【福音宣教】 差別と偏見の壁を越えて

あなたがたは栄光の主イエスキリストを信じる信仰をもっているのですから、人をえこひいきしてはいけません」(21

20240519


今日はペンテコステ礼拝です。なにか一つ赤い色の小物を身に着けて礼拝に出席しましょうと呼びかけましたから、今日は講壇から見ているとお花畑のような美しい光景です。

ペンテコステとはギリシャ語で50日目という意味です。イエス様が私たちの罪を贖うために十字架に架けられ,死にて葬られて3日目に復活されたイースター・復活日から50日目を指します。この日、エルサレムを離れず、市内の家の集会所に集い、礼拝と祈りを捧げていた120人ほどの小さな弟子たちの群れに、天から聖霊がくだり、エルサレムに新しい信仰の共同体である「教会」が誕生しました。この日をペンテコステ(聖霊降臨日)と言います。                      この日には画期的な3つの出来事が起きました。

第一は、旧約聖書の預言が成就したことです。ペテロはこの出来事を預言者ヨエルの預言が成就したのだと(使徒116-21)宣言しました。旧約時代、神の御霊は限定的でした。特定の人に特定の目的のため、特定の期間だけ、特別に神の御霊が注がれました。ところがペンテコステの日以後、
キリストを信じるすべての人に、神からの贈り物として、神の御霊が与えられるようになりました。ユダヤ民族にだけでなく、世界中のすべての民が、民族や人種、ことばの違いといった差異を超え、分け隔てなく、聖霊が神からの最高の贈り物として与えられたことは大きな恵みでした。

第二は、エルサレムにイエスをキリスト信じ告白する新しい共同体「教会」が誕生したことです。

神の御霊に満たされたペテロは大胆に大通りに出て行って宣教しました(使徒238-39)。すると3000人もの人々が悔い改めてイエス様を救い主と、信じ、バプテスマを受け、弟子たちの仲間に加わりました。彼らは共に一つの御霊に導かれて礼拝をささげ、聖餐式を守り、祈り合いました。この日はまさに地上に教会が誕生した「創立記念日」でもありました。

神様が御霊によって建てられた教会の中には、ユダヤ人だけでなく、異邦人と呼ばれた外国人も多く招き入れられました。支配者であるローマの貴族階級の人々も、被支配者である奴隷階級の人々も、ローマの市民権を持つ裕福な人々も寡婦や孤児と言った貧しい人々も、知識人も無学な人々も、御霊に導かれてともに集い、礼拝をささげ、一つの食卓を囲み、交わりを持ち、たえず祈り合っていました。当時としては考えられないような世界が存在していました。そこには何の偏見も差別も見られず、教会の中に壁がなかったと言ってよいでしょう。

戦国武将の一人、キリシタン大名として有名な高槻城主、高山右近と父飛騨の守は、秀吉の信望厚い人物でした。城壁や城づくりの名人であり、茶人としても秀いでていました。信者の農民が天に召されたとき、この親子は自ら葬儀委員長をかって出て、埋葬するための墓の穴も掘ったそうです。大名と農民といった身分差別が激しい時代に考えられない行動でしたが、この親子にとっては、神の前には平等であり、神の家族を丁寧に葬ることは、ごく自然な営みだったのです。神の御霊がくだり、神の御霊が満ちていく世界では、さまざまな偏見、差別の壁が低くなる、あるいは崩れていく、あるいは取り除かれていきます。偏見や差別の壁は社会的につくりあげられていきますが、私たち一人一人の心の中にも、「目に見えない隠れた差別と偏見の壁」が存在していることを自覚しましょう。

第三は、神の御霊は父なる神と御子イエスキリストを信じる者の心の中に住み、その人生を御霊による愛と平安と喜びで満たし導かれることです。ヨハネ1416-172326では、御霊が住まわれる(聖霊の内住といいます)と表現されるほど、生き生きとした神との交わり、まさに神がともにおられる、インマヌエルの恵みの世界が贈り物として与えられる約束が記されています。キリストが住まわれるから一人一人の心の内なる壁、すなわち偏見・差別・敵意・対立が崩され、その瓦礫が取り除かれ、代わりに、違いを認め合い、互いを敬い、共に生きる「寛容と共存」の精神が養われるのです。

今日のヤコブの手紙では、「あなたがたは栄光の主イエスキリストを信じる信仰をもっているのですから、人をえこひいきしてはいけません」(21と記されています。

ヤコブはすでにエルサレム教会の中に、「えこひいき」という極めて人間的な欲と損得勘定に根差した「差別」が存在している事実を見逃さず、それは「差別であり」「悪しき考え」(4)であり、「裁かれるべき罪を犯している」(9)と断罪しています。さらに2-3節でヤコブは具体例を挙げています。金持ちは歓迎され上等な椅子に案内され、みすぼらしい貧しい身なりの者は、後ろで立っているか床に座っていろと言われる。誇張かもしれませんが、おおげさな表現ではなく、似たような光景がいたるところで見られたようです。

えこひいきという言葉は、「分け隔てる」、「偏り見る」とも訳されています。栄光の主を信じる信仰と人を偏り見る、分け隔てるという行為とは決して両立しません。「神はえこひいきをされない」(ロマ211)お方であるのに、その神を信じる人間がえこひいきをするなら、自己矛盾です。

ヤコブは、教会の中の「えこひいき」が、やがて「差別」「蔑視」「しいたげ」となり、交わりを損ない、分断を引き超すことを懸念しているのです。ユダヤ教のラビ文献には、裁判官に対して、良い服装の者とぼろを着た者との間の裁判では、裁判官に偏りが生じないように、両者に同じ服を着させることが記されているそうです。韓国では「有銭無罪、無銭有罪」と賄賂がまかり通る社会を痛烈に非難する言葉があり、映画化もされ、公平な裁判を保障するために法律が改正されたそうです。

おりしもペンテコステ礼拝のこの日、私たちは神の御霊が注がれ、御霊に満たれた教会の中には、差別や偏見が存在していない本来の姿を学びました。理想と現実との間には常にギャップが存在することは避けられませんが、神の御霊は教会の中に差別ではなく平等を、偏見ではなく愛と寛容をもたらすことができます。神が御霊によって建てられたエルサレム教会には、ユダヤ人や異邦人といった民族・人種の差別や偏見の壁が御霊によって取り去られていました。ローマ市民権を持つ裕福な階層の人々も圧倒的に多数を占めていた奴隷階級の人々も、ともに一つの食卓を囲むことができる共存の世界でした。やもめや孤児、病める人々など社会的弱者と呼ばれる無力で貧しく頼るべきものが何もない者たちのために、食事が提供され、衣服が用意され、生活が支援され、病める人は看護され、まさに隣人愛が目に見える共同体でした。

にもかかわらず、まだ十数年しかたっていない教会に「えこひいき」といった人間的な罪が広がり、偏見、差別、蔑視、嫌悪や敵意、対立さらには排除の理論がまかり通るようになってしまえば、主のからだである教会が病んでしまう、傷ついてしまうと、ヤコブは警告しているのです。

1節の「あなたがたは栄光の主イエスキリストを信じる信仰をもっているのですから、人をえこひいきしてはいけません」(21)との言葉は、現代に生きる私たちにも、聖霊が問いかけていることばではないでしょうか。

私たちの身近にも、今もなお多くの差別、根拠のない偏見、生理的な拒絶感や異質なものを排除しようとする悪意が満ちています。私たちの心の中に目に見えない壁が有り、しかも無自覚のまま存在しています。

たとえば、身体であれ、精神であれ、知的であれ、障碍者に対する偏見によって、こうした施設が町内で建設されるとなれば一気に反対運動が起き、建築計画がとん挫することがあると、しばしば耳にします。その主な理由が、自分たちの生活の安心と安全が脅かされるから、土地の評価額がさがってしまうからとなれば、なにをやいわんです。ある学者は「相手の立場に身を置けば、見える世界が違ってくるはずだ、それが共生社会というものです」と語っています。

イエス様は相手が誰であれ、一人一人を大切にし、愛されました。私たちもイエス様の愛を経験しました。そのイエス様が心の中に住まわれているのですから、私たちも身近なところから、あらゆる差別や偏見の壁を崩していく取り組みを御霊に促され、強められながら、進めていきたいものです。

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