2014年度 主日礼拝
  2014年7月27日




主キリストは彼らを望む港に導かれた 
使徒
2727-45 

1.    最後の望みも絶たれようとしていた

パウロは裁判を受けるためにロ−マへ護送されました。ところが乗船した船が、地中海で大きな暴風に遭遇し「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」(使徒2720)」というような、絶望的危機的状況に陥りました。そのような危機状況のなかでパウロは「元気を出しなさい」と、騒ぎ立つ乗客たちを励まし続けました。

人は困難や試練に直面すると、すぐに「もうだめだ」「希望も見えない」とあきらめ、絶望し、すべてを投げ出しがちになります。

イエス様が乗り込んだ小舟がガリラヤ湖で突風に巻き込まれたときも、ベテラン漁師の弟子たちでさえ「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」(マタイ824)と、叫び声をあげてしまったことがありました。一方、イエス様はその嵐の中でも悠然と眠っておられましたが、危機に直面したときの弟子たちの対応を、静かに見守っていた可能性もあります。

クリスチャンは最後まであきらめない一人でありたいと願います。最後まで、希望を失わず、希望を語る一人でありたいと願います。なぜならば、信仰と希望と愛に生きることが、クリスチャンの生活の原点だからです。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハ14:27)

イエス様は弟子たちに、騒いではならない、恐れてはならないと言われました。不安が心を占めてしまうとき、焦りや無力感が強く感じられ、やがて恐れに変わってゆくのです。不安や焦りや恐れは、キリストの平安によっておおわれるときに、その強いパワ−を失います。ですから、キリストの約束の言葉を信じ、平安に満たされましょう。目に見える状況に翻弄され、まっさきに騒ぎ出すひとりであってはなりません。

2.    人間のもろさと罪深さ

14日間の漂流ののち、陸地が近づき、やがて遠くに島影が見えてきました。

自然界の脅威である暴風がおさまったとき、また新たな試練が起きてきました。水夫たちが乗客を見捨て、自分たちだけが小舟で脱出しようとしたのです。どこかの国でも、船長と乗務員が沈没しかかった船から真っ先に逃げ出したという事件がありました。自分たちだけが助かりたいという人間のもろさと、不誠実・責任放棄という人間の罪深さが露呈したのです。これほど大きな裏切り行為はありません。パウロと100人隊長の機敏な行動によって、水夫たちの逃亡をかろうじて防ぐことができました。しかし、試練はこれだけではおさまりませんでした。

島の入江付近で、とうとう船は、浅瀬に乗り上げてしまいました。船の後部が激しい波に打ちたたかれてバラバラに壊れ始めたのです。浸水が激しく、こうなれば、海に飛び込んで岸まで泳ぐ以外に、もはや助かる道はありません。ところが今度は、ロ―マの護衛兵たちが、囚人を逃亡させれば自分たちが厳しく処罰されることを恐れ、囚人が逃亡しないように皆殺しにしてしまおうと言い出したのです。上級監督署には、嵐のなかで囚人は溺死したと報告すればよいからです。これらの行為は、ロ−マの護衛兵たちが、「自己保身」に走った結果でした。

この窮地は、100人隊長ユリアスの懸命な説得により、護衛兵たちは納得しました。ユリアスとパウロの間に生まれた友情がこの危機を救ったともいえます。

人と人との出会いは貴重です。100年かけても絆が結べない人もいれば、数日で永遠の友となることもできる場合もあります。お互いが誠実であることが絆を結ぶ「条件」といえます。私たちは、助け合いながら人生を生きています。限られた短い人生で、私たちが出会うことができる人の数は決して多くありません。出会いの中で互いに結ばれ、育ちあっていくのです。クリスチャンはクリスチャンとしか人間関係をつくれないというわけではありません。この世の中にも、多くの友を持っていることが「クリスチャンの誠実さ」の一つの証といえるのではないでしょうか。

3.    望む港に導かれる主イエス

パウロに対する主イエスキリストの約束は、2つでした。

「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。」(使徒2724

最初の約束は、パウロが無事に、ロ―マに護送され「皇帝の前で証する」すること、そして二番目は、同船した乗客276名全員のいのちが守られるという約束でした。主キリストはご自身のお約束を成就してくださいました。約束通り、彼らは一人も失われることなく、嵐と難船の危機を乗り越え、マルタ島の海岸に無事上陸できたのでした。

船の乗客にとって、「これは奇跡だ」「おれたちは運がよかったのだ」「九死に一生を得た。ついていた」という解釈になるかもしれませんが、パウロとルカにとっては「神様の約束の成就」「神のご計画と摂理の確かさ」を、ますます確信させられるできごととなりました。

神様は約束されたことを必ず成就する力をお持ちになっておられるのです。そして、神の約束を信じぬくことが私たちの信仰であることを、この物語から私たちは学ぶことができます。

もし私たちの信仰生活を、バプテスマを受けた恵みのときから、天の港に導かれるときまでの「航海」にたとえることができるとするならば、私たちもパウロ同様、幾度も「思いがけない嵐に遭遇し」「思いがけない人間の自己保身という罪や背信や裏切り」に苦悩することがあることと思います。航海の全日程が晴天に恵まれ、嵐ひとつなかったということはありえません。

それでは、信仰の港を出港し、人生の航海を進め、望む港(天の御国)に到着するまでの長い航海の途上で、船が難破しないために私たちはどのように対処すればよいのでしょうか。

「信仰の破船」から身を守る最大の学びは、主イエスキリストのお約束とその約束を貫く神の愛を信じぬくことにあります。それがアブラハムの信仰を、私たちが受け継ぐことであり、パウロの信仰を、今の時代に生きる私たちが受け継ぐことでもあります。時代が変わっても本質的なことはなにもかわっていません。アブラハムやパウロの経験は遠い過去の出来事ではなく、今の私たちの経験そのものでもあるのです。

イエス様はこのような約束を与えてくださいました。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(ヨハネ
1027-30

私たちはイエス様の「牧場の羊」とされているのです。これは決定的な事実であり、十字架の恵みを信じた結果もたらされた最大の賜物です。そして、良き羊飼いであるイエス様は命がけで、小羊たちを守ってくださいます。「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」「父の手から奪う者はいない」と、「もうすでに」大きな約束が与えられているのです。

この約束を受けながら、私たちは「人生の航海」を、天の港を目指して進んでいるのです。

パウロが経験したように、天の港を目指す途上において、私たちもまた不可避的な嵐に遭遇することも、無力さに苦悩する漂流の日々も、人間のもろさ、罪深さ、裏切り、自己保身に涙する日々もあるでしょう。

しかし、主はわたしたちを必ず望む港へと導いて下さいます。主の約束が、私たちの最大の「希望」となるのです。

それゆえ、わたしたちは最後まで望みをあきらめない一人でありたちと願います。

「この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、
波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。」
(詩篇
10728-31



   

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