2014年度 主日礼拝
2014年6月1日
「神のみむねが成るとき」
使徒23:1-11
エルサレムに戻ったパウロは「異邦人を神殿の中に連れ込んだ」(28)という疑いをかけられ、ついにエルサレム神殿内で逮捕され、むち打ちの拷問(32)が始まりました。「お尋ね者パウロ逮捕」の知らせに群衆は騒ぎたち、都は大混乱状態に陥りました。ロ−マ軍の千人隊長のもとにも市内で大騒動が起きたことが知らされました。彼は急いで兵士たちを引き連れて現場に駆け付け、騒ぎをようやく鎮めました。翌日、改めてユダヤ教の大祭司や指導者が呼び集められ最高議会が開かれました。ところが、今度はパウロの処遇をめぐってパリサイ派とサドカイ派が激しく言い争い、結論を出すことができませんでした。
いったいこの先、何が生じるのだろう・・・、エルサレムに住むクリスチャンたちは心配したことでしょう。ローマ兵が監視する兵営の(23:10)獄中で一人祈るパウロを、その夜、イエス様が訪ね、励ましました。
「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。」
(使徒23:11)
パウロはエルサレムで危険が待っていることを知っていました。逮捕されることもすでに聖霊によって告げられ理解していました。それどころかすでに「死」さえも覚悟していました。しかし、教会の将来を考えると、パウロといえども心の中に不安や恐れがあったことと思います。そんなパウロにイエス様は3つのことばをもって励ましたのです。
@ 恐れることなく勇気を出しなさい 恐れにかわるものは平安ですが、それはいつも小さな勇気から始まります。不安や恐れをもたらす要因を避けていては何も学ぶことができず、回避していては何も経験することができません。小さな一歩ですがそれは事態を変化させる可能性を秘めています。
A エルサレムでもロ−マでも証ししなさい。宣教師として召されたパウロにとって、なすべきことは一つだけでした。ユダヤ人であれ異邦人であれ、いつでもどこでも彼らに対してキリストの福音を宣教し、キリストの名のもとに導き、キリストのからだである教会につながるようにしもべとして仕えることでした。パウロは特別なことを求められたわけではありません。「あなたのするべきこと、語るべきことを普段のまま、ありのまましなさい」とイエス様から命じられたのです。
B ロ−マでも証しなさい。イエス様はパウロが予想もしない方法でロ−マへ導こうとされています。この言葉は「ついにロ−マでの宣教の扉が開かれる」という希望を示しています。パウロの願いがかなえられたのです。
神の手の中にある人生はいつだってドラマです。そこには大逆転があります。よく結婚式のスピ−チで人生には3つの坂道があると紹介されます。登り坂、下り坂、さらにまさかという坂です。ある人はもう一つあるといいました。「まっさかさま」だそうです。しかし聖書は、試練には逃れの道があると告げています。試練の中にかならず逃れの道が備えられているのがキリストにある人生です。単なる偶然ではありません。神の御計らい・守り・ご計画・愛が一貫してそこには存在しています。多くの人生の試練は霊的にも社会的にも成長するときであり、感謝が満ち、信仰が深められるときなのです。
では以上の3ポイントをもう少し詳しく考えてみましょう。
【小さな勇気を】
イエス様はパウロに、恐れを超えるものは勇気であると教えています。「無関心を超えるものは愛である」とマザ−テレサは言いました。愛と勇気は小さくても十分なのです。大きな愛や勇気が必要とされるわけではありません。少しの勇気が最初の一歩を進めてくれます。小さな愛が無関心という心の壁を崩します。大きな勇気を振り絞ろうと自分を鼓舞すればするほど身構えてしまい、過度に入れ込み、しんどくなって結果的に何もしないまま、何もできないままで終わってしまうという結果をもたらすことが多々あると思います。
名優チャップリン主演の「ライムライト」という映画に、脚を痛めて踊れなくなった失意のバレリ−ナ−を励ます有名なことばがあります。「人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー(ちょっぴりのお金)」 元気が出てくることばではないでしょうか。勇気は生きる力を引き出すのです。
イエス様はパウロをこのことばをもって励まされました、「勇気を出しなさい」「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Uコリント4:16)
【証しなさい】
エルサレムでもロ−マでもキリストの名を伝え、キリストの生涯を語り、その教えを解き明かし、キリストへの信仰へと導くことが宣教師としてのパウロの努めでした。パウロにとって宣教や伝道や証しをすることは、特別なことではなく、ごくごく「普通のこと」「当たり前のこと」でした。私たちが普段、特別に意識しなくても呼吸しているように、パウロにとっては、時が良くても悪くても、誰に対しても、みことばをのべ伝えることは、ごくごく自然のこと、普通のことでした。
「だれでもいつでも弁明できるように用意していなさい」「優しくつつしみ深く、正しい良心を持って弁明しなさい」(1ペテロ3:15-16)
伝道や証しは大声を張り上げてするものではなくなりました。そういう時代はもう過ぎ去りました。聴き手である相手の心に届かなくなっています。無理に相手の心をこじ開けることはできません。ですから、身近な生活の中で、自然体で証をしましょう。そのためには私たちがこの世の人々に、出会いの場を提供する必要があると思います。キリストと出会うことができる場を提供する必要があります。教会が「こころのオアシスを」となるような、救いと癒しの場を提供したいものです。
【希望】
パウロが予告されていた通り、エルサレムで逮捕されるという最悪のシナリオは、ロ−マ兵によって安全にロ−マへ護送され、ロ−マで再びパウロに宣教の機会が用意されるという最善の結果に変えられようとしています。人は心に多くの計画を抱きますが、ことを成就されるのは神ご自身です。
「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。」(箴言16:1)
「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)
「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけが成る。」(箴言19:21)
たとえ苦難が待ち受けていても、「イエスの名のためであるならば」と、まっすぐにエルサレムに向けて歩み出したパウロだからこそ、主イエス様も恵みをもってこたえてくださったのです。私たちの希望とは、私たちの計画の中にあるのではなく。神の永遠のご計画の中に置かれていることを心に留めましょう。
主の御心が成就するのであり、私たちの希望のすべてはそこにかかっているからです。
以上
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