2010年度説教 1月1日 元旦礼拝
「信仰の高嶺をめざして」シリ−ズ」
題「見よ、わたしは新しいことをする」
「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」(イザヤ43:19−21)
昨年度の世相を表す「一文字漢字」に「新」が選ばれました。新型インフルエンザの感染拡大、アメリカでの新大統領誕生そしてノ−ベル平和賞受賞、民主党鳩山新政権の誕生など新しい出来事が起こった年でした。けれども半年も経てば記憶もあいまいになり、そんなこともあったかなというような過去の出来事になってしまいそうです。パソコンなども3ヶ月周期で新商品を市場に投入しないと売り上げが落ちてしまうといわれるほど商品価値の持続期間が短くなっているそうです。私たち人間には常に「目新しいものを追い求めてやまない」習性があるために、どんな新しいものもすぐに「古く」なってしまい新鮮さも感動も薄れてしまうようです。このように考えると人間の世界には「目新しさ」はあっても「真の意味での新しさ」はあるんだろうかと思ってしまいます。 さて元旦の朝、「見よ、私は新しいことをする」と宣言される神様のことばに耳を傾けたいと思います。
まず時代背景を簡潔に説明します。旧約時代に活躍した預言者イザヤは、イスラエルの民の不信仰と偶像礼拝がやがて国家的な滅亡を招くことを預言しました。イザヤの預言通り、ついに南ユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされ、王も民も異国の地に奴隷として連れ去られ、屈辱と悲しみに満ちた日々を過ごすことになりました。イザヤは国家滅亡という悲惨な預言とともに、滅ぼされたイスラエルが再建されるという希望に満ちた預言も同時に語っています。43章では、神によってバビロン帝国から解放されるという希望に満ちた慰めの預言が「わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」という美しい詩的表現で語られています。イザヤの預言通り、南ユダ王国を滅ぼしたバビロン帝国でしたが、やがて新興勢力であるペルシャ帝国によって征服されました。連邦国家制度を政治的に採用したペルシャのクロス王は、ユダヤ人の祖国帰還命令と神殿建設の許可を下しました。こうしてついに悲願の祖国帰還が実現したのでした。
1.神は絶望的状況においても新しいことを成し遂げてくださいます
「確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」
バビロン軍の侵略により美しいエルサレムの都も神殿もことごとく破壊され瓦礫の山と化してしまいました。長年にわたり放置されたままの祖国の地は荒れ放題でした。荒野となってしまった祖国の地が再び緑の生い茂る豊かな国土と変わることなどバビロンに住むユダヤ人には想いもよらないことでした。希望のかけらさえ見いだせない絶望的な民に向かって、イザヤを通して神様は「見よ、私は新しいことをする」と呼びかけてくださったのです。
人間がすることを聖書は「新しいこと」とは呼びません。神がなさることのみが「新しいこと」と呼ぶにふさわしいからです。人間にもできることを「新しいこと」と聖書は呼びません。全能者であり「無から有を呼び出す」ことができる天地の創造主である神様にしかできない御業を聖書は「新しいこと」と呼びます。
絶望的な状況の中におかれると私たちは精神的にも信仰的にも「無力」「無気力」に陥ってゆきます。将来を前向きに考えることができなくなり、何事も後ろ向きになりがちです。今がこうなんだからこれからもこのままに違いない。新しいことなど起きるはずもない、そんな思いにとらわれてしまいがちです。けれどもイスラエルの創造者、あなたがたの王である神様は、人間が思いもつかない方法で全能の力をもって「新しいこと」を始動してくださるのです。あの出エジプトの奇跡的出来事でさえ「先のこと、昔のことを思いおこすな」と命じるほど、さらに驚くべきことを成就してくださるというのです。
ですから、気落ちすることなく、心を折られてしまうことなく、過去や現実に引きずられてしまうことなく、逆境の時こそわくわくしながら「新しいこと」を待ち望みましょう。それこそが全能者を信じる神の民にふさわしい態度なのですから。
2.神は神の民の願いを成就される
神様が約束された「新しいこと」は、実は「イスラエルの民が願っていたこと」でもあります。祖国への帰還、神殿建設、神を礼拝する喜びは、バビロンの地に住むイスラエルの悲願でした。異国の地バビロンでは、イスラエルの神を礼拝することは偶像礼拝として禁止されていました。しかしバビロンの神々や王を礼拝することはイスラエルにとっては偶像礼拝の罪をおかすことを意味しています。ですから彼らは真の神礼拝を神殿でささげる日を心から願い待ち望んでいました。神様はその祈り、願い、叫びを聴き、その涙をごらんになり、「新しいこと」を成就してくださたのです。
かつて、モ−セを通してエジプトの奴隷生活からイスラエルの民を解放してくださった時も、神様はイスラエルの叫びを聴き、立ち上がってくださいました。
「見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト3:9−10)
民が望まないことや民が願わないことを神様は実現されません。神様は求める者に応えてくださるお方です。ですからイエス様は私たちに祈ることを教えてくださったのです。あきらめずに祈り続けることを教えてくださったのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)
「
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(第1ヨハネ5:14)
新しい年、神様はあなたに「新しいこと」をご計画してくださっています。しかもそれはあなたの願いを除外したものではありません。神様のご計画とあなたの願いは「織物の縦糸と横糸のように美しく織り合わされ」あなたの人生という名の1枚の着物を織り上げてくださっています。あなたが願わなければ、神様もお働きにはなりません。あなたの願いと懇願と祈りを神様に、信頼して期待してささげましょう。
「
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)
まだまだ景気の好転が望めず、2番底がくるのではと懸念されているこのとき、私たちはなにをするにも経済的な不安と向き合わざるを得ません。自殺者数の増加と経済的不況の深刻度には強い相関関係が認められることはよく知られていますが、実は不信仰と経済的不況の深刻度も相関関係があることを認めざるをえません。けれども不安にさらされる時代であればあるほど次のみことばをしっかりと握って歩みたいものです。
「
また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)
3.神の喜びは、神の名が神の民を通してあがめられること
「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」(21)
神様はご自分の民の祈りを聞き、みこころのままに「新しいこと」を成就してくださいます。しかし私たちが神様に願い求めたことの一つ一つは目標であったとしても目的ではありません。目的と目標を混同することなく区別しなければなりません。神様がイスラエルの民の願いを聞き、祖国への帰還を成就してくださったのは、神の名があがめられるためでした。イスラエルの民がこぞって「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」と賛美と喜びの中で告白し、神の名をあがめるためです。しかもユダヤ人ばかりでなく異邦人も含めた、全世界の人々が「まことの神の御名をほめたたるためです」。この目的のために、異邦人のただ中で、神様はイスラエルの民を通して「新しいこと」を成就されるのです。
私たち宇治バプテスト教会は4年前から新しい教会堂を祈り求めています。20坪の土地に建てられた現在の会堂で礼拝をささげるには多くの支障が生じているためです。私たちの3つの願いは「誰もが安心して集えるバリアフリ−の会堂・静かな祈りの家、多様な宣教が狩野となる宣教の拠点」としての教会堂を主におささげすることです。そしてその究極の目的は、まことの神と救い主を未だに知らない人々が教会に導かれ、罪を悔い改めてキリストの十字架の救いを信じ、「御子キリストを通して父なる神様の恵みをほめたたえる」ことにあります。すべての人々を神様への礼拝へと招き、ともに神の名と神の恵みをほめたたえたいのです。
「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:6)
この新しい1年も、日々の生活を通して、神様の栄光を、イエス様のすばらしさを分かち合ってゆきましょう。
神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。
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