者の一人一人も村上先生のお父さんと同じお気持ちであったと思います。

天国は王子の結婚披露宴に招かれるようなものです。しかしながら多くの人々に招待状が届けられるものの、それを受け取り結婚式場に来る人は少ないのです。「ある者は気にもせずある者は畑に農作業に出かけ、ある者は仕事に出かけてしましました」(5)。彼らはせっかく招待状が届けられたにもかかわらず、無関心であったり、仕事に追われたりして、招待状の価値のすばらしさを無視してしまいました。

さらに最初に予定していた招待客が誰も来ませんから、王様は町の大通りにいる人々を急いで招き集めました。王宮で催される王子様の婚礼式ですから普段着や遊び着のままではふさわしくありませ。そこで王様は受付で披露宴にふさわしい礼服を出席する者たちに与えました。ところが出席者の中に「自分の服のままでいい、わざわざ着替えるのはめんどくさい」と、礼服を着ない人がいたのです。そのために彼は外に追い出されてしまいました。

超高級ホテルや一流レストランにジ−パンやサンダルを掃いてやってきたら、外に追い出されるそうです。天国へ入るためには自分の着ている罪にまみれた服を脱がなければなりません。生まれたままの状態で、神の国にはいることはできません。もちろんそれは正しい立派な行いや良い行いや完全な人間になることではありません。自分の罪を悔い改めて神様にお詫びをしてイエスキリストの「十字架による罪の赦しを信じることを指しています。イエス様によって新しい義の服を着せていただくことが不可欠です。

「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見る  ことはできません。」(ヨハネ3:3)

「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたち  に似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)

神様からのすばらしい永遠のいのちにいたる招待状があなたにも届けられています。そこにはこのように記されているのです。「あなたの罪はすべて御子キリストの十字架の身代わりの死によって完全に赦されました。このイエスをあなたの救い主、あなたの神と信じるならば、あなたは救われ、決して滅びることなく永遠のいのちを持つのです」と。

あなたも今日、この招待状をもって王が用意された披露宴に出席しませんか。王の招きにお答えしませんか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びる   ことなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

                   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。