【ワンダフルワーシップ】 本当の幸せってなに? 


2024年2月11日  マタイ5:1-10 「こころの貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ人は幸いです。その人は慰められるからです。…平和をつくる人は幸いです。その人は神の子供と呼ばれるからです。」

ベルギーの作家モーリス・メーテルリンクの「青い鳥」という物語は有名です。貧しい家に住む兄のチルチルと妹のミチルが幸せを招く青い鳥を探すため冒険の旅に出ます。夜の国ではお花畑にたくさんの青い鳥がいてたくさん捕まえたが、その国を出るとみんな死んでしまった。森の国でもたくさんの青い鳥を捕まえたが、みんな色が変わってしまった。結局見つからず家に帰ると、家で飼っていた白い鳥が青い鳥に代わっていた。幸せは身近にあるが、あまりに近すぎて気が付かないままの幸せがある。と同時に青い鳥と見える幸せが本物かどうかを改めて見つめなおしてみましょうというメッセージがこの童話には込められています。今朝、本当の幸せってどこにあるのか探してみましょう。

・幸せの数は人の数だけあります。ひとりひとりにとって幸せの定義も基準も異なるので、決めつけることはでき熱せん。自分らしい自分の幸せを求めていただけばいいのですが、まだ見つからない人、探し求めている人は、イエス様の言葉に耳を傾け、心にとめ、参考にしていただければと願います。

1.ハッピーとブレッシング

イエス様は2000年前に、人々に「8つの幸い」について語られました。ここで用いられている幸せは、永遠なる愛の神が与えてくださる祝福を指します。ハッピーはハップン、たまたま転がり込んできた幸運をさす。偶然転がり込んできたラッキーな出来事ですが、同じようにまたどこかへ転がり出て行ってしまうかもしれない可能性をひめている。森の国で捕まえた多くの青い鳥が、いつしかみんな違う色に変ってしまっていたようなものです。イエス様はそのような移り変わりゆくむなしい幸いではなく、人と比較して優劣を競うような幸福ではなく、変わることのない神の愛に根差した「祝福」(ブレッシング)を与えようとなさっておられるのです。

2.トップバッターは心の貧しい人です

8つの幸いの中のトップバッターは、心の貧しい人です。貧しい人が幸せってどういうことでしょう。貧しいと訳されたギリシャ語は「空っば、何もない」という意味だそうです。神の前に誇るべきもの、自慢すべきもの、頼るべきものが何もないと自覚しているので、神に向かって助けを求めるしかない人を指しています。ちゃんと何かもっているから神に頼らない、祈らない、必要としない。ところが、自分の自信に満ちた能力や健康、プライド、知識、キャリア、財産、名誉が、何もないとわかるとき、人は素直になり、その時、はじめて思いもよらない、この地上のすべてをはるかに超えたすばらしい「神の国」を得ることができるというのです。

・父の証し:私の母が舌ガンの大手術をしたとき、手術室の扉の前のソファーで成すすべもなく、父は初めて心から「助けて下さい」と膝づいて必死で神様に祈ったそうです。父は激戦地であったニューギニア戦線の生き残り将校であり、9641(黒鷲)部隊と呼ばれた爆撃機の爆撃手でした。決して泣き言をいわず、弱さも見せない強い人でした。「祈る時間があれば、さっさと行動せよ」という自力で頑張る気合と根性の人でした。ところが母の生死をかけた大手術を前にして、扉の向こう側に入って行き、励ますことも声をかけることもできない、無力な自分を痛切に知らされ、砕かれたとき、素直に「神様、助けてください」と心から祈ることができたそうです。自分の力だけがすべてだと信じていた父が、神により頼むことを学んだ瞬問だったようです。この時から、父は神に信頼し、神に祈る、神の子のひとりとして、96歳の生涯を歩みました。心が空だから、神が良きもので満たしぬいてくださるのです。

3.ラッキーセブン7番目の幸いな人は、平和をつくる人、生み出す人です。

これらの人々は神の子供(息子)たちと呼ばれます。ことばを変えれば、神の子たちは平和を作りだす働きのために召されており、その働きの中にこそ「幸福がある」と教えているのではないでしょうか。すべての神の子たちには、平和をつくりだす、平和を保持するという能動的積極的な役割が与えられています。その働きに召され、仕えることの中に本当の幸せがあるとキリストは教えています。「平和」と訳された言葉のヘブル語は、シャローム、平安、安らぎ、安心安全、安寧、平穏、和解など多様な用いられ方をします。しかも平和は「神の平和」(ロマ5:1)とあるように、神によってもたらされる平和であり、この平和の上にはじめて、平安や心の安らぎがあるというのです。

1日約聖書ヨブ記22:21には「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。神の御回からおしえを受け、そのみことばな心にとどめよ。」と記されています。

さらにイエス様は「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ハネ14:27)と約束してくださいました。イエス様の十字架の身代わりの死によって、罪の赦しがもたらされ、神との和解が成立し、罪による断絶がつなぎ合わされ、その結果、神の裁きや怒りではなく平安と愛と喜びの中に生きることができるようなりました。

私たちは突然始まった、ウクライナとロシアとの戦争による生々しい悲惨な破壊と殺蓼を目の当たりにしました。昨年の秋にはイスラエルとパレスティナガザを拠点とするテロ組織ハマズとの戦争により、ミサイルや砲撃で町が次々と破壊され、罪のない名もない一般市民の悲しみと犠牲の死をリアルに目撃することになりました。今こそ、彼らを隣人とみなして、平和のために、和解のために、怒りと復讐の連鎖が断ち切られるために、教会が祈るときであり、神の子供たちが平和をつくるために能動的に働くときだと、強く心を動かされています。そのためには、健全で偏らない情報収集が必要であり、深い関心を保ち続けることが大切だと私は思います。なぜなら新聞やテレビの報道は話題性を追いかけていますから、あっという間に忘れられ報道もされなくなってしまうからです。愛の反対語は無関心だと言われています。関心を持ち続けることが、ともに寄り添うことであり、小さいけれど真実な愛そのものであることを覚えましょう。

振り返りたいと思います。神との和解と平和を得た者は、心の平安を得て、隣人との和解と平和の中に生きることができます。世界の平和を願う人々は、まず隣人との平和の中に生きることが求められます。はじまりはいつもここからです。

あなたはみじかな人間関係の中で平和を得ていますか。争い、憎しみ、怒りがあって、隣人との関係、親子関係、兄弟関係が破れていないでしょうか。破綻していないでしょうか。破れ口は修復されているでしょうか。

怒りや憎しみから相手を許せない、そしてそんな自分を許せないと、2重に自分を責めていないでしょうか。自分が自分の敵になっていないでしょうか。自分の心が戦場になって荒れすさんでいないでしょうか。もしそうならば、イエス様のもとにいらっしゃいませんか。そしてキリストにある平安をいただきましょう。キリストの十宇架こそが復讐の連鎖を断ち切り、キリストの平安が抑えがたい怒りを和らげるのです。

青い鳥が身近にあったように、真の平和と幸いは、あなたの身近な隣人関係の中に存在しています。そして、あなたが気づくことを待っているのです。気づいた人を、幸せな人と呼ぶのです。

HOME     NEXT