【福音宣教】  貧しい人は幸いいです

愛する者たち。神のこの世の貧しい人たちを選んで信仰に富むものとし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか」(25

20240526

昨日は京阪奈キリスト教会で伝道会に招かれご奉仕をしてきました。荒川牧師をお迎えするまで2-3年、お手伝いをさせていただいた教会です。なんと25年も経っています。懐かしいお顔を見てうれしく思いました。「あの頃は若かったですね。だいぶポンコツになりましたね。お互い」と語ると大爆笑が起こりました。あたまは白髪、シニアカ―に乗って来られたご婦人もいました。でも、笑顔は少しも変わらない。瞳がむかしのように輝いている。クリスチャンは年をとってもこころは老けこんでいない、少年少女のままです。一人の高齢のご主人が洗礼を決心されました。長年の奥様の祈りが答えられ感謝でした。登校拒否や引き込もり青年の支援をしている団体が作った「もやしの歌」があるそうです。「もう、いや、死にたい」でも2番は「もう、やばい、しあわせ」と。人生は長い、今はつらくてもきっといいこともある。あきらめずに歩もうという願いを込めた歌だそうです。私たちも、父なる神様と御子イエス様への感謝の歌を歌いつつ歩み続けてまいりましょう。

今日の聖書箇所は先週の続きです。1節「栄光の主キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきしてはなりません」。5節「自分たちの間で差別をし、悪い考えで裁く者」であってはなりません。ヤコブの時代、えこひいき、分け隔て、差別の対象となった人々は「孤児ややもめたち」(127)がその代表でした。彼らは、一人では決して食べいくことも、生きていくこともできない無力で小さな存在であり、まさに「この世の貧しい人々」(5)でした。15節では「着る者もなく裸で、食べ物にも事欠いている」にもかかわらず「この世の富める者から、辱しめられ、虐げられている人々」(6)でした。

1. 小さくされた、貧しくされた人々

「この世の貧しい人々」と表現しましたが、実は彼らは「この世で貧しくされた人々」なのだという視点をもつことを忘れてはなりません。怠けていたから貧しくなったのではありません。一生懸命まじめに働いていても、病気や事故で働けなくなったり、会社が倒産したり、だまされて巨額の負債を背負わされたのかもしれません。自ら選んでやもめになったのではありません。愛する夫が突然なくなり、一家を支える大黒柱が根こそぎ抜き去られ、生活の糧を得ることができなくなったのかもしれません。ましてやすき好んで孤児になったおさない子供など一人もいません。お父さんもお母さんも大嫌いだから「よし、孤児になってやろう」などという子供はいません。だれよりも深い悲しみを背負った子供たちです。それは社会の仕組みや構造がそうさせたといってもいいでしょう。

弱肉強食の産業構造が、経済的弱者を生み出した。極端な場合、内紛や戦争が多くの孤児たちを作り出した。彼らは貧しくなった、小さな者となったのではなく、貧しくされた人々であり、小さくされた人々なのです。こうした視点をもってこそ、小さくされた者、貧しくされた者への「共感」と「寄り添い」がおのずと生まれ、隣人への愛が、兄弟姉妹への愛が深められていくのです。

これはカトリックの神父で、神学者でありながら大阪釜ヶ崎で日雇い労働者たちの間で支援活動をしている本田哲郎神父の聖書理解です。「小さくされた者の側に立つ神」が神父の信じる神なのです。F・アイへンバーグの「炊き出しの列に並ぶイエス」と相通じる視点です。本田神父の書かれた本を教会のメンバーの一人から紹介され、読み進め、私もたいへん共鳴共感しました。牧師が信徒に良書を勧めますが、信徒が牧師に良書を勧めてくださることも良いことです。私たちは生涯、学び続けていく主の弟子だからです。

ヤコブは行いの伴わない信仰は不毛だと強調していますが、表面的な行いや形式的な実践ではなく、貧しくされた者たち、やもめとされた者たち、孤児とされた子供たちへの社会的「理解」が必要です。その痛みを他人事としてではなく、自分のこととして感じとる「同じ立場に立つ感性」なくしては、真の意味での隣人への愛の「行い(奉仕)」は生まれてこないと言えます。 

2. こころの貧しい人は幸いです

イエス様は「貧しい人は幸いです、神の国はあなたがたのものだから」(ルカ620)と言われました。マタイは「こころの貧しい人」(マタイ53)と精神化しています。貧しいというギリシャ語は本来、「文無し、文字通り何も持っていない状態」を意味することばです。大富豪を大金持ちといい、中富豪を小金持ち、庶民はへそくり持ちと分類すれば、貧しい人は手持ち資金ゼロの人です。からっぽ、何もない。周囲の人の助けがなければ飢えて死んでしまうレベルの人を指しています。精神化して「こころの貧しい人」となれば、人に自慢したり誇ったりできるものがなにもない人々を指します。

反対に「自分の力で私はこれこれのことができます、うまくやれます、成功する自信があります、実績もたっぷりあります」と言う人々は、ほとんど「だから神様に頼る必要はありません。いまのところ、神様なしでも十分、間に合っています」のでと、神様と距離をとってしまうのです。神を信じないというわけではないけれど、今のところ神様を受け入れる部屋が塞がっている状態。

でも、「貧しい人々」は、神により頼み、神に信頼し、神に今日一日を委ね、そして明日一日をも委ねて生きていくしかない。だから「神様が選んで」(5)、「さあ、安心しなさい」私がいるからと招いてくださったのです。そして、父なる神様と御子キリストは、喜んで、その人の人生を共に歩みだしてくださいます。だから「貧しい人は幸いだ」とイエス様は祝福しておられるのです。「目に見えない神様じゃ、あてにならない、安心できない」と案ずるのが不信仰ならば、「おまかせします」と安心して委ねるのが信仰です。

イエス様が誕生される夜、ベツレヘムの宿屋はどこもかしこも人であふれかえり、落ち着いて身を横たえ眠る場所どころか、座る場所さえも見つからない状態でした。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(ルカ27)。有り余るほどの物に囲まれ満たされていながら、「神を迎える余地がない」ことは「豊かさの中の大きな喪失、悲劇」ではないでしょうか。

100歳を超えても現役で患者さんを診ておられた日野原重明先生は「私たちには未来のことはわかりません。一寸先は闇です。人生は最後まで未知数です」と言われました。

人生は最後まで未知数。人間的な計算や周到な計画をもってしても図り切れません。だからこそ、神への揺るがない信仰をいただいて、今日一日を委ねて歩むことがゆるされているのです。そう考えれば、貧しさの故に、神に信頼するしかないことを学び、信仰を贈り物として与えられ、神を知った恵みはどれほど大きなものでしょうか。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」  (1コリントⅠ:27-29)

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