【福音宣教】 みことばを行う人とは

「みことばを行う人になりなさい。ただ聞くだけの者あってはなりません」(ヤコブ1:22)

20240505

今日の中心 聖句は「御言葉を実行する人となりなさい。 聞くだけのものであってはいけません」(22)です。神の言葉を聞くだけの人は、自分の顔を鏡で見てもすぐに忘れ去ってしまうようなものだとヤコブはたとえを用いて語っています。忘れてしまうのはしっかりと心にとどまっていないとことを意味しています。毎日のように私たちは自分の顔を鏡に映して見ています。クマができたな、シミが発生したなあ、小じわがめっきり増えてきたなあとか、今日はお肌にツヤがあるなとか、 一喜一憂しますけれども、さて自分の顔をしっかりと思い出して書くことができるかとなると「あれ」どうだったかなと途端に怪しくなってきます。聞いた御言葉を心の内にしっかりととどめなさいと語るヤコブのことばには説得力があります。今日は3つのことを学びます。神の御言葉とは、神の言葉を行うとは、神の言葉を聴くとは、ではご一緒に聖書に耳を傾けてまいりましょう。

1. 神の言葉

・まず私たちは「神の言葉」の定義を確認したいと思います。ユダヤ人にとっては神の言葉とは、最も権威あるモーセの律法を意味しました。モーセの律法は 内容的には10戒を中核として 道徳的な戒律(道徳律)と幕屋や神殿における様々なユダヤ教独自な祭儀に関する戒律(祭儀律)、そしてユダヤ民族国家、市民生活に関する法律的な戒律(司法律)の3要素から成り立っています。数で言えば 613の主要な戒律があり、それをしっかり聞いて学んで記憶して守っていく、それが御言葉を実行することであり、そのことによって救いを得ると考えられていました。律法は神の選びの民であるユダヤ民族としての誇りとアイデンティティを形成する重要な戒めであり、行く道の光そのものでした。

 ・一方、新約時代、教会の時代に生きる私たちにとって、神の言葉とは神の御子イエスキリストの言葉と彼が成就した救いの御業を指します。キリストの言葉は父なる神の言葉そのものであり、キリストの御業とは、十字架の死と復活を意味します。十字架の身代わりの死による罪の赦しと復活による永遠のいのちの希望と約束が中心であり、キリストによって成就された罪の赦しと永遠のいのちの希望を信じることによって救われるというよき知らせ、これをキリストの福音と言います。旧約時代のように 律法を守ることによって救いを得るのではなく、キリストとその御業を信じることによって救いを得ることができるという新しい良き知らせ「福音」の道が用意されたのでした。

・イエス様は当時の律法の専門家たちであるパリサイ人たちとの論争において、旧約聖書の戒めを「神を愛し、隣人を愛する」という2つに要約されました。マタイ2237-40では、「律法と預言者つまり旧約聖書の道徳的な戒律はこの2つにかかっている」と言われました。

・さらにイエス様は弟子たちに対して「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1334 と二つを一つに集約されました。このことを受けて パウロは福音を「キリストの律法」( 1コリント921)と呼んでいます。イエス様の弟子であるヨハネは「新しい命令」( 1ヨハネ27-8 51-3)。イエス様の弟であるヤコブは「自由で完全な律法」(25)と呼び、 さらに28節では「最高の律法」(王の律法、ロイヤルつまり高貴な権威と尊厳に満ちた律法)と表現しました。

ヤコブがあえてキリストの福音と言わずにキリストの律法という表現を使ったのは、この手紙を書き送った対象が異邦人ではなくてユダヤ人たちだったからです。 彼らはモーセの律法が与えられたことを誇りとし最も権威あるものとみなしていましたから、受け入れられやすいように「律法」という言葉をあえて用いたのでした。確かに、神のしもべであり偉大な預言者であるモーセによって神から与えられた律法には権威がありました。 しかしモーセ以上に権威と威光と尊厳に満ちたお方は、神の御子イエスキリスト以外にどこにも存在しません。復活されたキリストは天に帰るにあたり、「私は天と地のすべての権威を授けられた」(マタイ2818)と宣言された、預言者以上のお方です。したがって、モーセの律法にはるかに勝って、キリストの律法という言葉には大いなる力と権威が伴っています。キリストの言葉には、あなたがたの魂を救う力がある!のです。

2 みことばを行う人とは

 では神の言葉、キリストの言葉を行うとはどういう意味でしょうか。まず注意したいことがあります。それはキリストの言葉を行うとき、モーセの律法を守らなければならないと考えたパリサイ人たちと同じ発想に陥ってはならないという点です。キリストの言葉を行うというのは私たち自身の力によってではなくて、それをキリストご自身が可能としてくださるという点を覚えましょう。旧約時代のユダヤ教ではモーセの律法をことごとく守ることが求められました。しかし一体、誰が完全にまっとうできるでしょうか。律法はたとえれば、613 もの輪でつながれた一本の鎖のようなものです。一つだけ外れてしまっても鎖は解け、無益になってしまいます。パウロはこれを「律法の呪い」と表現しました。新約時代の私たちにも、キリストの言葉をことごとく守り抜くことが求められているのでしょうか。キリストの言葉を私たちが守るというのではなく、私たちを父なる神がキリストのもとへ召してくださり、神の御霊を通してキリストの言葉を聞かせてくださることからすべてが始まります。そしてキリストの言葉を聞くとき、キリストの言葉が私たちに触れてくる、出会ってくる。私たちの内側から魂の内面からキリストの言葉が私たちを動かしていくのです。

スイスの改革派牧師のトュルナイゼンが、「キリストの御言葉が私たち自身に出会い、私の全ての生命、体と魂を持つ私を突き動かし、ついに自分の生活をこの御言葉によって捉えられたもの、これに固着するもの、これに動かされるもの、これに担われるものとして、私は生きるのである」と感動的に表現しています。これが、ナチス・ヒトラーに対して激しく抵抗する彼の運動の根源的原動力であったと言われています。もし私たちが、キリストの言葉を守らなければならない、従わなければならないと受け止めてしまうとすると、ユダヤ教徒がモーセの律法を守らなければならない、従わなければならないとみなしたことと変わりばえがしません。それは外側から規制され命令され束縛され支配される行いだからです。しかしキリストの言葉は、内側から私たちに呼びかけ、私たちを突き動かし、行動へと促します。それゆえヤコブは「完全で自由な律法」と表現したのです。私たちがどんな人生の問題や悩みや苦悩に直面することがあったとしても、私たちはこのキリストの内なる言葉に支えられ、歩み続けてゆくことができます。一切の権威が与えられたキリストのみ力の前に、このお方が叶わぬものなど何一つない。罪も思い煩いも心配も何もありません。イエス様ご自身が「誰も私の手から彼らを奪うものはない」(ヨハネ1028)と宣言してくださっていますから、大丈夫。

3. キリストの言葉を聞く

教会はキリストの言葉を聞くことができる唯一の恵みの場 、恵みの座です。 決して牧師の講演を聞く会場ではありません。 ヤコブは2章の8節でキリストの言葉は、ノモン・バシリコス、LAWROYAR ローロイヤル、すなわち王の言葉、最高の律法と表現しました。モーセの律法のように聞いて従う言葉ではなく、聞いた者の魂の内から 突き動かし、そうしなければならないのではなく、そうしたくなるように導かれる言葉です。 聞くだけの者からそれを自発的に実際的に行う者へと変えていく力を持っています。そのためには御言葉をキリストの言葉をよく「見つめ」「離れず硬く留める」(25)ことが求められています。 御言葉には魂を救う力があります。神の御心が天でなるように、この地においてもなるように、小さな者たちを通して、導くことを、主は願っておられます。王のことばを受けて、促されて、みことばを自ら進んで行うことを喜びとしたいものです。

・キリストの言葉は、私たちに「行動」を引き起こすだけではありません。まず、私たちに「居場所」を備え、そこに招いてくださっていることを覚えましょう。このままここにいていいのだ、安心して私の中にいなさい、安らぎなさい、ここがあなたに備えられた場所であるとイエス様が呼びかけていることを覚えましょう。キリストが用意してくださった住まいは、天にあるだけでなく、今ここに、あなたのもとに、教会にあるのですから(ヨハネ141-2)。キリストと共にある安らぎの中で、キリストの言葉を聴く者とされていることを感謝しましょう。

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