「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(1:15)
20240407
今日の中心は15節「欲が孕んで罪を産み、罪が熟して死に至る」。この言葉は ヤコブのオリジナルの信仰による言葉なのか、当時のユダヤ人の間で用いられた格言だったのか分かりません。 しかしいずれにしろ、今日においても非常に説得力があり、「まさにそうだなぁ」と納得させられる名言とも言えます。 欲を出すとろくなことはない。そんな例が身近にも多くあります。つい最近、有名なアメリカ大リーグの選手の通訳が、ギャンブルで巨額な負債を抱えるという大きな事件がありました。 子供の頃、私の父はよくイソップ物語を話し聞かせてくれました。骨をくわえた犬が橋を渡っていた時、川の水面に映っているもう一匹の犬が、美味しそうな骨をくわえているのでそれも欲しくなって「ワン」と吠えた途端に、ポトンと自分の骨が水の中に落ちてしまったという話を今でも覚えています。つい欲をだして失敗してしまったという苦い思い出が皆さんにもあるのではないでしょうか。
かと、思えば、コンビニで小学校1年生ぐらいの女の子が買い物をして、お財布にお釣りを入れようとして床に落としてしまい、コロコロと陳列棚の下に入り込んでしまった。店員が箒を持ってきて中を探ると、埃とごみと一緒に、500円玉が出てきた。「これかな」と聞くと「違う」と首を振る。100円玉が次に出てきた。また「違う」。最後に10円玉が出てきた。すると、にっこり笑って受け取って帰っていきました。欲は身を滅ぼすけれども、無欲さは美しく、周囲のものに清々しさをもたらします。店員も私も、気持ちのいい一日の朝を迎えることができました。さて ヤコブは神の真実さを今日の個所で2つ宣言しています。
1. 神は決して人を悪や罪に誘惑されません
聖書は、悪とは人間を神から引き離してしまうあらゆる闇の力を指します。罪とは、その結果、 神から引き離されてしまった霊的な状態を意味します。パウロは「あなた方は、かつては 罪の中に死んでいたものである」(エペソ2:1)と語っています。 テレビのインタビューで恐ろしい事故や災害にあった人が「何も悪いことをしていないのに、なんでこんなひどい目に遭わなければならないのか」と訴える言葉をしばしば耳にします。「神も仏もあるものか」と、どこにもぶつけられない憤りを言葉にする人の気持ちには共感できます。しかし聖書の神は、決して人に災いをもたらしたり、悪に引きずり込んだり、誘惑をなさる方ではありません。神は「私のもとに帰れ」と招いてくださるお方であり、重荷を負っている方はここに来なさいと呼びかけてくださるお方です。 一方、サタンは「神から去れ」と誘惑する悪しき霊的な力です。神は決して人を誘惑しません。
ヤコブはむしろ、ここで 「人間の欲が罪を生み、死をもたらす」と人間の問題に焦点をあてています。死には、肉体の死ばかりでなく、神から断絶してしまっている「霊的な死」(エペソ2:1)があり、さらに悲惨な永遠の死(裁き)の3種類があります。欲は罪を産み、罪は霊的な死と永遠の死を招き入れる可能性があります。
神は地上におけるどんな失敗も過ちも罪も十字架の赦しの中に置かれ、悔い改めて再び立ち直るチャンスを幾度も与えてくださる恵みに満ちたお方です。私たちに完全無欠を要求し、監視しているような恐ろしい裁きの神ではないことを覚えましょう。
2. 第二にヤコブは、神は愛する子たちに良い贈り物のみを与えると語っています。
1. ヤコブは神を「父なる神」と呼んでいます。イエスの弟であるヤコブはイエス様がいつも「父」と呼んで祈っている姿を幾度も身近に目撃しました。さらに、イエス様のそばに寄り添っていた愛弟子のヨハネは「父よ」という言葉を28回も福音書の中で用いています。 ユダヤ人にとって神は聖なる神、いと高き近寄りがたい裁きの神として受けとめられていましたが、 イエス様は弟子たちに「アバ父よ」と呼びかけるような親しい、愛と信頼に満ちた親子関係の中に招いてくださいました。
2. その父なる神の真実と、愛と、恵みは決して変化せず、移り変わることもなく(17)、不変であることをヤコブは明らかにしています。空に輝く太陽や月や星もいつも同じではなく、季節によって移り変わっていきます。オリオン座や牡牛座のような冬の星座もあれば、白鳥座やわし座のような夏の星座もあり、天のもろもろの星は季節ごとに姿を変えていきます。光そのものが消えてしまう日蝕や月蝕という闇や陰さえあります。このようにすべてが移り変わる世にあって、神はまことの光であり、神には影や闇は一切、存在しません。だから安心して信じることができ、心安らかにすべてを委ねることができるのです。
3. 永遠なる真実な神は、愛する者たちに良い贈り物を与えてくださいます
父なる神の御心は、私たちから奪うこと、要求すること、求めることではなく、常にギフトされる神、与えることを喜びとされる神です。父なる神は、御子さえも惜しまずに私たちの罪の赦しのために世に与えてくださいました。 御子は私たちが豊かになるために、貧しくなって十字架の上でいのちさえ捨てて、永遠の裁きと死から私たちを救いだしてくださいました。良きものを、贈り物(賜物)として、与えてくださる父なる神ですから、欲のために私たちが暴走し、道を外れてしまうことを喜ばれません。神が与えてくださるもので、必ず私たちは満たされます。それは最も良い物だからです。後からその真価がわかることもしばしばあります。
欲深さを自分でコントロールすることは確かに難しいことです。神が与えてくださるもので満ち足りることこそ、幸せと言えます。だから、安心して父なる神に願い求め、神からいただいた良き物に感謝しましょう。 安心して贈り物を受け取りましょう。神が後から法外な請求書を送りつけてきたり、お返しを要求するというようなことはありません。ある中学生がバレンタインの贈り物を隣のクラスの女子から初めて受け取りました。1ヶ月後のホワイトデーに何もお返しをしなかったので、その子が教室にまで来て大声で「お返しはどうなった!」と、みんなの前で要求したため、彼は真っ青になったそうです。神は良きお方であり、良き贈り物をもって私たちを満たしてくださいます。だから私たちは欲から解放され、与えらえたもので満ち足りることを学べるのです。感謝。
4. 最後に覚えましょう。神はむしろ私たちを被造物の「初穂」(18)として、真理のみ言葉をもって新しく生まれ変わらせてくださいました。 その目的は、私たちと教会が、神様の御心をこの地上の現実生活の中に、たとえ小さなことしかできなくても、具体的に行っていくことであり、心を尽くすことを意味しています。この世界は全被造物がやがて回復をする贖いの日(ロマ8:21)を待っています。 キリストの再臨とともに失われたものが全て回復し、完成する日を迎えます。ですから、ヤコブは「みことばを行う人になりなさい」と、私たちに呼びかけているのです。律法を厳守せよという意味ではなく、神の御心(神を愛し、隣人を愛し、自分を受け入れありのままの自分を愛する愛)をひとつひとつ、日常生活の場で、実を結んでいくことを意味しています。この働きのために、私たちはキリストにあって新しく誕生したのですから。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」 (エペソ2:8-10)